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【第2部 星々の網目にて】3.はぐれ星
「もうすぐ到着する」
『朝露を散らす者』のひとりが僕に直接口をきいたのはそれが最初で最後だった。僕はまた船室に閉じこめられていた。出るなといわれたのは昨日の午後からだ。何か起きたのかと思ったが、今日になって朝露の男の言葉で納得した。僕に外を見られたくないのだ。
男が出ていくと僕は狭い寝台に座り、壁の木目をみつめていた。これから自分がどうなるのかまったく想像がつかなかった。手持ち無沙汰なまま髪を指で梳き、結びなおす。突然船室の扉がひらき、船長の顔がのぞいた。
「先生。無事につきそうだぜ」
「僕は先生なんて呼ばれる者じゃないし、望んでここにいるわけでもないんだが」
「悪いね。俺にとっては先生もあいつらも仕事にすぎない」
あいつら、というのは朝露の男たちのことか。いまだに僕は船長の名前を知らなかったが、この船の名前は『はぐれ星』だと数日前に聞いていた。不吉とはいわないまでも船の名前として適切なのか、いささか謎だ。船乗りは縁起をかつぐのでは、とたずねると、船長はニヤッと笑って「この名はさだめにもらったもんだからな」と答えた。
『はぐれ星』はよくいって運び屋、あるいは傭兵団、最悪の場合海賊なのかもしれない。船での僕の扱いは丁重なものだったが、それは僕が貴重な「荷物」だからなのだ。しかし船長や副官も含め、この船の乗組員たちに僕はいささか好感を抱いていた。たぶん『朝露を散らす者』の三人と比べてしまうせいだろう。友人だと思っていたサージュのせいでいまここにいるのだと思うと、僕の「好感」なんてまったく信用ならないものなのだが。
船長に外套を返そうとすると「俺はいらん」の一言で断られてしまった。船室の薄暗さのせいか、船長の眼が思っていたよりずっと青いことに僕は突然気がついた。
「その外套も運び代に含まれている。先生のような人を乗せられるのはいいな。次に何かあったら『はぐれ星』を思い出してくれ」
次か。僕は皮肉な気分で小さく笑った。立て続けに起きた出来事のために感覚が麻痺しているのかもしれない。このあと僕はどうなるのだろう。ひとつはっきりしているのは、僕は帰らなければならないということだけだ。クルトのところへ――しかしこんなに遠くへ連れてこられては、たとえ逃げ出せたとしてもどうすればいいのか。
船長は扉を閉め、僕はまた船室に取り残された。しばらく時間がすぎて、船が大きく旋回するのを感じた。揺れはほとんどない。乗組員たちの掛け声が聞こえ、唐突に静かになった。ずっと体に響いていた機械の唸りが消えたのだ。僕はじっとしていた。壁のすぐ近くで固い物音が響いた。扉が大きくひらいた。
「ああ、こんな粗末なところに」
若い男の声だ。ランプの明るい光が眼を刺し、僕はまばたきした。はっとするほど赤い髪のしたで青い眸がきらっと光る。膝下の長さの上着も深みのある赤で、びっしりと刺繍がほどこされている。裾のしたで金属が反射した。片足が義足なのだ。
思いがけず僕はまじまじとみつめてしまい、あわてて眼をそらした。軽い笑い声が響いた。
「驚かせて申し訳ありません。私はブラウ、塔主レイコフからあなたの案内役を命じられました。どうぞこちらへ。ソール・カリー殿」
船室の外に出て僕はまた驚いた。船は巨大な洞窟に導かれた水路に浮かんでいた。洞窟の入口からは白い昼の光がさしこみ、前方は無数の明るいランプで照らされている。思わずみあげた頭上は天然の大伽藍で、星か夜光虫を思わせる青と緑の点が暗闇にぽつぽつと浮かんでいる。海藻や海風の匂い、油の鋭い匂いが同時に鼻を刺す。
渡り板の先の地面は石のタイルでおおわれていた。歩き回る人々はみな僕の前を行くブラウと同じような、膝下までの長い上着を着ているが、色はさまざまだ。ブラウのような刺繍のある者は誰もいない。彼らのひとりと話していた船長がちらりと僕の方をみた。黙って手をあげ、また話に戻る。僕は目礼を返しただけで慌ててブラウについていった。石のタイルの上で彼の金属の片足は固い音を響かせ、もう片足に履いたブーツの踵の音がリズムをとるようにやわらかく響いた。
「素晴らしいでしょう。暖流と火山の地熱でこの地は雪もあまり積もりません。港もこの通り、一年を通して凍ることがない。単なる不凍港ならよそにもありますが、この港のような設備や美しさはありません」
「火山?」
反射的に僕は聞き返した。
「ええ。この地に恵みをもたらしています。もっとも塔主がいなければただの災厄の元にすぎなかったでしょう。塔主の力でこの島がいかなる奇跡に満ちているかはあとでごゆっくりご覧になれますよ。ともかくその服や臭いをどうにかしなければ。船の旅は酷かったでしょうね」
僕は面食らった。ブラウの言い草はまるで僕が招かれてここにいるかのようだ。
「ブラウ殿。僕は」
「ここまでの間で行き違いがあったことは知っています。下層の連中は物事を理解していないことが多くて、ご不便をおかけしました。まずは居室に」
「いや、ブラウ殿――」
「ここから上層へあがります。多少階段を使っていただくことになります。すみませんが、途中から昇降機がありますから」
