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【第2部 星々の網目にて】4.いばらの星

 城壁から見上げた空は雪をはらんだ雲に覆われていた。王都で雪が積もることはめったにない。憂鬱な灰白色の雲からちらちらと結晶が舞い落ちるだけで、地面に達すると溶けてしまう。  クルトは薄灰の衣をひるがえしながら石畳を歩いていく。王城を囲む城壁は迷路のように複雑な模様を描いているが、拡大された知覚で上空からみおろしているクルトにとっては、以前ヴェイユと話した地点まで行くのは造作もなかった。風が肌を切るように冷たかった。ソールのいる場所はどうだろうか。冬になると恋人の手足はいつも冷たく、眠る前は毛布の下で彼の足を温めるのがクルトの日課となっていたのだが、それができなくなって何日経っただろう。  国境の施療院でサージュの傷口の手当てをして、馬車で王都へ戻ったのは二日前のことだった。いま、サージュは騎士団によって監禁されている。カリーの店は学生を店番において平常通りに営業していた。ソール・カリーが不在の理由を常連や周囲の人々に悟られるのは得策ではない、とレナードが判断したためだ。  ここ数年ソール・カリーは王都の店にはめったにいなかったのだから、店番がアルバイトなのはおかしなことではなかった。常連がソールの行方をたずねると、学生は「ソールさんは商用で出かけていまして、問い合わせの返事は遅くなります」と返すのが常だった。  迷路の奥からヴェイユが近づいてくる。視界に入るずっと前からそれを感じられることを自覚して、クルトは軽い驚きを感じた。ヴェイユはクルトと同じように放散する魔力を自在に制御できる魔術師だから、今日のように隠密に顔を合わせるときは気配を消しているはずだ。それがはっきりと、しかもかつてなかったような精密さでわかるのは、クルトに異変が起きているからだ。  いまだけではない。王都に戻ってからというもの、自分の魔力制御がこれまでない具合に「開きっぱなし」になっているのにクルトは気づいていた。今までも能力限界の急な上昇を自覚したことはあるし、学院でもそんな現象は稀にあると教えている。不可能だったことが可能になるのは悪くないと思う一方で、これが起きたきっかけを考えるとクルトは素直に喜べなかった。  おまけに王都に戻ってきてからというもの、王城に入るたびにクルトはずっと不穏な何かを感じつづけていた。何やら「うごめいている」気配がするのだ。ヴェイユが念話ではなく直接会うように指示するのも奇妙である。会話を外部から隠したいのならむしろ念話を使うべきではないか?  しかしどうも、ヴェイユはそう思っていないらしい。たしかに念話というのは、より強い魔力に接した場合、当事者以外に聴こえてしまうこともないとはいえない。マンセルがうっかり拾ってしまったのはいい例だ。とすれば、十分な魔力と技術があれば意図的に盗み聞きをすることだって不可能ではないのだろう。たしかに今のクルトならそれもできそうだ。 「最初に『朝露を散らす者』という「名前」のことを話そう」  クルトの横に並んだヴェイユはひそめた声で単刀直入にいった。 「古来から存在する秘密結社の一部門だ。古い記録をたどると、暗殺や陰謀といった表沙汰にできない事件に彼らが絡んでいるのがわかる」 「一部門?」クルトは反射的に聞き返した。 「ということは、その連中は誰かのために働いていると?」 「私が見た記録ではそうだった。しかしレムニスケートの記録に残る組織はとっくに存在しない」 「どういうことです?」 「きみはレムニスケート家の由来を知っているかね?」  教師の急な質問にクルトは途惑った。 「いえ……?」 「レムニスケートはこの王国が誕生する前、いまの王家に協力した戦士たちが『家』の誓いを立てて誕生した一族だ。そのなかにひとり『朝露を散らす者』がいた。しかしその者が『朝露』だったころに彼らが仕えていた秘密結社はとっくになくなっているし、今回ソールをさらった『朝露』も当時に由来するものではないだろう。名前だけが歴史の狭間に浮かんでいる」 「どうしてそんなことになるんです?」 「目的が同じだからだ。何度もくりかえし同じ目的をもつ者があらわれる」 「目的?」  ヴェイユは抑揚のない声でいった。「〈本〉の復活だ」  冷気が強くなったような気がした。遠くで鴉の鳴きかわす声が響き、顔に雪の冷たい欠片がひとつ触れて、すぐに消えた。 「夏に海底に沈んだ古代都市の発掘調査へ行ったと聞いたが、彼らが滅びた理由について知っているか?」  ヴェイユがたずねた。 「嵐と海底火山の噴火だと」  クルトの答えにヴェイユは重ねて問いかけた。 「噴火を引き起こした原因についての伝説は?」 「いえ」 「一説にはある精霊魔術師によって地の熱が揺り起こされ、それで火山が噴火したといわれている。その魔術師が操る魔術は、現在の我々が使う精霊魔術でも回路魔術でもない、失われた魔術だった。火山の噴火で都市は崩壊し、魔術師が力を呼び出す鍵としていた〈本〉が海中で失われた」  クルトは眉をあげた。「俺の知る伝説ではありません」 「荒唐無稽だといわれる話でもある」ヴェイユはさらりといった。 「伝説に裏付けを求めるのは難しい。それにこういった話には変奏がつきもので、すべての変奏が知られているわけでもない。ともあれ滅びた古代都市の〈本〉には失われた魔術の最大の鍵がある、そう信じる者たちはいつも〈本〉を再生したり、断片的な情報を頼りに複製しようとした。再生者はいつの時代も現れる。この世に魔力が存在し、より大きな力を求める意思があれば、いつでも。