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【第1部 朝露を散らす者】23.水で布を織る
黴と苔に覆われた古い木。穀物、木の実。乾いた土と草。
匂いが僕の眼を覚まさせた。頭のうしろでがつんと大きな音がした。体が跳ね、どさっと落ちる。衝撃で頭がはっきりしたが、そのとたん肺に何かを吸いこんで僕は咳きこんだ。視界は暗く、腕と足が動かない。僕はうつぶせの姿勢で転がっているようだ。頭を堅い床に押しつけ、胸と腹を折り曲げるようにして咳をする。止まらない。しまいに痰と涎を吐きだして、やっとおさまった。汚れた口元を拭こうとしてもやはり腕が動かない。後ろ手に縛られているようだ。手首に縄の感触がある。
横倒しのまま眼をあける。暗闇の中に細い筋のように白い光がみえる。
両手だけでなく、両足も膝下から縛られているようだった。不自然な姿勢で固まった肩や膝が痛く、縄らしきものがこすれる手首も痛い。自由が効かないまま僕は体を動かそうと試みる。あおむけになりたかった。唸りながらもがくうち、どうにか成功して、腰と背中がすこし楽になる。
視界に入るものはさっきと大差なかったが、暗がりに眼が慣れてきたのだろう。白い筋の周囲にぼんやりと木目が浮かび上がる。床が一定のリズムで揺れている。蹄の音、車輪が回る音が聞こえた。動く大きな箱の中に入れられているように感じる。荷車だろうか?
僕はカリーの店にいたはずだ。
頭はきちんと働いた。僕は記憶を巻き戻し、最近の出来事をふりかえった。あまり認めたくない現実を受け入れざるをえなかった。サージュを疑っていたクルトの言葉を逐一思い出す。彼は正しかった。
いったい僕は何度自分の愚かさを呪うことになるのだろう。
喉がざらつき、また咳がでてきた。この箱の中は埃っぽいのだ。今度はあおむけの姿勢に耐えられず、僕はまたもがきながら体勢を変える。足を縛る縄のひとつがすこし緩んだように感じ、そのとたん思い出した。左足首の足環はどうなっただろう。
ふいにがたんと床が大きく揺れ、静かになった。止まったのか。今度は真上の板がガタガタいいはじめ、僕は息を飲む。ふりかかってきた明るい光に眼がくらみそうになって、瞼をきつく閉じた。
「起きているな」
サージュの声だ。僕はうすく眼をひらく。視界に入るのは彼ひとりで、ほかに人の気配はない。サージュの表情は影になって見えなかった。僕は口をひらいた。何をいうつもりだったのかわからないまま。
あいにく声は出なかった。喉からヒュッと空気がもれるような音が出ただけだ。涙が耳までつたっていったが、単に生理的なものだった。サージュの顔が一度視界から消えた。と思うと眼の上を濡れた布で押さえられ、ついで口に管のようなものを差しこまれる。吸い口を噛むと水が喉を下った。ほのかに甘い。
「悪いが、しばらく辛抱してくれ」
しわがれた声が聞こえた。眼の上を覆った布と水が消え、バタンと音がして真上の蓋を閉められる。背中にあたる板が揺れた。ふたたび移動をはじめたようだ。腕や背中の痛みはあいかわらずだが、喉の渇きが癒されたおかげですこし楽になっていた。蹄と車輪のリズムを聴きながらぼんやりと意識がかすんでいく。
いつのまにか眠っていたらしい。気がつくと僕は揺れない寝床に横たわっていた。
飛び起きてあたりをみまわす。石と木の壁、それに藁の梱に囲まれていた。足や腕を拘束していた縄は消えている。石の壁のあいだに扉がある。
反射的に立ち上がり、駆けだそうとしてつんのめった。僕は足元を見下ろした。裸足で、右足首に木の枷がはまっている。ぴんと張った鎖が壁の輪につながっている。そのほかの服はカリーの店にいたときのままだった。僕はかがみ、右足の枷に触れ、左足首をさすった。足環がなかった。
僕は息をのんだ。パニックが襲ってくる。床に膝をついて前髪をはねのけた。頭をかきむしるようにして、やっとはずれかけた髪留めを発見する。毛に絡まったそれを強引に引っ張った。おかげで髪が数本抜けたが、髪留めは無事手のひらにおさまった。僕は緑と青の飾りをさぐった。あざやかな色となめらかな手触りに集中し、気持ちを落ち着かせようとする。
僕の意識がないあいだに足環をはずしたのはサージュなのか。ここはどこだろう。
手首をこすりながら僕はあらためて周囲を見回す。縛っていた縄は消え、皮膚に痕が残っているだけだ。石の床には藁が散乱していた。枡型の格子が嵌った窓から光がさしこんでいる。寝床は床に積んだ藁に帆布をかけただけのものだ。乾いた草の匂いにまじってかすかに潮の香りがした。
後ろにさがると鎖が鳴った。壁の輪につながった鎖の一端をひっぱってみたものの、素手でどうこうできるやわなものではなかった。僕は気落ちしながら藁の上にもどった。髪留めを胸のかくしにしまいこむ。つけているとなくしてしまうかもしれない。
寝床に腰をおろしたとき、きしんだ音を立てて扉がひらいた。籠を小脇に抱えたサージュが入ってくる。
「気がついたか」
僕は黙っていた。サージュは扉を閉め、まっすぐ僕の前までくると籠をおいた。香ばしい匂いが鼻をついた。とたんに空腹を感じて僕は籠のなかをのぞきこむ。パンの横に添えられた壺から料理の匂いがたちのぼる。同時に他の生理的欲求が戻ってきた。サージュは僕の様子で察したらしい。
「立てよ」といった。「外ですませろ。鎖をはずす」
壁の輪に彼が手をかけたとたんに鎖が外れた。回路魔術だな、と僕は思った。だったら僕にはどうしようもない。サージュは鎖の端をひき、戸口近くの輪につなぎなおす。扉を開けると右手の方を指さした。
裸足で外に出たとたん、家畜の匂いに包まれた。鳴き声が聞こえる。すぐそばが牛小屋らしい。僕がいた小屋の方が風上なのだろうか。土のあいだに埋もれた小石が足の裏を刺す。僕は右手に進み、小屋のひさしのあいだ、鎖がのびきったところで用を足した。空は灰色に曇って視界は狭く、時間も場所もよくわからない。王都からどのくらい離れているのだろう?
