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【第2部 星々の網目にて】2.流星痕

 クルト・ハスケルは、恋人に二度と会えないかもしれない、などという考えを絶対に信じない人間だった。  仮に誰かが同じことを告げようものなら、そんな考えを思いつくこと自体が自分自身に対する敗北だと返したにちがいない。それに自分であれ他人であれ「負ける」という単語は彼の辞書には存在しなかった。今までもそうだしこれからもそうだ。  そうはいってもあと一歩でソールを連れ去られた衝撃は大きかった。ここまで来るのに相当な力を使い、さらに深手を負ったサージュの一命を保たせることにも魔力を使って、なのにソールがここにいないとくれば、全身を覆う疲労の重みが百倍に感じられても仕方ないというものだ。  宿屋の寝台に座りこみ、両手で頭を抱えてうつむいていると、ラジアンが扉を小さく開けた。 「大丈夫か? ハスケル」  この大柄な騎士のふだんのクルトへの接し方を思うと、珍しいほどの気遣いだった。つまりそれほどクルトが疲れて、あるいは参って見えるということか。 「ああ……」  応えながら何か話さなければ、とクルトは思う。話もできないほど参っていると思われたくなかった。事件の後処理に忙殺されてこの騎士もクルトと同様にくたびれていた。  桟橋に転がった死体の処理や協力した隣国の警備隊とのやりとりには二日かかった。ラジアンにとっても神経を使う折衝だったにちがいない。クルトは警備隊の負傷者を治療したが、同時に彼らの心にも――警備隊だけでなく、現場となった漁村の人々にも――精霊魔術で介入せざるを得なかった。  翌日になると、敵方の唯一の生き残りであるサージュを確保して一行は国境を越え、王国へ戻った。ラジアンは騎士団の権限で一番近い宿の上階を借り切って、やっと落ち着いたわけである。 「サージュはどうだ?」  クルトは肘をついたまま眼をあげてたずねた。ラジアンは部屋に入ると扉を閉めた。ブーツが重く床板に響く。 「ヘンリーが見ている。よく眠っているし、呼吸も安定しているらしい。ハスケル、おまえの力だ」 「そうか。王都に連れ帰ったら――」 「まずは騎士団の留置場へ入れることになるだろう」  ラジアンはさらりといった。 「審判の塔の連中に横取りされる前にこっちで尋問するつもりだ。この件、当分おまえの力が必要だ。ソールの守護魔術師の肩書があれば審判の塔にも文句はいえないだろうからな。にしてもあの男、回復するのにどのくらいかかる?」 「わからん。今は死なないようにしているだけだ。一度施療院で処置をしないと王都へは運べないぞ」 「明日の朝いちばんで近くの施療院へ行く。さっきタイラーを使いに出した。おまえはヴェイユ師へ連絡しただろう?」 「ああ。ソールがさらわれたとだけ」 「ハスケル、そんなに落ちこむな。騎士でもないのにおまえはよくやった。桟橋の件は騎士の俺の失点だ。落ちこむのが仕方ないとしてもソールはきっと大丈夫――」 「あたりまえだ。ソールは俺が必ずみつける。必ず」  平静に発したつもりだったのに、クルトの言葉は固く激しい調子で部屋に響いた。ラジアンはぽんとクルトの肩を叩いた。武骨な男の手は重く、一瞬触れた手のひらは暖かかった。 「もう休め。明日も早いぞ」  こんな風に眠れない夜を過ごしたことなど、いったいこれまであっただろうか。  部屋は狭く、仕切っているのは壁というのもおこがましいほどの薄い板だった。寝返りを打ったクルトの耳には板の向こうにいる騎士のいびきが聞こえてきた。  いきなり上階を貸し切りにされた宿の主人は、みるからに重傷らしい怪我人とクルトのローブの色をみて緊急事態だと察したようだ。ラジアンの騎士の徽章も効果があったか、関わり合いにならないのがいちばんというように食事の時も近寄ってこなかった。もちろんその方が一行には都合がよかった。  クルトはいつもなら遮断している魔力による知覚を騎士と怪我人に向け、いびき以外の異変も聴きとろうとした。こんな深夜ともなれば、眠っている彼らからはとくに何も響いてこない。眠れない自分の意識だけが暗闇の中でさまよっている。  これまでもソールのことを思ってひとりで悶々としたことなら何度もあった。はじめてソールへの恋情を自覚したとき。カリーの店に侵入した男にソールが襲われたとき。その後、ソールが自分の意志でカリーの店から姿をくらませたとき。  それでも今のような落胆は感じていなかったように思う。ソールは今どこにいるのか。痛めつけられていないか、苦しんでいないか。