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【第1部 朝露を散らす者】26.境界を越える

 クルトと騎士の一行は街道を疾走した。  頼りにしていた足環の気配が突如として消えたのは国境近くまでたどりついたときだった。突然の指令に驚いてクルトの馬はいななきながら急停止し、あとにつづく騎士三人がそれに続いた。  一行はクルトが示すまま、軽い休息と仮眠をはさみながら道を進んでいたところだった。日は暮れたばかりだ。 「ハスケル。どうした」  ラジアンが声をかける。クルトは虚空をみつめていた。 「足環がこたえない」  馬上で手綱を握ったまま、クルトは共鳴する魔力のこだまを聴きとることに集中する。キーンはクルトの心を読んでいるかのようにじっとその場にたたずんでいる。ラジアンの馬が隣にならぶ。 「方向はほんとうに正しいのか?」  ラジアンの声には疲労がにじんでいた。クルトはうわの空だった。しかし心は休みなく動いていた。足環の気配が消滅した地点を特定しようとしていたのだ。 「待て。どこで消えたか確かめている」 「魔術師ってやつは……」  ラジアンは呆れたような声をだした。うしろに続く部下の騎士たちが馬をなだめている。 「それにしても、どうしてソールをさらったやつはこんなに速いんだ? 馬車はもとより、並みの馬なら追いついていいはずだ。魔術のせいか?」 「おそらく。しかし馬や装備の強化魔術は並みの人間には使えない。魔力が相当強くなければ」 「もっともだ。並みの人間に可能なら騎士団(おれたち)で使ってる」  魔力の網で拡張されたクルトの知覚はいま高い上空にあって、隣国との境界をなす森の姿をみていた。日が暮れようと視えるものに変わりはない。足環が消えたのは国境の先だ。その場所をみきわめようと鷹のように地上へ急降下する。  手がかりが完全に消滅したわけではなかった。足環の気配が消える直前、青い炎が燃えあがるような強い反応があったのだ。あの炎には覚えがあった。カリーの店で一度だけ、サージュを囲むようにのびた魔力の色だ。それにあの足環の回路をめぐっていたのはクルト自身の魔力だった。  クルトは体内をめぐる魔力のみなもとをさらに開く。いまのクルトなら、道をたどりながら足環が落とした力の影すら視えるはずだ。経験に先立って待つ記憶のようなものとして。  足環は破壊されてしまったのだろうか。同時にソールが傷つけられていなければいい。気がかりなのはそれだけだった。考えるだけで胸の奥が痛む。  ふわりと慰めるようなぬくもりが心に触れ、クルトは馬の首筋を撫でた。命令もしないのにキーンが並足で進みはじめる。クルトの心を読み取ったように――いや、実際に読み取っているのだった。馬はクルトの心を読み、クルトが行きたい場所を知る。ハスケル家の領地でもそうだったし、ここでもそうだった。彼らのための歌が必要だ。疲れているのは人間だけではない。  クルトはラジアンのぶあつい肩に眼をやった。 「行こう。俺はかならずソールをみつける」  国境の森を抜けた直後、一行が出くわしたのは隣国の警備隊だった。国境付近の見回りに配置された二人組で、騎士の装いのラジアンをみとがめて鋭い声で誰何したのだ。クルトは魔力を使って道筋を追うのに必死で、警備隊が放つ不審な感情にほとんど注意を払っていなかった。ラジアンは落ち着き払ったまま、ふところから書状を取り出した。 「逃亡した罪人を追っている。取り決めにしたがって捜査させてもらう」  年長の兵士がラジアンの徽章と書状を交互に眺めた。 「もう夜だぞ」 「罪人は魔術師で、逃亡時に重要人物を誘拐した。途中まで追ってきたんだが、この先は――」  ラジアンはクルトの方をみやった。「方角は?」 「北だ」 「書状は本物らしいな。だがよその騎士に勝手にうろうろされると」 「ああ、夜の巡回は大変だろう」  クルトは兵士の言葉をさえぎるようにそういい、にっこり笑って手をさしだした。年長の兵士はいぶかしげに眉をよせたが、クルトに握手を返してくる。握ったとたんにクルトの魔力は触手のように兵士の内部へと侵入した。  いま、クルトの魔力の一部はソールの行方を知るために、足環の残像ともいうべきものを高いところから追っている。しかしべつの一部を同時に動かしても何ひとつ苦にはならなかった。魔力の触手は兵士の内部にふわりと広がり、こころの表面を覆った警戒をちがう色に塗りかえはじめる。  以前はこんなことが簡単にできるとは思ってみなかっただろう。しかし今はあまりにも容易だったし、他人のこころは驚くほど柔らかだった。あっさりべつの色に染まり、眼の前の男の表情から見る間に疑いが消えていく。  王国の精霊魔術師として、この行為には特別な許可が必要だとクルトはよく理解していた。