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【第1部 朝露を散らす者】22.星々の距離

 余計な口をきかずにさっさとカリーの店を出たものの、その朝のクルトはかなり腹を立てていた。ひとつはソールの頑固さに対して。もうひとつはソールの自己卑下に対して。最後のひとつは、クルトが何をいおうともソールがクルトを信じていないことに、である。  口論の終わりにソールの思考が行きつくところはいつも同じだった。自分のためにクルトが将来――現在ではない、いつ来るかもさだかでない将来だ――悔やむことになるのが嫌だ、という一点なのだ。そんな心配はいらないとどれだけクルトがいいつのってもソールが頑固にそこへ戻っていくのは、彼の奥底に根を張る自己不信のためだろう。そして自己不信は自己卑下へ直結する。  話の途中でソールが何度も「僕なんか」というのにクルトは強烈な憤りを感じていた。なにしろソール・カリーはこのクルト・ハスケルが愛している人物なのだ。自分が大切に思っているのは「僕なんか」などというような存在ではない。  クルトはどちらかといえば自信過剰に傾きがちな人間だったし、だからこそソールの自己卑下は彼自身にもはねかえって、ほとんど苦痛なほどだった。なのにソールはそんなクルトの気持ちに気づきもしない様子で、きみは将来のことをちゃんと考えていないのだ、などという。そのくせサージュのように怪しげな男を庇うわけである。  それでもひとつだけ、クルトにはっきりわかっていることがあった。ソールはクルトを愛しているし、クルトから離れたいわけでもないのだ。将来が将来がなどと起きてもいないことを心配するのはその裏返しだ。  だったらソールが予想するのとはちがう「将来」をさっさと引き寄せてしまえばいい。  もちまえの楽観主義でクルトはそう考え、気分を切り替えることにした。何といってもソールは父親を亡くしたばかりなのだ。王都の環境が合わなくて体調も悪いときては、悲観的な見方に傾くのもしかたがない。魔術師の位階やダーラムの要請といったクルトの事情はソールが何といおうとも、断ってしまえばそれで終わる。そして住民の多い都市を離れ、ふたりで海辺の時間の中で暮らせばいい。  最初から王都に来なければこんな風に悩むこともなかっただろうが、そこはそれ。すんだことを気にしても仕方がない。  ――と考えられるのがクルトの思考の最大の特徴で、ソールと対極をなすものだったが、何年一緒に暮らしてもクルトはソールと自分の相違を深く考えたことはなかった。身分ひとつをとってもそうで、ソールがいまだにクルトの生まれを気にしている理由もクルトにはよくわからなかった。  自分が何を行うかは自分の意志で決められるし、決めるべきものだ。無意識に頼りにしている信念をクルトは打ち砕かれた経験がなかった。この信念を裏打ちするのが、優位に生まれついた者にしか持てない圧倒的な自信だということにも、気づいていなかった。  王城へ行く前にレナードの屋敷に立ち寄ると、クルトを迎えたのは家令のハミルトンだった。自分は王都に戻ったばかりで、主人のレナードは回路魔術師に会いに行ったという。 「師団の塔ですか?」 「ええ。あなたもご存知のセッキ師です。そこでつかまえられると思います」  王城ならクルトにも都合がよかった。王立魔術団へ行ったあとで寄ろうと決めてハミルトンに礼をいい、まっすぐ王立魔術団の回廊をめざす。ダーラムへの面会は昨日のうちに念話で申しこんでいた。今日の回廊はクルトの感覚に少しざわついているように感じられた。物音がするわけではなく、誰かの思考のかけらが宙を漂っているように感じられる。ダーラムの部屋の扉の前でクルトは立ちどまった。向こう側に誰かがいる。  扉がひらく直前にクルトは脇に避けていた。豪勢な刺繍の服をまとった男の顔を見る前に、反射的に体をかがめ、腕を前に回して礼をする。  メストリン王子はちらりとクルトに眼をやったが、何も言葉をかけなかった。ゆったりした足取りで王子が回廊の先まで歩くのをクルトは見送った。王立魔術団の回廊は王宮と直結している。