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【第2部 星々の網目にて】5.塵の星

 浴室は温かく、清潔で便利で美しかった。タイルはこの建物の壁とおなじ渦巻と直線で飾られ、青で彩色されている。浴槽からあふれた湯は公衆浴場のようにタイルのあいだに切られた穴から流れていった。クリーム状の石鹸は花の香りだった。僕は体と頭を満足いくまでこすった。  抜けた髪の毛がもつれて湯にまざり、どこかへ流れていく。なめらかな湯で心地よく温まり、陶器の浴槽にもたれたまま僕はまどろみそうになり、はっとして眼をさます。こんなに贅沢な入浴は夏に港湾都市のギルドに泊まったとき以来だ。あのときは風呂からあがるとクルトが戻ってきて……  こんな状況にもかかわらずクルトの手や吐息、声を記憶から呼び出してしまったのは、湯の心地よい肌触りのせいだろう。僕はひとりで赤面し、寂しくなった。クルトに会いたかった。彼に大丈夫だとささやいてほしかった。馬鹿な、と思った。そんなことを考えている場合じゃない。ここでたったひとりになって、なおクルトに頼るつもりか?   湯をあがると衣類が用意されていた。水差しの水は乾いた喉を甘く下る。膝下の長さの上着はやわらかい青い布地で、ブラウの服と同じような細かな刺繍がほどこされていた。下着やズボン、底のやわらかい靴まであつらえたようにぴったりだ。  快適なのに、いや、快適だからこそ薄気味が悪かった。僕は思い立って衣裳部屋をのぞき、船長がくれた外套が隅にかけられているのを確認して妙に安心した。髪を留めて部屋の中の大きな鏡に向き直る。豪華な異国の服装はまるで芝居の扮装のようだ。僕は何を演じるよう求められるのだろう?  書斎をぬけて居間へ出ていくとブラウが待っていたようにあらわれ、僕を検分するように眺めた。満足したように微笑んで「よろしいですか? 行きましょう」という。  ブラウはいったいどんな立場なのだろう。彼のあとをついて歩きながら僕はぼんやり考えた。また昇降機に乗り、薄暗い曲がった廊下を進むと別の昇降機があらわれる。壁の色が途中で変わったので、ひょっとしたら別の建物に入ったのかもしれない。  どこをどう歩いたかはあとで思い出せるだろうと僕は楽観することにした。緊張のせいか空腹も感じなかった。このあと対面する人物についてサージュが話したことを思い起こす。古代狂の学者で、この島の領主でもある人物――今に至ってなお、僕が持っている具体的な手掛かりはサージュの言葉だけだ。  突然ひどく明るい、広い空間に出た。正面にかかった巨大な絵が視線をひき、僕は足をとめてみあげた。  左手の高い位置から水の渦が石畳の街路へいまにも流れ落ちようとしている。地面の一部は割れ、石造りの建物は今まさに倒壊しているところだ。崩れる石の壁や柱、襲いかかる波から逃げようと走る人々がいる一方、ひとつの建物の内部では、書架からあふれた書物を必死の形相でかきあつめようとしている人がいる。絵の奥では海面からせりあがった山が火を噴き、燃える黒い石がじきに街路に降りそそぐだろう。一番上には大きく光る星がひとつ。 「どうだね?」  背後で声が天井に反響した。僕はふりむいた。  恰幅のいい大柄な男が歩いてくる。まっすぐな長い銀髪を首のうしろで結んでいる。肌は白く、眼は青かった。六十代というところだろうか。身ごなしは軽く、僕をみつめる視線は鋭い。男は口をひらき、すると低く深い艶のある声が広間にぱっと響きわたった。 「想像で描いたものとしてはよくできているだろう。もちろん、想像のなかでさえ何日もかかった出来事を一枚の平面に描くなど、普通の方法では不可能だ。見る者を納得させるために画家はいくつものトリックを用いている。時間軸の異なるいくつかの出来事をつめこんだり、特別に知らせたい細部についてはより細かく描きこんだりね。そして見る者に対してこの壮大な出来事を体感させようとしているのだよ。ソール・カリー殿」  僕は男に向き直った。男は僕の正面にくると手をさしだした。 「バトモア・レイコフだ。ついに会えてうれしい」  いつのまにかブラウの姿が消え、広間の一方の大きな扉がひらいている。不意打ちをくらったような気分で僕は彼の手を握る。口からやっと出た声はなんとも頼りなく響いた。 「僕は捕虜としてここにいるのだと思っていますが」 「招くにあたって強引な手段をとったのはすまなかった」 「ここに僕が招かれたというのなら、帰してもらえますか――カリーの店に」  レイコフは答えずに僕をみつめていた。