精霊魔術としてはありふれた暗示技術ですら、王国は厳しい倫理のもとにおいている。むやみに他人のこころに侵入してはならない。弄ってはならない。それは境界を越えることだ。  しかし境界というものは、一度越えてしまうだけで、背中の向こうの闇にまぎれて見えなくなるものでもある。 「なるほど」兵士は納得した表情になった。 「我々も協力しよう。道はわかるのか? このまま北上するのはいいが、山道に入ると夜は進めない。手前で一度休んで夜明けに進むべきだ」  ラジアンは逆にいぶかしげな顔になった。寸前まで渋い表情をしていた人物の言葉である。無理もない。 「かたじけないが……」  クルトはラジアンに目くばせを送った。兵士の眸を正面からみつめて話す。 「ありがとう。協力に感謝する。ところで、詳細な地図をみたいんだが、持っていないだろうか」  いったい何が起きたのか、クルト以外の誰ひとり正確に理解していないのは明らかだった。クルトは考えないことにした。自分に都合が良いように他人のこころをすこし枉げることが規則に反しようとも、今はソールをみつけることが先だ。  兵士の助言のとおり、一行は夜半数時間の休息をとったが、早朝には曲がりくねった山道を上ったり下りたりをくりかえしていた。わずかな平地からせりあがる山のあいだに小さな集落が現れては消え、崖と崖のはざまにささやかな入り江が広がる。クルトはあたりの住民の気配や感情を魔力の網ですくいとる。疲労をまったく感じないのは興奮が続いているからだろう。それにクルトの魔力の根源は絶えることを知らないようだ。  突然馬をとめたのは、住民とは明らかに異なる冷徹な感情に気づいたためだった。 「ここは?」  崖の向こうを指さす。兵士が地図を広げた。 「昔は魚がよく獲れてにぎわったところだな。今は群れが来なくなって人が減った」 「(いち)は立つか? よそ者は来る?」 「今は定期市はなくなってる。行商人は来るがね。漁のための船着き場がある。船の数は減ったが、港だけは分不相応に大きい」  そう聞いたとたんクルトは馬を走らせていた。あとをラジアンと部下の騎士たちが追ってくる。峠へと道を上り、海を見下ろす草地で止まった。 「みつけた。あれだ」  ラジアンは眼をほそめた。 「何か見えるぞ。妙なかたちの船だ」  クルトはうなずいた。 「海に出ると魔力の痕跡は消えてしまう。急ごう」  馬上の一行は坂道を駆け下り、船溜まりへ向かって突進した。突然現れた隊列に驚いた住民たちが戸口や窓から顔をのぞかせる。家畜の鳴き声が蹄鉄の音にかき消された。クルトは桟橋にいる男たちの心をとらえる。期待と自信、手順を心得ている人間の興奮がはっきりわかるが、直接操るには遠すぎる。  クルトは手綱にも馬の鼻面にも注意を払っていなかったが、キーンはクルトの意思を読んだように走り続け、桟橋までの視界がひらけた。馬の首の影がひとつ、さらに数人の人影の先に船がみえる。崖の上で感じた印象よりも大きかった。馬には四輪の箱のような車がつながれている。落ちつきなくふりむき、前脚を跳ね上げていなないた。誰かが大声をあげている。 「船を出すぞ! 急げ」  クルトの前で兵士が叫んだ。 「止まれ! 何をしている!」  桟橋にさえぎるものはなかった。騎士と警備隊の馬は船めがけて突進した。と、思いがけないことに銃声がとどろいた。回路魔術の防備によって守られている王都ではおよそ聞くことのない音だ。クルトの理解が追いつくのに何秒かかかったが、騎士も警備隊もひるまなかった。発砲した男の銃が剣で飛ばされて海の方へ飛んでいく。船から飛び出した男たちが剣を片手に応戦をはじめる。  ほとんど一瞬といえるあいだにあたりは足音と応答の声、そして剣戟でいっぱいになった。どこから現れたのかと思うほど意外な数に驚いていると、また銃声が響き、クルトの腰の下が大きく揺れた。まるで自分が撃たれたような気がした。キーンの背中がゆらめき、クルトには馬の苦痛が伝わったが、癒してやる余裕もない。  クルトは地面に降りて馬の影に隠れながらローブを脱ぎ捨てた。白っぽい頭髪が視界に入ったのはそのときだ。反射的に飛び出して叫んだのは本能のようなものだった。 「ソール!」  答える声は小さかったが、たしかに耳に届いた。 「クルト!」  ソールの姿がみえたのは一瞬だった。ラジアンの大きな体がクルトをかばうように横切り、向かってきた敵を切り伏せたからだ。しかし今のクルトの眼――生身の眼ではなく、魔力によって拡大された知覚にはべつのものがよりはっきり視えていた。それはこちらに逃げてこようとする恋人の背後にいる敵で、ソールを船の方へ引っ張ろうとしている。  瞬時にクルトは魔力の触手を伸ばし、ソールを引きずろうとする大きな手を透かしみた。縄か鎖のようなものを握る手だ。