供も連れずにいるのは不思議でもないが、ここまで堂々とダーラムのところに出入りしているとは思わなかった。 『待たせて悪かった』  ダーラムの念話を受けてクルトは部屋へ入った。ダーラムは窓際に立ち、高い窓から差しこむ光で白いローブが輝いている。 『メストリン王子をお見かけしました』 『ああ、たびたびお見えになる』  ダーラムは何でもないことのようにいった。 『保留にした件について聞かせてもらえるんだろうな』 『はい。検討しましたが、お断りします』  クルトは単刀直入に伝えた。余計なことは思念に混ぜなかった。ダーラムのひたいが一瞬ぴくりと動いた。意外な答えだったのか? クルトは内心思ったものの、ダーラムから伝わるのは平静さだけだ。 『理由は?』 『今回の召喚で俺の能力を評価されたのは大変光栄です。その点は感謝しています。ですが、いま現在の立場を変える必要は感じません。俺は治療師であることに誇りを持っています』 『なるほど』  ダーラムはうなずいた。念話の便利な点は、少なくとも伝えた思念には嘘がないとお互いにわかっていることである。とはいえすべての事柄をあまさず伝えるわけではない。クルトは王都を離れたいなどとダーラムに話すつもりは微塵もなかった。 『確認だが、治療師でありたいというのはソール・カリーのため?』  答えをはぐらかす必要は感じなかった。 『そうです』 『私の審議部へ入れば彼にとっても悪くない結果が出せるかもしれない。そのことは考えてみたかね? ソール・カリーの問題はもちろんわかっている。私の審議部は審判の塔やレムニスケートに秘匿された情報もすべて集めることになる。彼を解放する突破口がみつかるかもしれないぞ。カリーの件は興味深い。私も力を貸すのにやぶさかではない』  この提案は予想外だった。クルトはほんのわずか返答につまった。突破口とはもちろんソールの〈本〉のことだろう。もしダーラムに協力することで〈本〉からソールを解放できるのなら、それはとてつもなく大きな魅力だ。クルト自身が力を貸せるというのならなおのこと。  クルトの確信が揺らいだのはそれほど長い時間ではなかった。しかしダーラムはさらに畳みかけてきた。 『メストリン王子の計画について、まだ詳しいことは伝えられない。だがきみも承知のように、お父上はメストリン王子を支持している。きみとお父上のあいだにはソール・カリーの件ですれちがいもあるようだね。私の審議部できみが彼の問題を解決できれば、この点も解消するかもしれない。悪くない話だと思うのだが』  重要な選択においてほとんど迷ったことがないクルトだが、確信はまたひとつ揺らいだ。ダーラムの話はもっともだと思ったのだ。父は今のところクルトを放任しているが、ハスケル家の後継問題はいずれ再燃するだろう。クルトは内心、今後父と対立したところでどうにかなると思っていたが、ソールの意見はちがっていた。ソールが自分の父親とうまくいかなかったせいかもしれない。  実際、父だけでなく他の家族のことを考えても、穏便なやり方で自分の身の振り方を認めてもらえる方が良いに決まっていた。ダーラムはそのきっかけになろうというのだ。おまけに、クルトが白のローブを受け取って王城に勤めるよう頑固に勧めていたのはソールの方ときている。  クルトは短いあいだにそこまで考えた。ダーラムの話を受けるべきではないかと本気で思ったのは否めない。そのときだった。唐突に、脳裏にあざやかな緑と青が浮かんだ。島で手に入れた髪飾りの色だ。今は毎日ソールの髪を留めている。 『やはりお断りします』  クルトはあらためてダーラムをみつめた。 『良い話なのは承知していますが、もう決めましたので』  ダーラムはうっすらと笑った。 『そうか。ではこれで引こう。治療師としてのきみの未来に幸多きことを』 『ありがとうございます』  一礼してきびすを返し、部屋を出ようとしたときだった。ダーラムの声が脳裏に響いた。 『きみは王立学院のヴェイユ教授と親しいのかね?』  クルトはふりむいた。声に出していった。 「恩師のひとりです。それが何か?」 「いや。興味があっただけだ。ひきとめてすまない」  もはや王都に用はない。足早に王城を横切って師団の塔へ向かったクルトはダーラムのことをすでに頭から締め出していた。