27 / 72

【第1部 朝露を散らす者】21.骨でできた棺

 どこかで誰かが歌っている。  知らない歌だった。ハミング。いや、言葉だ。  でもこの言葉、この言葉をつくる音を僕は知らない。他の言葉、あるいは言葉ですらない何かの反響だと僕は思う。僕はこの歌を知らない。  知らないのだから歌えるはずがない。  なのにふと僕は気づく。歌は僕の口から出ている。  歌っているのは僕だ。  いや、そんなはずはない。僕には歌えない。歌えるのは――  誰かが近づいてくる。僕はまだ歌っている。歌いながら近づいてくる者をみる。懐かしい人だ。僕はこの人を知っている。彼を呼ばなければならなかった。僕は歌いながら言葉を探す。まさに今やっているように呼ばなければならないのだ。彼の名前。何だっただろう? 肝心なのは音の組み合わせだ。いくつかの音。リズム。旋律。くりかえされて歌になる。  歌になる。  眼を覚ますと寝台にひとりでいた。窓の外は明るかった。身支度をしながら僕はいましがたの夢について考えていた。最近たまに見る、呼ばれる夢ではなかった。僕が呼ぶ夢だった。  階下へ降りるとクルトが台所で朝食の用意をしていた。彼は何かというとハミングをしたり鼻歌をうたったりするが、今日は静かにお茶を入れているだけだ。さっきの夢にクルトの歌がはいりこんでいたわけではない。  足音で気がついたのか、クルトは眼をあげて短く「おはよう」といった。彼には珍しくぶっきらぼうないい方だった。 「おはよう。今日はどこかへ行くのか?」  そうたずねたのはクルトがすでにローブを身に着けていたからだ。昨日彼は何度か短い外出をしては戻ってきて、そのたびに僕の作業机の横に座っていた。店の雑用を手伝いながら僕と話をして、会話の行方が険悪になったころに出ていき、また戻ってくる。そんなことを繰り返していた。 「ああ。食べたら出る」  クルトは朝食の皿をテーブルに並べ、さっさと席についてパンにバターを塗った。僕は向かいに座ってお茶を飲んだ。 「どこへ?」  クルトは朝からよく食べるが、僕はそうはいかない。 「王城だ。ダーラム師と話をしてくる」 「それは」 「もちろん断りに行く。結論は出ているといっただろう?」 「だけどまだ」  僕はいいかけて口をつぐんだ。これでは昨日の議論のくりかえしだ。クルトはその隙をつくように言葉をつづけた。 「村に帰る手配もしないと」 「レナードに断らないとだめだろう」  僕は慌てて口を挟んだ。カリーの店の所有権は半分レナードにある。父のことで馬車の都合をつけてもらって間もないし、王都を離れるなら経営の話もしなければならない。いや、そもそも僕らは王都を離れるべきじゃない。 「わかってる。早く決めるさ」  クルトは僕にかまわずお茶を飲みほした。 「ソールが何といおうと俺の気は変わらない。行ってくる」  バタンと音を立てて店の扉が閉まった。  これまでクルトと小さな喧嘩なら何度もしたものだ。ちょっとしたきっかけで仲直りするのがふつうで、遅くとも翌朝には解消していた。しかし今回はちがった。話はいつも平行線に終わってしまい、僕の帰郷にクルトがついてくるといって揉めたときのような譲歩はできなかった。何度目かの口論のさなかにクルトは僕を頑なだといったが、僕は僕でクルトの見通しの甘さをいいつのって、彼を怒らせてしまっていた。  もっともその点はいささか反省していた。いくら彼が僕より十歳下だからといって、彼の判断が間違っているとは限らない。それは僕もわかっている……つもりだ。  けれど許容できることとできないことがあった。僕はクルトに後悔してほしくなかった。後悔まみれの人生など僕だけでじゅうぶんだ。クルトはあっさり断るといったが、白のローブだけでなく、王立魔術団の重鎮じきじきの要請を蹴るなど、僕には受け入れ難かった。  