大きな手のなかの構造を動かし、筋肉と骨をありえない方向へ捻じ曲げる。  自分の体の奥の方でぷつっと何かが弾けたような気がした。こんな風に魔力を使ったのはこれで二度目だ。しかし今回はとてもたやすかった。またソールの姿がみえた。クルトは叫んだ。 「ソール! 今行く――」  数歩すすんだとたんに剣をもつ影が眼のまえに立った。クルトは体をかがめ、振りおろされる刃を避けた。立ちふさがる男の片足の腱を捻って硬直させ、バランスを崩す。男は禍々しいものをみるようにクルトをみつめたが、その眼つきに何かを感じている余裕はなかった。クルトの眼はソールがこちらに走るのをみていた。同時に飛来する悪意が光る銀色の影となって、彼の背中に追いすがるのも。  時間が止まったような気がしたそのとき、横からべつの影がぶつかり、ソールは転がるように桟橋に倒れた。  クルトは邪魔な敵の体をまたぎながらソールの方へ走ろうとした。男の手がクルトの足首をつかみかけ、クルトは倒れそうになりながらもかかとで男の指を踏みつけた。骨が折れる音と同時に、視界の先でソールの頭が動く。彼が傷ついていないことにほっとしたが、空中を飛んできた剣の柄はソールの鼻先のすぐ近くにある。彼を突き飛ばした影の背中からその柄は生えていた。ソールはその背中に手を伸ばした。 「サージュ?」  何が起きているのかクルトにはわからなかった。「ソール!」クルトはまた叫んだ。足元からまたも男の腕が伸び、クルトを地面に引き倒そうとする。 「ソール!」  クルトは叫びながら視線を流し、ソールがこちらを向き、膝をつくのを見た。彼と自分のあいだにはほんのわずかの距離しかないのに、また黒い影が割って入る。ソールの砂色の髪が空中に踊り、敵の影でみえなくなった。  苛立ったクルトの内側で、またなにかがぷつりと音を立てて切れた。  早くソールをこの手に取り戻さなければいけないのに、なぜこいつらはこんなにたくさんいるんだ? いったいこの男たちは何者なのだろう? おまけにクルトの足元にはまだ負傷した熊のような敵がいて、折れた指などものともせず、頑丈な腕の力だけでクルトを引き倒そうとしている。眼の奥の方で深紅の怒りがわきあがる。  クルトは男の体の内側を。何もかもがくっきりと視えた。皮膚に覆われ骨で支えられた肉の組織も、脈打つ生命の中心も。それらは回路魔術を構成する銀糸のようで、およそ人ではない、単なる仕組み(メカニズム)のようだった。どうすればいいのか即座にわかった。クルトは魔力の指をのばした。男は苦痛のまなざしでクルトをみつめた。口から血の泡があふれた。  とてもたやすかった。他人の生命の源を自分の力で止めることは。  その事実が胸をうち、クルトはその場に硬直した。何をしたのかはわかっていた。しかも意図してやったのだ。それは同じ力だった。これまで誰かを癒し、生かしてきたはずの、その同じ力でこれをやったのだ。けっして取り返しのつかない確実な方法で、一瞬にして生命の来る場所を断ち切ったのだ。  立ち尽くしたのはほんの数秒だったにちがいない。 「クルト! しっかりしろ!」  ラジアンの声が耳元で炸裂した。クルトは彼のあとを追って船の方へ走った。ソールが荷物のようにかつがれ、船の中に放り投げられるのがみえた。回転する機械の音が聞こえ、油の臭気が鼻を刺す。回路魔術の機構を備えた新しい船だった。大きな物音が鳴って渡り板が海中に沈み、みるまに船尾が遠のいていく。じっとしていることはできなかった。クルトは引きちぎるように服を脱ぎ、海中に飛びこんだ。ふつうなら追いつけるとは思わなかったはずだが、無我夢中だったのだ。海流はクルトに味方しなかった。船影はどんどん沖へと進んでいく。  力の抜けた腕で水をかきながら戻るとラジアンが桟橋から呼んでいた。クルトは黙って地上にあがった。濡れた肌をなぶる風は刺すように冷たかった。警備隊の兵士ふたりとラジアンの部下は軽い負傷ですんだらしい。残された死体は船の一味の者だという。  ラジアンはあきれたような顔つきだった。 「あいつらは何なんだ? 地上に置き去りにされた連中、みんな自害したぞ」  兵士の声がその向こうでいった。 「みんなじゃない。ひとり生きてる――傷が深いが」 「じゃあそいつを王都へ連れていく」  クルトは無感動にうなずいた。魔力を使い果たしたわけでもないのに、何ひとつ心に響かないのは失意のためか、肉体の疲労のためか。  クルトはソールをみつけたのに、間に合わなかった。  ラジアンはクルトの肩に手をおいた。 「クルト、おまえは治療師だろう。こいつだけが手がかりだ。早く手当てしてくれ」  クルトは桟橋に横たわる男を見下ろした。サージュだった。

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