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【第2部 星々の網目にて】1.鉄の星

 夜の海は凪いでいた。昼間は荒れ気味で空も薄暗く、僕は船室に閉じこもったまま時々やってくる大きな揺れに耐えていたのだが、いまはうってかわって穏やかだ。船倉からの光が水面にうつり、波のうえに艶と光の模様をつくる。中天の月はほぼ正円で、甲板に僕の影が青くおちている。  天候は周期的な嵐と凪のくりかえしだが、気温はどんどん下がっていた。今も水の上を吹く風は刺すように冷たい。船長が貸してくれた外套には毛皮の縁取りがついていたが、空気に晒された耳と顔が凍りそうだ。月に照らされたこの海は夏のあいだに見た海とはまったくちがう、畏敬を感じる美しさだった。どれだけ寒かろうと僕はみつめずにはいられなかった。こんなにちがう表情をもっているのに、すべての海が実はひとつにつながっているだなんて、驚かずにいられるだろうか? 「ああ、ここか。あんたも飽きないな」  声と共に横にぬっと大柄な体がならび、僕は反射的に体を引いた。 「そんなにびびるなよ。取って食いやしないんだから」  髭面にところどころ黄ばんだ歯がのぞく。男は船長の副官のような立場らしく、他の船員はみな彼の命令に従っていた。彼は部下から「サー」と呼ばれていて、僕は名前を知らなかった。  この船には船長とこの男と船員――腕のいい料理番も含む――のほかに『朝露を散らす者』の一味が三人乗っている。船室から出るのを許可されて以来なんとなく感じているのは、朝露の男たちが他の乗組員に煙たがられていることだった。僕がこの船に連れこまれたときの戦闘では彼らの仲間が何人か死んだり置き去りにされたが、この三人は何とも思っていないらしいとか、その他のふるまいのふるまいも含め、船の乗員には違和感が大きいらしい。  船に乗せられてからの正確な日数はわからなかった。意識を取り戻した僕はしばらく船室に閉じこめられていて、乗組員のひとりがたまに食事を運んだり、用便の容器を取り替えにきた。といっても扱いは悪くなかった。船室は船長室の真下にある上級船員の区画だし、食事も水も十分与えられ、二日前に船長室へ呼ばれた時には着替えも渡された。厚地の上下とベスト、毛皮の縁取りのある外套とブーツ。どれも上質なものだった。 「ほら。これを返しておく。あんたの服に入っていた」  いきなり隣に立つ男が手を突き出した。月光の下で宝石のように輝いた色に僕は驚き、ひったくるようにして受け取った。青と緑の髪留めだった。着替えたときに服ごと持っていかれてしまい、もう二度と戻ってこないかと恐れていたのだ。 「だからそんなにびくつくなって」男はまた笑った。 「船乗りは縁起をかつぐんでね。まだ生きている他人の護符を持っているのは験が悪い」 「護符?」 「知らずに持っていたのか? 南から来るやつがたまに持っていて、似た細工を見たことがある。恋人のものか?」  男はじろじろと僕の頭をみつめた。 「いや、その髪ならあんたがもらってもおかしくないな」  僕は黙って髪をまとめ、首のうしろで留めた。クルトはこれが護符だと知って僕にくれたのだろうか。精霊魔術師はこの手のまじないが単なるまやかしにすぎないと知っている。いわゆる魔術とはちがうのだ。僕にとって本当に効力のある護符だったはずの足環はとうにサージュが破壊した。  サージュ。彼は生きているのだろうか。あの男は僕を逃がそうとしたのだと思う。船室に閉じこめられているあいだ、僕は何度もそのことを考えていた。短剣が彼の背に突き刺さっていた、最後に覚えているあの瞬間についても。  船は水面をすべるように進んでいく。船体の半分は鉄の輝きをもつ黒で塗られ、最新式の回路魔術で制御されていた。船そのものは『朝露を散らす者』とは無関係で、単に僕を運ぶために雇われただけらしい。二日前に船長室に連れ出されたとき、同じ部屋に『朝露を散らす者』の幹部がいたにもかかわらず、船長は彼らについての悪態を吐き、僕については「客人として扱う」と宣言した。 「飛び出したところで海の底に行きつくだけだよ、先生」  このとき船長は僕に船についていろいろと説明してくれたが、全体に組み込まれた回路の魔力を僕がまったく感じられないとわかってがっかりしていた。魔力を感じないばかりか、簡単な装置ですらろくに使えないこともわかると今度は確実に呆れていたと思う。