眼光は鋭く、僕は動けないまま立ち尽くした。ふとレイコフの口元がゆるみ、緊張が解けた。彼はひらいた扉をさした。 「食事にしないかね」  ため息をつくのをこらえ、僕はレイコフの示すままに歩いた。扉の向こうには大きな食卓に銀の食器が並べられた席がふたつあり、座るとレイコフはみずから瓶をとってふたつの杯に琥珀色の液体を注いだ。杯は浮き出し模様のある繊細な陶器だった。細い青い線で模様が描かれている。 「ソール殿の『塔』への訪れを祝して」  僕は黙っていた。レイコフは先に杯に口をつけた。 「この島で作っている蜜酒だ。ワインの良品を切らしているものでね。アルコールは平気なのだろう」  彼はどこまで僕のことを知っているのだろう?  僕は観念して杯を取った。蜜酒はとろりと甘い口当たりだった。レイコフは自分で皿の覆いをはずした。料理の匂いが僕の空腹を刺激する。香ばしい肉の香りやなじみのないスパイスの匂い。料理にはパンではなく穀物を煮た固い粥が添えてある。 「食べようではないか。話はそれからだ」  困ったことに食べ物はすべて美味しかった。はじめて味わう穀物から、最後にレイコフが僕の前に置いたガラスの器の中身まで、固まった僕の心をほぐそうとするかのようだ。ガラス器はテーブルの端に置かれた箱――なんらかの装置だろうか?――から取り出された。飴細工がのせられた氷菓で、舌にのせると爽やかにはじける。  食事のあいだ、レイコフはひとつひとつの食べ物について彼自身が料理人であるかのように詳細な説明をした。調理法だけでなく、家畜がどんなふうに育てられているか、餌をどのような根拠に基づいて調合するかまで。僕は黙って聞いていたが、話の細かさになかば呆れながらも興味を感じざるをえなかった。 「退屈させたかね?」 「いえ。とても……美味しかったのですが、レイコフ殿。僕はここには」 「留まりたくないと?」 「あなたが僕をここへ来させるために幾人が亡くなったか――少なくとも怪我をしているかと思うと」  僕は最後にみたサージュの姿を思い浮かべた。僕を桟橋で呼んだクルトの声も。しかしレイコフには一切気にした様子がない。 「あれは計算外だったのだよ。急いでいたから命令がうまく伝わらなかったのだ。第一そなたは私のことも、この塔についてもたいして知らないだろう。ここを何だと思っている?」  僕は落ちついて答えようとした。 「僕にわかっているのは、この島が北方連合に所属するということ、『果ての塔』のあるじのあなたが古代魔術を研究する学者だということです。きっと魔術師でもあるのでしょうが、失礼ながら」  レイコフは僕の言葉を途中でひきとった。 「ああ、そなたには魔力を感知できない。わかっているとも」  またレイコフの視線を感じた。僕の顔から首筋、指先まで、その強いまなざしに焼かれているような気がする。 「もし私が、そなたのそれを治せるといって――ここへ来るよう招いたとしたらどうだったかね?」  命令に慣れた力強い声がいった。 「そなたの精神の防壁やその奥に封じららたものを解放し、そなたの内側にある力と知識を支配すれば――ここでそれができるとしたら、来ようと思わなかったかね?」  僕は唾をのみこんだ。即答できなかった。もし王都で彼からこれを聞いたなら僕は断ることができただろうか。たしかにサージュは似たような話をして、その誘惑に揺れたとはいえない。学院の魔術師も施療院の治療師も不可能だといった僕の魔力欠如がもとに戻るとこの声で聞いたら……  僕のためらいを突くようにレイコフは続けた。 「少し落ちついてあたりを見てほしい。そう、私はこの島の領主で、この塔のあるじで、ここで興味の赴くままに研究をしている。ここに何があるのか、そなたにはじっくり見てもらうつもりでいた。知ればすぐに帰りたいとは思わなくなると――私としてはそう自負している。そのくらいの財産がここにはある。本当に意に沿わないのを強制はしたくない。そなたにここへ来てもらう手順には間違いがあったかもしれないが、私としては間違いを認めるのはやぶさかではない。そなたに会うために、程度の低い者の手を借りたのは後悔しているところだよ」  僕は口をはさんだ。 「『程度の低い』といわれたのは『朝露を散らす者』ですか? それともサージュのことでしょうか?」  レイコフは微笑んだ。唇のはしに酷薄な気配がほのみえて僕の背筋は泡立った。 