クルトも何年か後になれば、一時の状況に流されて判断を間違ったと思うかもしれない。ダーラム師は学院の伝説的な卒業生だった。僕が学生だった時、彼は史上初の若さで『八の燭台』に任命された。王城での仕事がどんなものであれ、彼が直接もちかけたというだけで、クルトがどれだけ買われているか知れるというものだ。  クルトがサージュにやたらと敵意を燃やしている理由も僕にはよくわからなかった。もともと書物や出版関係というのはそれほどきれいな仕事ではない。身分のある人間にへつらうこともあれば盗品を扱うこともある。書物の出版を望む者も高潔とはかぎらない。時に怪しげな取引に巻きこまれることもある。稀覯本がらみとくればなおさらだ。  サージュは僕の経験からいえばまともな方だった。どちらかといえば、見た目や声、それに態度で損をしていると思う。同業者にはろくな知識もないくせにハッタリだけで違法すれすれの取引をまとめて荒稼ぎしている者もいるのだ。  その点サージュの学識は信頼がおけるもので、一昨日彼が持ってきた草稿も半可通には扱えないしろものだった。最初に出会ったのは港湾都市の版元だが、王都以外でそんな人間と知り合いになれると思っていなかった僕としては、サージュとの出会いは嬉しい驚きに属するものだった。  サージュの別の側面は気にしていないわけではなかった。魔力が安定しないとクルトがいった点については特に。僕は魔力を直接感じることができないが、もしサージュの魔力の気配が極端に上下しているのなら、彼はまだ魔力増幅薬を常用している可能性が高い。とするとあの発作も十分納得がいく。次に彼が店に来たら眼鏡をかけてみよう。眼鏡なしの僕は魔力の所在すらわからないのだ。  ところがその機会はすぐにやってきた。正午ごろにサージュがまたふらりとあらわれたからだ。  客もいないので、僕はレナードに託された金属活字を調べていたところだった。扉は静かにひらき、店に入ってきたサージュの動作はなめらかだったが、顔色は悪かった。もともと浅黒いがさらにどす黒く、眼の下は大きくくぼんでいる。  僕は思い出して眼鏡をかけた。虹色の光がぼうっとにじみ、点滅している。ときたま大きな炎のようになって、またにじむ。 「よう」  サージュがいった。 「大丈夫か?」  僕は思わずそういってしまったが、サージュは怪訝そうな表情でまなじりをあげただけだ。僕はうつむいて眼鏡をはずず。わざとらしく見えないか気になった。 「それ。前にも見たな」  サージュが僕の前に立ち、机の上を指さす。 「ん? ああ……」  僕は深い意味もなく金属活字を彼の方へ押しやった。長い指が銀色の金属を撫でる。 「触ってもいいか?」 「ああ。今日はどうした? 座れよ」  サージュは腰を下ろした。長い足が机の横へ飛び出している。 「昨日ひとつ思いついたことがある。それを話しに来た」 「ああ、それはいいが……」僕は無意識に眉をよせていた。 「サージュ、お節介をする気はないが、ほんとうに大丈夫なのか? きみは……やめていないだろう。例の薬だ」  サージュは唇のはしをあげた。笑ったとも気分を害したともつかない表情だった。僕はゆっくりといった。 「何年か前にやっていたことがある」 「あんたが?」 「ああ。いろいろと……行き詰ってね。理屈で考えてのことではあったが」 「魔力を取り戻そうと?」 「そう」 「どこで手に入れた?」 「施療院でこっそり」 「なんだ、あんたお堅くみえて、やるな」 「褒められることじゃない。見逃してもらったんだ。それに失敗だった」  サージュは机に肘をついた。両手で金属活字を弄んでいる。 「まったく効かなかったのか?」  眼をあげずにそれだけたずねる。僕は答えた。 「効いたよ。