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【第1部 朝露を散らす者】25.呪いの背中

 僕は夜明け前に一度眼を覚ました。いつ眠ってしまったのかはさだかでない。暗闇のなかに格子の嵌った窓だけがぼんやりみえる。立てつづけにくしゃみが三度出た。眼が覚めたのは明け方の冷えこみのためらしい。ごわごわした堅い毛布が藁の寝床の下まですべりおちてしまっている。いつの間にこんな毛布があらわれたのか思い出せなかった。サージュに話をしながら眠ってしまったのだとすれば、これを僕に掛けたのも彼なのだろう。  眼が闇に慣れてくる。扉は閉まっていて、その横には誰もいなかった。壁の輪に手をかけると足枷からのびる太い鎖に触れた。無駄なのを承知で僕は鎖をひっぱった。サージュはどこかへ消えている。  サージュ。彼のことを考えるとまた後悔が襲ってきた。どうして僕は彼を無条件に信用していたのだろう。どうしてクルトの言葉をまともに受けとらなかったのだろう。僕はいつの間にかクルトの考えや助言を軽くみるようになっていたのだろうか。僕は魔力だけでなくまともな判断力もなくしてしまったのだろうか。  たしかに判断が甘くなる出来事はいろいろあったとは思う。夏の島以来、僕は奇妙な夢をよくみるようになっていた。島では盗みに入った男が死に、僕は火をみて卒倒した。クルトの召喚で一緒に王都へ戻ったら、今度は故郷から知らせがきて、父は死に……  記憶を遡ることに意味があるとは思えなかった。過去に何があったかをいかに正確に憶えていようと、正しい判断ができなければ何の意味があるだろう。いや、今は後悔している場合ではない。どうしたら逃げ出せるか考えなければ。いったいここはどこなのだろう? 「果ての塔」は北方の連合王国に属する島にあるとサージュはいった。一度外に出してもらったとき、かすかに潮の香りがしたし、海鳥が鳴くのもきいた。僕らの王国には海がなく、国境に一番近い港町は隣国の北の海岸にある。この建物が牛小屋に挟まれているのを考えると、ここはかなり田舎のようだった。  ひょっとすると北の海岸線の村のひとつだろうか。海から急激に土地が隆起し、平地はすくなく開墾が難しい地域だ。町の賑わいからも遠く、住民は放牧と漁業とわずかな農地を耕してひっそりと暮らしている。足枷さえなければとにかく逃げ出して、隣国の警備隊に助けを求めることもできるかもしれない。しかしこの足枷と鎖は手強そうだ。  考えることに疲れて僕はまたうとうとしはじめた。物音でまた覚醒したとき、窓からは朝の白い光がさしこんでいて、開いた扉からサージュが入ってくるところだった。片手に手桶、もう片手に籠を下げている。持ち物を壁のそばに置くと僕の方へまっすぐ近づいてきた。怯えているように見られたくなかった。なのに彼が僕の肩越しに壁に手をついたとき、僕はびくっとするのを止められなかった。サージュは無言で昨日と同じように壁の輪から鎖を外し、戸口近くの輪につなぎなおした。 「外ですませてこい」  しわがれた声に従って外にでる。隣の小屋とのあいだにひらいた空は雲の白に覆われている。鎖が伸びきるところまで行ってみたものの、牛小屋の木と土でできた壁以外何もみえない。光の下でみても足枷はどうしようもない感じだった。僕はおとなしく中に戻った。サージュは桶のそばに立っていた。 「服を脱げ」  僕はサージュをまじまじとみた。「嫌だ」  とたんに濡れた布が飛んできて、顔に当たった。 「それで顔と体を拭くんだ。きれいにして服を整えろ。しょぼくれた見かけじゃ体裁が悪い」 「人をさらっておいて体裁が悪いもない――」 「いいから拭け。櫛もある」  僕はしぶしぶ顔を拭いたが、冷たい布の感触は多少気分を落ち着かせてくれた。壁を向いて服を脱ぎ、上から体や手足を拭う。裸足の足は拭いても意味がないと思ったが、最後にざっと汚れを拭きとった。枷で出来た擦り傷に水が滲みた。  桶で布を洗ってしぼり、髪も拭いてサージュがよこした櫛をとおした。