中に戻るとサージュは待ち構えていて、鎖をもとの輪につなぎなおした。
「食べておけ。この先も長いからな」という。その声はあいかわらずしわがれていた。薄暗い中でもくぼんだ眼のしたがはっきりわかる。ひどく疲れているようにみえる。
僕は座ってパンをちぎった。まだ温かい。壺の中身はシチューだった。濃厚なミルクとバターの香りがした。サージュは黙々と口を動かしている僕をじっと見ていた。僕は黙って食べ、籠の中の水を飲み、そして沈黙に耐えられなくなった。
「僕をどこへ連れていくつもりだ?」
「行き先は北だ」サージュはそっけなく答え、思い出したようにつけくわえた。
「連れて行くのは俺じゃない。ここであんたを引き渡す」
「誰に?」
「朝露を散らす者。彼らが果ての塔へ連れていく」
「その名前はきみが教えたんだ、サージュ」あっけにとられて僕はつぶやいた。「そいつらはなんだ? きみは何者なんだ。どうして僕を」
「朝露を散らす者はレイコフの配下だ。今はな」
「レイコフ」僕はくりかえした。
「きみが北に住んでいるといった学者だ」
「ああ。果ての塔のレイコフは〈本〉を欲しがってる。これがあんたの存在をレイコフに知らせた」
サージュの手の中で銀色の金属が光った。僕は思わず叫んだ。
「それは海の中にあったものだぞ!」
「レイコフもこいつを持っているんだ。北方で発掘されたものだがね。この金属活字は古いもので、呼びあう。レイコフのもとにはすでに三十七個の完全なセットがあるが、彼はべつのセットがないか探し続けていた。なにしろ彼は学者で魔術師で、古代狂なんだ。文献をもとに復元した古代の装置でこの活字を操作すると、回路魔術でも精霊魔術でもない原理で〈力のみち〉を動かせる――らしい。レイコフはそうやってあんたを視た。そしてどうやったのかは知らないが、〈本〉のありかを悟った」
僕は唖然としてサージュをみつめていた。彼は僕の手から水の瓶をとりあげ、口をつけてごくごくと飲んだ。顎に垂れた水滴を手で拭う。
「あんたは重々承知だろうが、書籍業者のあいだでは、この世のどこかに〈本〉があるという噂は消えることがない。ふつうの人間なら伝説だと切って捨てるし、金持ちを騙す方便だと思っている連中もいるが、王国のどこかに〈本〉が隠されているという話はここ十年以上、ずっとくすぶっていた。『朝露を散らす者』もレイコフにつく前から探していた。まさかソール・カリーがそうだなんて思わなかったわけだが」
「レイコフにつく」僕はまたくりかえした。
「サージュ、『朝露を散らす者』とは結局のところ何なんだ?」
「前に教えたじゃないか」サージュは唇をゆがめておかしな笑い方をした。
「今はただの窃盗団で、レイコフのために働いている。もとは失われた知識を求める結社のひとつ――最後のひとつだった」
妙な口調だった。僕はふと思いつく。
「きみもそのひとりだったのか?『朝露を散らす者』の」
サージュはひとこと返しただけだ。「さあな」
「カルソンという男は? 僕を襲った……」
「そいつのことは俺はしらん。朝露の連中に使い走りにでもされていて、勝手にネタを仕入れたんじゃないか。奴らはケチな真似はしない。時間をかけて組織的にやるし、必要なら大掛かりな仕掛けもつくる。失敗して捕まってもトカゲの尻尾を切るだけだ」
「きみが僕に近づいて……油断させたのもその連中の指示なのか? きみは何もかも知っていたのにしらっと――嘘をついて――いつから」
そう口にしたとたん、最初にこの男に会った時の記憶がよみがえった。
「おい、アルベルト師は知っているのか? きみに最初に会ったのは彼の校正刷りのときだ」
「じいさんは関係ない。俺はたまたまあんたの顔を知っていたから、今回ちょっとした見返りついでに雇われただけだ」
「見返り。薬か」
サージュはまた答えなかった。そっけない口ぶりでこういっただけだ。
「ほんとうは荒っぽいことはしたくなかったんだが、あんたを魔術師から引き離す必要があった」
魔術師。クルト。
僕は左足首をさすった。「僕の足環――あれをどこにやった?」
サージュは肩をすくめる。
「気にしない方がいい」
「サージュ!」