セッキの研究室の扉は少し前にソールと訪れた時と同じく開け放たれている。物が床一面につまれている私室ではなく、広い方の部屋へ入ったとたん、レナードの声が聞こえた。 「――結局現地でははっきりした原因がわからないまま、発火の理由は回路魔術じゃないかというんですよ。でも男が咥えていた金属に回路らしきものがあるかというと」  小さなテーブルを前にふたりの男が座っている。こちらを向いているのは暗色のローブを着たセッキだ。クルトに向かって手を振った。向かいに座ったレナードがふりむき、クルトの顔を認めて破顔する。 「おや、ハスケル君」 「ひとりか。珍しいな。どうしたね?」  セッキがたずねた。 「お話し中すみません。レナードに急ぎの相談があって……」  クルトがしまいまでいわないうちにレナードが「ソールのことでしょうか」と口をはさんだ。自分の話が中断されたことは気にしていないらしい。 「ええ。ソールというか、俺たちのことです」 「ここでかまわないなら聞きましょう」とレナードがいう。  クルトは手短に話した。王都での自分の用件は終わったので、早く隣国の海辺の村に戻りたいということ。ソールの体調が心配だからこのまま冬を王都で過ごしたくないということ。もちろんダーラムの打診については話さない。王宮政治でレナードがどんな立場か、正確なところまでクルトは知らないし、どんなところに耳があるかわかったものではない。レナードは顎に手をあててクルトの話に集中している。 「なるほど。了解した。そうだな……」と腕を組みなおす。「足を手配して、あとは調整がいるな。馬車はハミルトンに伝えて準備させよう。王城内の根回しは三日ほどでまとめられると思う」 「ありがとうございます」  クルトは礼をいい、安堵しながら行動は早い方がいいとあらためて思った。出発までソールは何やかやいうかもしれないが、王都を出ればこっちのものだ。 「セッキ師、ソールの眼鏡や足環は大丈夫でしょうか?」 「足環はこの前あんたの魔力を補充して、調整したばかりだ。ちゃんと作動したようだし、問題ないだろう。眼鏡は使いにくそうかね?」 「俺のみるかぎりではそんな様子はありません。夏は船の上でも使っていましたが、壊れもしませんでした」 「頑丈には作ってあるんだ。隣国じゃ使う回数も王都より少ないんだろう? もし急ぎで何かあったら出発前に持ってくればいい」 「島といえば、ハスケル君」  レナードが思い出したようにいった。 「いまセッキ師に話していたんだが、例の死んだ男についてだ」  一瞬何の話をしているのかクルトにはわからなかった。すぐに思い出したが、夏の島での出来事を自分がすでに遠い話だと感じているのにはっとした。  しかし思い返すと、島での事件以来、自分とソールの周囲には大小の波が立ち続けているようだ。王都への召喚、ソールの父の死、故郷で襲撃にあったこと。港湾都市にいたサージュが王都にあらわれ、ソールを襲った男は学院の図書室の盗難未遂に関係していた。 「あの男がどうしたんですか?」 「きみは彼を検分したからよく覚えているだろう。あの男は遺物の金属活字をくわえて飲みこんだ。火が出たのはそのあとだ」 「ええ」 「現地の警備隊は口の中でいきなり発火するなんて回路魔術しかないというんだ。男は魔術師でもなんでもなかった」 「ええ、覚えています」  クルトは眉をひそめた。どうして自分はあの事件をすっかり忘れていたのだろう? たしか男はクルトが探知しようとしたとたん、強烈な力で彼を弾き飛ばして遺物に突進したのだ。そしてあの金属を喉に入れ、死んだ。 「その遺物がこれです」  レナードはふところから革袋を取り出した。 「やっと私の手元に戻ってきたので、セッキ師に見てもらおうと持ってきたんです。同じような金属は他にも引き揚げたんですが、男が呑んだものは調べると称して隣国の警備隊に預けたままになっていて」  セッキの大きな手が革袋を受け取り、手のひらに中身を転がした。 「印刷機械の部品――いや、活字じゃないか」 「ええ。ほかの遺物とは時代が合わないので、ソールは漂流物ではないかと見ています」  セッキは立ち上がり、窓の光に小さな金属棒をかざした。 