もっとも僕が書物で知った知識をいくらか披露すると、今度は「先生」と呼びはじめた。  そう、なぜか僕は彼に学者とみなされている。以来夕食時には船長室に招かれるようになったが、船長とたいした話はしていない。彼は海の男らしく日焼けして、太陽と海水で脱色された髪はくるくると縮れ、日焼けした顔からは年齢がよくわからなかった。いま隣に立つ副官と同じく名前もわからない。つねに「船長」と呼ばれているからだ。  ふたりとも名乗らなかったし、僕の名前もたずねなかった。 『朝露を散らす者』も同様だった。僕に対して一言も口をきかないだけでなく、船の乗組員にも声をかけない。彼らはありふれた商人の身なりをしていたが、この船では鋭い眼つきで押し黙り、船長以外に口をきくのは仲間たちだけだ。  行き先はサージュがいったように北方の連合王国のどこかにある「果ての塔」なのだろう。僕はより正確な手がかりをつかむために乗組員に朝露の男たちについてたずねたが、まともな答えは得られなかった。教えてくれないのではなく、知らないのだ。サージュは『朝露を散らす者』が稀覯本の窃盗団だといったが、それも知らない。 「先生なみに頭が良さそうだけどよ、がめついんだよ。あいつら」  僕の船室へ食事を運んでくれた若い乗組員は渋面でそういった。 「あるじがあるじがって話してるが、いくら下っ端でも仲間を見捨ててそれはないんじゃねえの?」  耳に入る彼らの言葉をつなぎあわせて推測するに、あの小さな船着き場で戦っていたのは船にいる幹部に雇われた者たちで、負傷して置き去りにされたのも一時雇いの荒くれものだったようだ。サージュもそのひとりだったのだろうか。  こんな風に考えられることからもわかるように、いまの僕は案外冷静だった。カリーの店をサージュに連れ去られてから動転する機会は何度もあって、その段階を通り過ぎたということかもしれない。船の上は牢獄も同然で、僕は小耳にはさんだ会話とさかのぼった記憶をつきあわせ、自分がおかれた状況を把握しようとした。  もっともこれは考えたくないことを考えないようにしているだけの、見せかけの落ちつきにすぎないのかもしれなかった。考えたくないことはいくつもあった。たとえばクルトに二度と会えないかもしれない、とか……。  クルトはあの船着き場まで追ってきたのに、僕は間に合わなかったのだ。この船を降りた先で逃げる余地を探すにはどうすればいいのか。僕は記憶を巻き戻し、サージュの言葉を思い出す。彼は「果ての塔」のレイコフはただの学者ではないといっていた。塔が建つ島の領主で、サージュのいい方では政治的な駆け引きにも長けているようだ。 (おまけにあんたが欲しいばっかりにクルト・ハスケルから引き離そうと策を練ったりもしてる。喰えない野郎なんだ)  ひっかかるのはここだった。クルトと僕を引き離すということは、彼が僕の守護魔術師だと知っていたからか。だがどうしてそれを知りえたのだろう? ほとんどの人にとってソール・カリーはただの書店主でしかない。クルトが僕と暮らしていることを知っていたとしても、彼が正式に任命された守護だと知るのは王城の一部の範囲に留められている。〈本〉が僕の内部に封印されていることはさらに限られた者しか知らない。王陛下に王子殿下、レムニスケートの当主。審判の塔、王立魔術団、学院に師団の塔、これらの組織のごく一部の者だけだ。  ここから導き出される結論のひとつは、王城の情報は何らかの形でこれから行く場所、あるいは北方の連合王国に漏れているということ。さらにもうひとつの可能性は、情報を漏らしている者はそれなりの権力を持っているということだ。そうでなければレイコフが「策を練る」など不可能ではないか? レイコフは単に僕を求めているだけではなく、王国の政情を攪乱させる目的もあるとしたら? そんな彼が僕の〈本〉の謎を解いたら、いったい何が起きるだろう?  背中が勝手に震えた。月はいつのまにかすこし上に位置を変えている。 「あんたも物好きだなあ」と副官がいった。 「寒いだろ?」 「ああ。でもこの眺めがすごく……ぞっとさせるものだから」 「ぞっとさせる、ね」  男は乾いた声で笑った。なぜか嬉しそうだった。 「そこが夜の海のいいところだ」

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