ご不便とかそういう話ではないのだが、ブラウは僕の返事を待ってなどいなかった。どんどん前に進みながらこの港の話を続ける。洞窟の天井がどのくらい高いか。満潮時の水位はどこか。いきなり横手から怒声が聞こえ、僕はびくっとしてそちらを見た。ブラウもその方向をみたが、たいした興味もない顔で手をふる。
「ああ、あっちは造船所です。『はぐれ星』もここで改良したんですよ」
階段の先に昇降機があった。
大きな屋敷や王宮で、階をまたいで食器や書類などを運ぶためにこんな装置が使われていることは知っていた。だがここの昇降機は人が数人乗れる大きさの箱で、内側は明るく照らされ、前面には優美な曲線を描く金属の柵が嵌められている。柵の曲線はブラウの刺繍に似ていた。この土地の伝統意匠なのかもしれない。
機械の唸る音が鈍い振動として体に伝わる。僕は足元をみつめ、壁の意匠をながめた。視線を戻すとブラウが僕をみつめていた。はかりがたい、奇妙な眼つきだった。見返すと「これは失礼を。さぞお疲れでしょう」とごまかすような口調でいった。
僕は黙っていた。要するに敵の本拠地にいるわけだから――何が「敵」なのかもよくわからないが――余計なことは喋らない方がいい。
昇降機を出たところはまた階段で、その先の扉をブラウが開くと馬車が待っていた。両脇に立つ男たちの上着は短く、剣を帯びている。空を見上げる暇もなく乗りこむように促された。一瞬だけ肌に感じた風は意外なほど暖かい。
ブラウは僕のすぐうしろから馬車に乗り、僕の前に座った。窓はなく、ブラウが手に持つランプの光がなければ座席も見えなかっただろう。ランプの光は炎ではない、揺らめかない白みがかった黄色だった。回路魔術を使っているのだろうか。
「すぐにつきます」
嘘ではなかった。狭い箱の中で気づまりに感じながらブラウの上着の刺繍を下から眼でたどるうちに止まったからだ。扉がひらいて外に出ると、ブーツの踵が板ガラスのようになめらかな石のタイルを踏んだ。前後左右が石造りの壁にかこまれた中庭のような場所だった。壁の浮彫はまっすぐな線と、つる草を思わせる渦巻が交互にならんだものだ。古代都市の遺物を連想させる意匠だった。
突然ブラウが僕の手をひいた。僕はびくりと体をひいたがブラウは気にした素振りもなく、一方の壁に切られた大きな両開きの扉へ向かう。建物のなかへ入った瞬間、機械の作動音のようなブンブンという音がかすかに聞こえたが、絨毯が敷かれた広い廊下を進むうちにわからなくなってしまった。ブラウは昇降機の前で足をとめた。今度の柵は金色で、箱の床には廊下と同じ模様の絨毯が敷かれている。港の昇降機とちがい、時間はほとんどかからなかった。ブラウが開けた扉の先には絨毯とぶあついカーテン、モザイクガラスで飾られた部屋があった。
「こちらでゆっくりお支度をしてください。のちほど塔主のもとにお連れします。私はいつでも近くにおります。ご用はなんでもお申しつけください。この先が居間で――」
ブラウは僕の頭が新しい情報を飲みこむのを待てないようだ。いや、僕に考える余裕を与えないようにしているのか。先に立って部屋の中の扉や引き出しを開けながら、立て板に水の説明を加える。
最初の部屋は表玄関のようなもので、バルコニーのある居間へ繋がっていた。その先に天蓋のある寝台を置いた寝室、衣類でいっぱいの衣装部屋と浴室。寝室の横手にはこれまた小さなバルコニーがついた書斎まであった。書棚はからっぽで、きちんと角をそろえて並べられた紙が机に置かれている。
カリーの店からサージュに連れ出されて以来、自分はいくつの箱を出入りしたのだろうか。僕は皮肉をこめて考えた。サージュの荷馬車、その後閉じこめられていた小屋、『はぐれ星』、そしてこの場所の箱。
まるで王侯貴族の持ち物のような豪華さだが、箱にはちがいない。どんな扱いをされたとしても、捕虜は捕虜だ。
「明かりや浴室の設備はここから」
ブラウはそういって居間の隅に置かれた四角い箱を開いた。
「ブラウ殿、回路魔術だったら、僕は魔力が――」
「大丈夫、作動しますよ。塔主はすべてご存知です。すぐにわかりますが、ここでは回路魔術は過去のものです。もっと古く新しい力があるので」
「回路魔術ではない?」
黙っていようと思ったのに僕は声をあげ、ついで息を飲んだ。ブラウはくすりと笑った。
「ええ」
心はとっくに好奇心ではちきれそうだった。だがそれと同じくらい周囲のものが恐ろしい。
見せられたすべての調度は豪奢で、洗練されていて、快適そうだ。箱の中の装置もこの快適さの一部なのだろうか。もといた世界とはまったくちがう場所に迷いこんだような気がした。僕は救いを求めるようにバルコニーの窓をみつめ、高く丸い塔に眼をとめた。ブラウは僕の視線を追っていた。
「あの塔はこの世界の知の中心です。明日以降ご案内しましょう。塔主ご自身でお見せしたいといわれるかもしれませんが。塔主はあなたを待ち望んでいました――が、まずはあちらをお使いください。失礼ながら、臭いますから」
浴室の方向をさされて僕は赤くなった。ブラウはにっこり笑い「着替えを出しておきます」といって衣装部屋へ入っていく。義足の足音は絨毯に吸いこまれるように消え、金属がこすれるかすかな音だけが響いた。
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