真っ赤な怒りが腹の底で沸騰し、僕は眼の前の男に殴りかかった。サージュの襟をつかんでのしかかろうとして、反対に手首をつかまれる。足枷の鎖が床の上で大きな音を立てた。サージュは僕を藁の上に押さえつけた。僕の顔のすぐ上でささやく。
「明朝、朝露の連中があんたを連れていく。果ての塔までな。俺は報酬をもらってそれで終わりだ。こういってはなんだが、そんなに悪い話にもならないと思うぜ。塔主のレイコフはあんたを熱烈歓迎するからな」
「なぜ」
「もちろん『力の書』を復元することに生涯を賭けているからだ。あんただって誘惑があるんだろう? だから〈本〉があんたの中に封じられている。〈本〉の結果次第で解放されるかもしれない。少なくとも殺されるわけじゃない」
「無理やり連れていかれても?」
「無理やり?」
サージュは笑った。
「これまで自分で選べたことが何度あった?」
僕は黙りこんだ。
サージュは僕を離すと壁の輪に触れた。鎖を短く調節する。
「今は休んでいろ。先は長いぞ」
僕は藁の寝床の上に座り、壁にもたれた。サージュは扉の横の壁にもたれて座っている。沈黙がおちた。窓の外でかすかに海鳥の鳴き声が響いた。そういえば潮の香りがしなかったか。海が近いのか。とすれば、北へ僕を連れ出すために船を使うのか。
クルトはいったいどうしているだろう。足環がなければ彼に僕の居場所がわかるとは思えない。そっけなく別れてしまったのが悔やまれた。おまけに僕らは喧嘩をしていたのだった。このまま僕が戻らなかったらクルトはいったいどうするだろう。僕を探すだろうか?
(ソールがどこにいてもみつけるから、安心して)
記憶のなかでクルトの声がこだました。海辺の村で夜中に眼をさましたとき、彼がいった言葉だった。
でも僕はクルトの魔力の網にかからない。魔力を持たず、クルトの魔力をこめた足環もない僕は、この世に存在する〈力のみち〉の網目からすっぽりと抜け落ちてしまうのだ。クルトは僕を探知できないだろう。海に出てしまえばなおのことだ。
その前に逃げなければ。
いつのまにか小屋は薄暗くなっていた。サージュは静かに座った姿勢を崩さなかった。視線は床の一点をみつめていて、どこか賢者めいている。おかしなことに彼も虜囚のひとりであるような気がした。さっきの真っ赤な怒りは去って、ひどくむなしい気分だった。体の一部が空白になったように寂しかった。
僕はそっとささやいた。
「サージュ。何か話してくれ」
「何を?」
「何でもいい。こんなに静かだと寝てしまう」
「眠った方がいいぞ」
「嫌だ」
サージュの口から短く切ったような笑いがもれた。
「だったらあんたが話せ」
「何を」
「何でも」
僕はすこし頭がおかしくなっているようだ。ふいに滑稽な気分が襲ってきた。笑いたいような、泣きたいような気分だった。僕はサージュに何を求めていたのだろう? けれど僕はたしかに、最初に出会ったときからずっと、眼の前の男に共感を抱いていたのだった。アルベルトの校正刷りをはさんでああだこうだとやりあっただけでも、確信するには十分だったのだ。彼も僕とおなじ渇望を抱いていると。
それは知ることへの欲望と、この世の秘密の一端を理解した瞬間に得られるかえがたい快楽と充実で、そんな一瞬を得たときには、このちっぽけな自分自身が世界そのものを抱きしめられるような、あるいは自分を超えた大きなものに接したような、深い満足感にひたされる。もちろんそんな幸福は長く続かない。大洋に浮かび、水で布を織ろうとするようなものだ。すり抜けた理解はべつの謎に取って代わられる。僕にとって失った魔力は、そんな理解の一瞬に近づくための道具だった。
「僕の故郷は川の近くだった。父は塩や穀物を商う商売をやっていた」
僕は話しはじめた。このまま無防備に眠りたくなかった。どこかで逃げる糸口をみつけなくてはならない。僕は子供のころの自分について話し、故郷を離れて学院へ入ったときの話をした。学院の図書室で何を読み、先代のカリーの店でどんな書物に出会ったか。
部屋はさらに暗くなった。僕は話しつづけた。サージュのいる場所はうずくまった影のように見えている。
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