櫛の歯にひっかかった髪の毛を藁のあいだに落とす。髪は中途半端にのびている。クルトの髪留めをつけるのを我慢して、護符のように服の内側で握りしめた。本物の護符――足環はどうなったのだろう、と思う。  サージュは黙ったままだ。僕は服を整えて戸口に眼をやった。サージュはこちらに背を向け、壁にひたいをつけるようにして立っている。 「サージュ?」  呼ぶとはっとしたようにふりむいた。瞳孔は真っ黒で、白目の部分が狭くなっている。僕は不安になった。サージュは持ってきた籠を僕の前に置いた。 「座って食べろ」  僕は藁の上に座り、のろのろと籠に手を伸ばした。冷肉とパンと水の瓶、それにバターの小さなかたまり。水はともかく、パンと肉は食べるのに手こずった。バターを塗りひろげてなんとかパンを腹におさめる。サージュは立ったままで、居心地が悪い。僕は彼をみあげた。 「きみも座ってくれ。話がしたい」 「何の話だ」  サージュの様子は昨日とすこしちがうようだ。顔色の悪さはあいかわらずだが、黒目が大きくみえるからだろうか。魔力増幅薬のことを僕は考え、禁断症状のことを頭から振り払った。思い出したくなかった。ともかく言葉をさがし、口をひらく。 「サージュ。もし薬が必要でこれをやっているのなら、僕なら都合がつけられる」  サージュは馬鹿にしたように唇をゆがめた。 「何をいってる。嘘をつけ」 「嘘じゃない。たしかに王国ではふつうの手段じゃ手に入らないが、薬がないわけじゃないんだ。知っての通り僕は王国ではまともな立場じゃない。でも逆にいえば、口実次第で手に入れることも不可能じゃない」  サージュは立ったまま鼻をこすった。 「そのかわりに逃がせと? 取引したいのか」 「サージュ、僕は――僕はきみを買ってたんだ。きみは優れた編集者だと思う。このまま一生を薬に捧げるなんて馬鹿馬鹿しいと思わないか? 隣国ではたしかに薬は手に入るが、バカ高い。それにきみはもうわかっているはずだ。薬は魔力を一時的に大きくするが、〈力のみち〉の根源に変化が起きるわけじゃない。むしろ薬をやったときの……あのだけを求めるようになっているはずだ。自分に力がみなぎっていて……幸福で希望がある、あの感じさえあればいいと――そうなっているだろう?」  言葉を続けられなくなり、僕は黙った。サージュの返事はそっけなかった。 「だから何だ」 「このまま逃がしてくれれば僕はきみのことは黙っているし、薬でも金でも都合するから、とにかく――」 「駄目だな。駄目な上に無理だ。果ての塔のレイコフはあんたを待ってる。あんたの魔術師のせいでよけいな手間もかかっているしな。ここであんたを逃がした日には、俺の薬どころの話じゃなくなる」 「よけいな手間?」  僕は聞きとがめた。サージュは僕の前に膝をついた。 「レイコフはただの学者じゃない。塔が建つ島の領主でもあるし、いまのところ島は連合王国の所属にはなってるが、レイコフはそっちだけを向いてるわけじゃない。おまけにあんたが欲しいばっかりにクルト・ハスケルから引き離そうと策を練ったりもしてる。喰えない野郎なんだ」 「策って――いや」  脳裏にクルトに届いた王都への召喚状が浮かんだ。ほんの一瞬、まさかあれもそういった「策」の一部ではないかと疑ったのだった。まさかそんなはずはなかった。クルトを召喚したのは王立魔術団だ。 「でも、クルトはかならず僕をみつける」  僕はサージュの眸を正面からみつめた。できるだけ自信たっぷりの声を出そうとした。 「きっとみつけるんだ。だから逃がしてくれ。それにきみは――きみは僕と似てる。本質的に僕とおなじところがあるだろう? おなじように……」 「知識欲と好奇心でドツボにハマる性質だな。それもまともな人間なら興味を持たないような知識に」  サージュはニヤッとした。ゆらりと手があがる。かがみこんだ彼に顎をつかまれそうになり、僕は振り払った。サージュはあっさりと体をひいた。 「魔力があったころのあんたを想像すると楽しいよ。今だってそんなに悪くない。