「金属ならじかに刻めるだろうが、回路らしきものは見当たらないな。海中にあったのなら摩耗した可能性も……ん? この刻印は……」 「こんなものにまで回路魔術を使うことに意味はあるんですか?」  クルトは何気なくたずねた。セッキは金属から眼を離さずに答えた。 「もちろんあるさ。といっても俺はこれまで考えていなかったが。印刷機本体ではなく活字に回路を使うことで、インクに特殊な作用をさせるとか……できるのか? 理論的には……」  セッキはぶつぶつクルトにもレナードにも不可解な言葉をつぶやきはじめた。「……印刷本なのにそれ自体が魔術を使えるしろものだって、特殊な活字――いうなれば魔術活字か、そういうものを設計してやれば……だいたいこれは古代文字だし……」  聞き取れた部分もクルトにはぴんとこなかったが、ふと思いついたことがあった。 「セッキ師、その――その活字はソールの〈本〉には関係ありませんよね?」  セッキははたと顔をあげる。 「そりゃそうだろう。ソールの〈本〉はとても古いものだと聞いてる」 「セッキ師はソールの〈本〉についてどう思われますか? 彼をあの〈本〉から解放する方法は本当にないのか」 「解放ね」  セッキは苦い顔をした。窓辺から戻り、クルトとレナードの前に腰をおろす。 「問題は人の手が触れられるものは消えてしまったということだ。誰も実物を調べないままにな。俺が思うに結局は精霊魔術師連中の秘密主義に問題がある。危険だからと隠しているだけでは何一つわからんままだろうし、正直いって俺はソールを責められん。俺だって精霊魔術を使う人間ならあの〈本〉を読みたいと思っただろうさ。精霊屋は探求心というものを甘く見すぎ――」セッキはじっとみつめているクルトの方をみやり、今度は苦笑いをした。 「えっと、つまりだな、同じ規模でなくていいから、あの本が起こしたのと似た出来事、この場合は発火だが、それが可能な魔術書が他にあれば、そっちを解析して計算して、ソールの〈本〉の理論的な模型を作ることはできるかもしれん。精霊魔術の手稿本なんてそのまま復元はできないとはいえ……どんな原理で動いているのかの理論模型さえ立てられればソールの〈本〉が彼とどう結びついているのかを解明することも……そのためには……」  セッキの言葉は途中でまた独り言のようになったが、クルトとレナードはほとんど何も理解できないながらも神妙な顔つきで耳を傾けていた。そんなふたりに気づいたのか、セッキは突然「おっ」といって手を打った。 「な、なんですか?」 「ソールを〈本〉から解放する方法はわからん。だがたぶん、条件をそろえれば封印は解除できる」  ヴェイユもそんな話をしていた、とクルトは思い出した。だがヴェイユは同時に、封印を解除して〈本〉を開くことには代償がともなう可能性も話していた。 「どうするんです?」レナードがたずねた。 「封印の『鍵』はソールの精神に築かれた魔力の防壁の内部にある。防壁のおかげでソール自身にもどうにもできん。だから防壁に何らかの衝撃を加えて、ソール自身が『鍵』を使えるようにしてやればいい。もっとも使ための条件はわからんがな」 「衝撃ってどんな?」  クルトの問いにセッキは肩をすくめた。 「試してみないとわからんが、たとえば」  つんざくような警報がクルトの脳裏に響いたのはその瞬間だった。あまりの大きさにセッキの声がきこえなくなるほどだった。クルトは反射的に立ち上がった。セッキとレナードが訝しげにみつめ、おかげでこの音がふたりに聞こえていないとクルトは遅れて理解する。心臓がどきどきと脈打ち、故郷の村でソールが襲われた時とはくらべものにならない切迫感が胸をしめつける。  警報へ意識を集中すると即座に魔力の触手が王城を超えて城下へのび、網のように広がった。足環の回路にクルトの魔力が呼応したのだ。警報が鳴った場所はカリーの店――そうだ。カリーの店だ。いったい何が?  誰かがクルトのローブを引いた。レナードだった。 「ハスケル君?」 「俺は行かないと」クルトはつぶやいた。「ソールが危険です」

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