魔力は戻らなかったが、気分なら……力があるときの感じがほんのすこしのあいだ戻ってきた。夢みたいなものだ。それとも錯覚」 「錯覚」 「錯覚でもないよりはよかった。最初の一度はね。それが二度、三度になって――抜けるのに苦労した。悪いことはいわない。きみも早めに抜けるんだ」 「俺は大丈夫だ。そこまでハマってない」 「そうか? このまえのは発作じゃないのか。いつでもやめられるなんて思うのも錯覚だ。実際に力が増すならなおさらだろう? 毎回これで最後だと考える。次はもうない。いつも最後の一度に賭けようと思うんだ。くりかえすうちに賭け金がつりあがり、引き返すのが難しくなる。僕は施療院の治療師にいわれたよ。自分の骨で棺桶をつくるなとね」  サージュの口元がわずかにゆがんだ。指はあいかわらず金属棒を弄っている。 「棺桶か。心するが――あんたこそ俺にかまってる場合じゃないだろう。例の〈本〉の話、爆弾を抱えて生きていくようなもんだ。しかも|王都《ここ》が合ってるようにも見えない。よく我慢しているな」 「僕はいいんだ」  僕は苦笑した。サージュがずっと弄んでいる金属活字に手をのばす。サージュはからかうような眼差しで僕の指を避けた。 「さっきからずっと触っているな」 「手触りが楽しい。そう、この前すこし話しただろう。『果ての塔』のことだが」 「天体観測所か? 北方の連合王国にあるとかいう……」 「正確にいえば天体観測所だけじゃない。あるじのレイコフは学者だが、観測所の塔が建つ島の領主でもある。回路魔術と精霊魔術、どちらも研究しているし、島には印刷所から製紙所まである」 「それはすごいな」 「俺はあるじにつてがある。そろそろこの国を離れようと思っていたところだ。なんなら同行しないか? レイコフにはあんたの〈本〉はこれ以上ない魅力だろう。謎も解けるかもしれない」  それは突然で、かつ思いがけない誘いだった。僕の方にも魅力がないわけではなかった。逆だ。大ありというべきだった。怖れもまじった魅力だった。僕の〈本〉にまつわる謎は学院も解明できないままだ。急激に知識への欲望がよみがえる。はじめての土地で、僕が及ばない知識を追求している学者なら、もしかしたら……。 「悪くないな」北方へ向かう自分を想像して僕は小さく笑った。 「でも……だめだ」  サージュの指はずっと動きつづけている。金属の銀色は指の中に消えてほとんど見えない。 「なぜだ? 王国の命令か? 外に出るなって?」 「それもある。この店もあるし」 「ここは共同経営じゃないのか。ちょっとくらい留守にしてもかまわんだろう」 「それでもだめだよ」  僕は小さく、しかしきっぱりつぶやいた。「僕は行かない」 「あんたの魔術師のせいか?」  僕はサージュの問いかけに答えようとして、できなかった。急に体が固いものにおおわれたように感じられた。周囲の空気が文字通りレンガか何かのように重く固い感触になったのだ。みえない塊が僕の喉、肩、背中、全身を押しつぶすように締めつける。視界のなかで銀色がひらめいた。サージュの指が動いている。 「あんたの答えは予想していたんだが」  足環がくるりと回転した。突然の攻撃に反応したのだ。何らかの回路魔術が働いたのだろう、僕をしめつけている固い空気がゆるんだ。僕はもがき、立ち上がろうとして、サージュに肩をつかまれた。机の上に顔を押しつけられる。 「あんたの防壁は厄介だ。物理攻撃しか受けつけないとは」  足環がまた回転した。木の板が裂けるような音がきこえた。バタンと大きな音が響き、空気を切る風の感触が僕の髪を揺らす。だがサージュの力はゆるまない。 「手荒な真似をしてすまん」  その声が最後だった。首のうしろに強い衝撃が走り、僕の意識は暗闇にのまれた。

ともだちにシェアしよう!