昨日もいったが、果ての塔はあんたにとってそんなに悪くない場所だと思うぜ。レイコフに協力して封印を解けばいい。あんたの欲望も満たされる。認めた方がいい。あんたははずだ。それにクルト・ハスケルはあんたをみつけられない」 「そんなことは」 「これでもか?」  サージュは立ち上がり、服に手をつっこんで何かを僕の足元に投げた。僕は焦げたように黒ずんだ塊をのぞきこんだ。手が震えた。継ぎ目で半分に割られた足環だ。精緻に刻まれた回路は見る影もなく、ところどころひしゃげている。 「実際のところ、魔力なんて無駄なものかもしれんな」サージュがいった。 「回路魔術のおかげで多少使えるようにはなったが、たとえ作り物に閉じこめたところで、空に放たれるとあっという間に消える。力のみちが来るところも、生命(いのち)もおなじだ。消耗品にすぎん」 「それでも」  嫌だといいかけたときだった。突然サージュが立ち上がった。白目がほとんどなくなったまなざしが空をにらむ。ついでバタンと扉をあけて外に出る。彼の後で閉まった扉へ僕は駆けより、開かないかと押したり引いたりしたが、無駄だった。壁の輪につながった足枷の鎖がじゃらじゃらと鳴る。僕はこぶしを固め、扉を内側から殴った。殴ったくらいでどうにかなるとは思わなかった。じっとしているのが嫌だったのだ。  と、向こう側から扉が開き、僕はサージュに手をつかまれていた。 「行くぞ。大人しくしてくれ」  突然口がきけなくなった。それだけでなく、足も手も動かなくなった。  固い空気が僕の口をふさぎ、肩や手足がカチカチに固められる。カリーの店から連れ出される前、体の自由を奪われたときと同様だった。口はまるで猿ぐつわを噛まされたようだし、縛られたも同然の手足はバランスがとれなくて倒れそうだ。ぐるりと視界が回った。サージュが僕を袋のようにかつぎあげたのだ。  鎖をひきずる音が聞こえ、視界がまた回って、外の空気を感じた。閉じこめられていた小屋の正面がちらりと見えたのもつかの間、また木の床に転がされた。ばたんと真上で木の板が閉じる。ここに来るまで乗せられていた荷車らしかった。足首がじんじんと痛んだ。足枷でまたすりむいたのか。 「少しだけだ。俺の魔力がもたんからな」  サージュの声が聞こえた。空気そのものを固い板のようにする、これは回路魔術なのだろうか? いずれにせよ、魔力がこんな風に使えるものとは僕は全くしらなかった。口が聞けず体も動かせないまま、荷車が動き出すのを感じる。道はなめらかとはいいがたく、しかも下っているようだ。僕の体は左右の壁にぶちあたる。板の隙間から風が吹きこみ、また潮の香りを嗅いだ。と、荷車が止まった。目的地についたのかと思ったが、サージュは無言のままだ。  遠くでひづめの音が聞こえた。整然としたリズムで鳴る馬のひづめで、この荷車をひいている生き物ではなかった。かすかな金属音も聞こえるようだ。  僕は何かを期待して待ったが、何も起こらなかった。荷車がふたたび動きはじめる。しばらくすると今度は海鳥の鳴く声と、まごうことなき波の音が聞こえた。今は平らなところを進んでいるらしい。木の板がきしむぎいっという音や、水のしぶきのような音も聞こえる。 「お望みのものだ」  しわがれた声のあとに僕の上を覆う木の板がひらく。逆光になった人影が僕を見下ろすのを感じたが、まぶしさに眼を閉じてしまう。 「早すぎるぞ。まだ出航できない」誰かがいった。 「それなら急ぐんだな。追手が来てる。騎士だ」  しわがれた声。サージュだ。追手?  体はあいかわらず動かない。眼を開けようとしたとたん、覆いかぶさる布に視界をふさがれた。恐怖で背筋が寒くなる。また袋のようにかつがれるが、今度は何もみえない。どこかでぽちゃんと水が跳ねる音が聞こえた。 「足枷だな」また別の声がいう。「その面倒な魔術はもういい」  急に口が自由になった。腕も肩も足も――と思ったのもつかのま、足枷の鎖を引っ張られて僕は転びそうになる。両手をぐいっと後ろに回された。誰かが耳元でささやく。 「歩け。