そう考えると胸が締めつけられるような感覚を覚えたが、それ以上に腹の底でのたうっているのは、これまで感じたこともないくらいの悔しさにほかならなかった。ラジアンの同情ですら苦痛だった。  傍からみれば奇妙なことに、クルト自身には自分が負けず嫌いだという認識がほとんどなかった。物事が思うとおりに運ばないことに我慢ならない性質だとも思っていなかったのである。なにしろこれまでのクルトは、途中で多少の障害はあっても、ともかく自分に課した目標を満足いくようにやりとげ、目的に到達してきたし、そんな自分を誇りにしてもいたのだ。  しかし自分の力や経験でどうにもならない局面や不可抗力に直面したとき、人はおのれの本質を目の当たりにする。  ことの運びが理不尽で納得できないという悔しさは、サージュの治療で魔力を注ぐときにまず燃え上がり、クルトをさらに苛立たせた。施療院での経験で、治療師としての辛抱強さを十分やしなったと思っていたのに、である。こんなことをするくらいならソールを乗せたあの船を追いたいという考えで気が散りもする。  実際それが可能なら、村の住民の舟を借りて追っていたかもしれない。問題は海上では魔力の<探知>が通じないことだった。沖へ出た船を追うのはたやすいことではないのだ。回路魔術を完備した足の速い新型船ならなおさらである。  ソールを連れ去った一味は桟橋に残った仲間を見殺しにして――あるいはわざと殺していた。ひとりは明白に自害していて、サージュに刺さった短剣も敵方のものだった。追剥ぎや盗みをたくらむ武装集団としても奇妙すぎる。  残された手がかりがサージュしかない以上、尋問できるようになるまで彼を回復させるのが早道である。クルトの理性はもちろん理解していた。しかしソールに近づいて警戒を解き、ここまでさらってきたのもこの男なのだと思うと心穏やかではいられない。  魔力で<視た>サージュの体内は剣の傷以外にも異常が感じられたが、いまのところは傷口をふさぐ処置で手いっぱいである。施療院でこんな患者を診るときのクルトは歌で痛みをやわらげるのが常だったが、サージュに対しては歌えなかった。  翌朝は寝不足にもかかわらず眠気も感じなかった。苛々しながらサージュを施療院に運んだクルトへ穏やかに念話を投げかけてきたのは、学院のアダマール師である。 『クルト。気持ちはわかるが、今は落ちつきなさい』  もしこれがヴェイユだったら、クルトはさらに苛立って噛みついていたかもしれない。しかし学院の恩師で最長老でもあるアダマール師の前ではしぼまざるを得なかった。 『申し訳ありません』 『謝らなくていい。気持ちはわかるといっているだろう。そなたの悔しさは皆も感じている』 『いえ、俺はその――ソールを……守れなくて……』  心と心の会話では嘘がつけない。アダマール師に伝える言葉をかたちづくったとたん、言葉にしないまま押しとどめていた感情が師に向かって流れ出すのを止められなかった。アダマール師は無言のまま、念話に響くクルトの感情のこだまを受けとめていた。  しばしたってから『クルト。そなたの魔力はまた強くなったな』という。 『そうでしょうか?』 『ああ。制御できているようだから問題はなかろうが』  制御できている。本当にそうなのだろうか。かすかな疑念がクルトの中に兆したが、いま師へ伝えたいことではなかった。それよりもソールを乗せた船がどこへ向かっているかを探るのが先だ。 『ハスケル』  突然ヴェイユの念話が割りこんだが、クルトにはアダマール師もヴェイユの声を聞いているのがわかった。 『朝露を散らす者、という名前に聞き覚えは?』  ない、と答えようとして、クルトはふとひっかかりをおぼえた。 『ソールから以前聞きました』 『私もソールにたずねられた。彼がどこからその名前を知ったのかはわからないが、その時私はその名がレムニスケートの記録に残っていると教えたんだ。そのことは?』 『いいえ。俺にわかるのは、その名前をソールに教えたサージュが彼をカリーの店から連れ出したことだけです。で、こいつは仲間に見捨てられて、ここにいる』 『他の生存者は?』 『いません。朝露のそれがなんであれ……単なる盗賊団ではない。仲間を殺してでも秘密を守りたいらしい』  そう伝えたとたん、また心に何かがひっかかった。つみきやモザイクのように、あるいは層状に重なったクルトの心の奥からひとつの声が漏れ出たのだ。 (殺すといえばおまえも……)  念話から注意がそれたのをとがめるように、ヴェイユの声がクルトの頭蓋に鋭く響いた。 『ハスケル。できるだけ早くその男を王都へ連れて帰れ』

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