今回もそうだろう。しかも今回、〈本〉はソールという人間の中に隠されている」 「ヴェイユ師。その〈本〉とソールの情報は、どこから彼を奪った連中に漏れたんですか?」  ヴェイユは答えなかった。王宮の方角へわずかに首を傾けただけだ。クルトは肩をすくめた。 「結局、ソールの船の行く先を知る手っ取り早い方法はサージュに聞くことだ。そうですよね? あいつは結局『朝露』の一味だったんだ。俺にやらせてください。治療のついでに」 「きみは治療師だ。やりすぎるな」  ヴェイユはひたいを指で払った。雪はちらりと舞うだけにとどまらないようだ。鴉はすでにいなくなっている。  サージュが監禁されたのは騎士団の留置場の一番奥、他の区画からは見えないように隔離された部屋だった。回路魔術の装置で何重にも施錠され、騎士の見張りがすぐ外に立っている。  クルトが治療師だと釘をさしたヴェイユにはクルト自身も大いに同意したかった。なのにクルトはサージュの治療に気が進まなかった。治療師としてあるまじきことだと理性も倫理も語るのに、これまで自分が扱ってきた人々と同じように距離をとって考えることが難しいのである。  しかしサージュの肉体はボロボロで、これがいくらかましにならなければ必要な情報も得られないだろう。単純に意識が戻ればすむわけでもない。クルトが行うつもりの尋問は〈探査〉で、される側にとっては負担が大きいのだ。サージュのような術者の場合は、心身両面にわたる無意識の抵抗も予想されるからなおさらだ。  しかもクルトの魔力で視たサージュの体は単なる怪我の範囲をはるかに超えた衰えを示していた。もっとも意識が戻ったあと、本人の不敵な態度はなにひとつ変わっていない。王都へ戻ってきてからクルトは毎日騎士団へ通ってサージュの治療をしているが、相手は粗末な寝台に横たわったまま、毎度毎度しわがれた声で勝手なことをいう。 「よう。あっさり癒されないオンボロで申し訳ないね」 「黙ってろ」  クルトの拡大された知覚はひとを形づくる肉の構成をひとつひとつ読みとり、体内に侵入した魔力の触手はあるべき姿へ戻そうと働きかける。サージュは当初クルトの魔力を防御しようとはしなかった。いや、むしろできなかったのだろう。彼の魔力は安定しない炎のようで、その根源から損傷していた。黒目がときおりありえないほど大きくなるのは魔力増幅薬の使い過ぎによるもので、つぶれた声帯もそのせいだ。クルトには初めて出会う症状だった。  クルトのそんな様子をみてとると、サージュはまたふざけた調子で「俺みたいなのは初めてか?」などという。 「うるさい」  クルトは威厳を保とうと努力した。 「ちょっとくらい喋らせろ。今のおまえは王国で最強の魔術師だろう。俺などひとひねりで殺せるし、この程度のことなら集中する必要もない。違うか?」  ひとひねり。  クルトは一瞬ぎょっとし、今度はそれを悟られないように努力した。その通りだった。あの桟橋でクルトは魔力の「ひとひねり」で男を殺した。それも純粋なただの怒りにまかせてだ。クルト以外の誰一人そのことに気づいていないが、王国の魔術師として完全に逸脱した行為だった。学院の師に告白すれば、戦闘のただなかだったから仕方ないと許されるのだろうか?  もちろんあの男はクルトの魔力ではなく騎士の剣で死んだかもしれないし、他の『朝露を散らす者』たちのように服毒して自害したかもしれない。だがそれ以前に、クルトをそんな状況に踏みこませた原因はサージュだ。 「王国で最強の魔術師に癒してもらうのは気分がいい」とサージュはクルトの手のひらの下でへらず口を叩く。「俺を〈探査〉するつもりだろう?」  クルトは短く答えるにとどめた。 「ああ。覚悟しろ」 「おまえのおかげで調子が戻ったから、簡単には視えないぜ」  いわれずともわかっていた。魔術師には通常の〈探査〉は効かない。精神を守る障壁が堅固に張り巡らされているからだ。だがそれはソールが持っているような、魔力を無効化させる防壁とはちがうものだった。ソールの防壁は破れなくても、魔術師を守る壁ならクルトには破れるはずだ。なにしろこの壁は結局魔力でできているものにすぎない。  それにこれだけへらず口を叩けるのなら、もう待たなくてもいいだろう。  本来〈探査〉は他の精霊魔術師か、少なくとも他人の立会いのもとで行われるべきものだが、規則を守る気はとっくに失せていた。クルトはサージュの肉体ではなく精神へと魔力の触手をのばす。男の精神を囲む壁は黒曜石のようなつややかな黒だった。クルトの魔力が表面をなでるだけで稲妻のような衝撃が返ってくる。〈探査〉のためにはこの壁の内側に行かなければならない。しかし壁を強引に破壊すればサージュの精神も危うくなり、そうなれば十全な〈探査〉も不可能になる。  クルトは落ちついて壁の外周をさぐった。方法はどこかにある。  そしてまた、いつのまにか自分ができるようになったことを知って驚いた。じっくりと観察するうち、当初は黒曜石の「壁」と視えたものの細部がくっきりと理解できたからだ。それはいまやより単純なシンボルの集合と組み合わせにすぎなかった。サージュの『力のみち』のあいだに命令を指示するシンボルがひとつながりの織物のようにからまり、層をなしているのだ。  わかってしまえば簡単なことだった。魔力をシンボルとシンボルのあいだに侵入させ、わずかに弄って組み合わせを変える。糸が解けるようにほころびが生まれた。  これだけで十分だ。  クルトはその奥へと〈探査〉の手をのばした。

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