まっすぐだ」 「おいおい」呆れたような声が続いた。「きれいに連れてこいという話だった。手荒なことはするな」  サージュの声だ。あろうことか僕はほっとしてしまった。僕の両手首をつかんでいる顔の見えない誰かの声も息も、恐ろしすぎたからだ。ふいに足の脛に痛みが走る。後ろの誰かが蹴ったのだ。 「さっさと歩け」  僕は思わずつぶやいた。「嫌だ。動けない。見えないと……」 「そいつは魔力がまったくないんだ」またサージュの声が響く。 「ひとの気配にも鈍い。目隠しは取ってやれ。でないと揺れる船になんか乗れんぞ」  たぷんたぷん、という音が聞こえた。水が船にあたって跳ね返る音だった。足は土でも石でもなく木の板を踏んでいた。ここは港か? 船のそばにいるのなら、足のしたは桟橋だろうか。それとも渡り板? もし踏み外したら――  そのときひづめの音が聞こえた。ちっと舌打ちの音が鳴る。大声で誰かが呼ばわった。 「船を出すぞ! 急げ」  ほんのわずか前まで静かだった一帯が即座に騒がしくなった。太い叫び声と地を蹴る響きを感じ、僕はうしろにいる男の手を振り払おうともがきながらやみくもに足を後ろに突き出した。幸運なことに相手の注意はそれていたらしい。腕の力がひるんだすきに僕は無我夢中で肘を入れた。うめき声をききながら目隠しをとる。隣に男がうずくまっている。枷のはまったほうの足でその腹を蹴ると鎖が都合よく男の眼を直撃する。  僕は無我夢中であたりをみまわし、自分がゆらゆら揺れる渡り板の上にいるのを知った。桟橋が片方に、船がすぐそこの海に浮かんでいる。港湾都市でも稀にしかみない新しい型の快速船だ。何はともあれここを離れようと桟橋の方向へ走った。大音声とともに馬がこちらに走るのがみえた。馬を駆る人は隣国の警備隊の制服を着ていた。船の方から男たちが飛び出した。  いきなりバンッと大きな音がして馬の背からひとりが地面に落ちた。と、別の場所でも音がして、船の方で誰かが倒れた。  僕は鎖をひきずりながら桟橋へと走った。音の正体が、王国ではめったにきかない銃声だとわかったのは桟橋にのぼったときだが、そのまま駆けだそうとした瞬間、うしろから鎖をひっぱられた。 「ソール!」  声が聞こえたのはそのときだ。 「クルト!」  僕は叫んだが、あたりは馬のひづめと剣戟と、大きなバンっという音に覆われて、届いたのかどうかわからなかった。だが前方の桟橋には奇跡のようにまっすぐな通路がひらき、その先にたしかにクルトがいるのを僕は見た。突然鎖をひっぱる力が消え、僕は重い鎖をひいて腕にまきつける。足枷のはまった右足をひきずって桟橋を駆けだそうとする。 「ソール! 今行く――」  またクルトの声がきこえた。たしかに彼と眼があったと思ったが、それも一瞬のことで、クルトと僕のあいだには誰かの影が立ちはだかっている。かまわず僕は走りだしたが、そのとき頭の真上に空を切り裂くようなヒュン、と鳴る音を聞いた。左横から脇腹に強い衝撃をうけたのはその直後だ。一瞬後、僕は桟橋の上に投げ出され、転がっていた。かすんだ視界に見覚えのある背中がみえた。黒い柄がその背から飛び出していた。銀色の刃が服と柄のあいだで光る。短剣が背中に刺さっているのだ。吸いこまれでもしたかのように。 「……サージュ?」  僕は信じられないままにつぶやいた。さっき僕を突き飛ばしたのは彼か? どうして? 「ソール!」  クルトの声だ。なのに僕は動けなかった。震える手をのばし、横たわったサージュに触れる。僕の頭は混乱していた。サージュの肩が揺れ、顔が僕の方を向く。その眼は真っ黒だった。黒い眸だけがあり、白目が消えている。 「行け。逃げるんだろうが」  しわがれた声が怒ったようにいった。 「ソール!」  クルトがまた叫んだ。僕は顔をあげ、膝をつき、なんとか立ち上がった。鎖をひきずって走りだそうとしたそのとき、眼の前に大きな影がおち、頭蓋に強い衝撃と痛みが走った。

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