「私はお願いしているのだ。ソール殿。まずはこの島で私が達成したことを見てくれないだろうか。そなたの完璧な記憶にそれを留めてほしい」  では彼は僕の――ふつうと比べれば特異な、記憶する能力のことも知っているのだ。レイコフの声の艶はサージュのしわがれた声とは対照的だった。あまりにも耳に心地よく、魅了されそうなのが恐ろしい。おまけにいま僕に向けられている視線には哀願の色がこもっている。 「いかがかな。ソール殿」  僕はうなずいた。それ以外に何ができただろう? ひとつだけはっきりしたのは、脱出の手段は自分で探すしかないということだ。  ブラウのあとについて元の部屋に戻ったとき、僕は心底疲れていた。久しぶりに腹がくちくなるまで食べたせいもあったにちがいない。寝台の誘惑に逆らえず、上着を脱いでもぐりこむと即座に眠りに落ちていた。  いったい何時間眠ったのか、目覚めると窓の外は白い夜明けだった。身支度していると扉が叩かれ、何もこたえる前からブラウが中に入ってくる。入室に許可など不要だと思っているらしい。ブラウが僕の監視であることは見当がついていた。すぐ近くで物音を聞いているのかもしれなかった。 「塔主には、あなたが望むものをなんでも見せるように命令されていますが、最初は施設の全体をご案内しますね。何があるかわからなければ見たいものもおわかりにならないでしょう。朝食のあとに周囲をぐるりとお見せしましょう」  朝食はブラウが運んできた。バターを落とした粥と干し果物。食べ終えて建物の外に出ると、地面には冬だというのに緑があった。 「この島は火山の地熱で雪が積もりません。湿度も高いので冬でも多少緑の草が生えます。家畜の餌は夏の間に備蓄しますが、暖かいので新鮮なミルクを一年中出しますよ」  あたりを見て歩きたかったのだが、すぐに窓のない馬車に乗せられてしまった。一瞬みえた太陽のおかげで東西南北は把握できたが、船がついた洞窟の方角を知りたかったのにさっぱりわからない。馬車が止まったところで建物に入り、昇降機で地下に降りた。この島は洞窟だらけのようだ。自慢の施設の多くは洞窟の中に作られているらしい。  僕はブラウの行く道筋を頭に地図として描こうとしたが、複雑すぎて途中で断念した。案内されるうちにわかったのは、金工細工、皮なめし、インク製造といった、書物をつくるために必要な設備をこの島は何でも備えているということだった。最後にブラウは広い印刷所に入り、そこで僕はあの音を耳にした。あの音――ブンブンと唸る機械の音だ。夢のなかで時々聞いていたのとまぎれもなく同じ音…… 「あの機械は」  僕は部屋の奥を指さした。束ねられた金色のパイプが見えている。ブラウは首をふった。 「当地の印刷は他のものとはちがうのです。本日は奥にお通しできません。いずれ塔主から直接お話があります。今日は先に――」  僕はブラウをさえぎった。「あの機械は回路魔術で動いているのか?」 「そう思いますか?」  ブラウはにやっと笑った。赤毛が天井の明かりに反射してあかがね色に輝く。 「ここで動く機械は、回路魔術とは異なる原理を持っています。塔主の長年の探求の結果です。僕の脚も――」指がまっすぐに足元をさした。「その成果のひとつで、あの方は古代の魔術を復活させたのですよ。塔主は偉大な治療者でもあります。この脚はその証拠です。野蛮な回路魔術とは似て非なるもの」  ブラウの口調には熱がこもった。感銘をうけるより先に僕は本能的な怖れを感じた。ブラウはなだめるように微笑んだ。 「申し訳ありません。先走りまして。図書室へ参りましょうか」  図書室は学院のそれと同じくらい広かった。個人の所蔵とは信じられない規模だ。司書は僕を昔からの顔なじみであるかのように出迎え「お好きな本を書斎にお持ち帰りください。塔主の望みです」という。  手前の蔵書をざっとみただけで、カリーの店に仕入れようとして何年か探し、みつからなかった書物まであるのがわかった。僕はその一冊を手に取った。ソリンの『変調の技法』は精霊魔術の修練書のひとつだ。写本も手に入らないのに、ここにはオリジナルの原本があった。 「あなたに魔力がもどったら」  突然ブラウがささやいた。彼は書架のあいだを歩く僕のすぐあとについて回っていたのだ。 「どれだけ多くのものが得られるでしょうね」 「ブラウ。レイコフは何を探しているんです」  僕はたずねた。この図書室には誘惑が多すぎた。同時に恐怖も感じていた。僕のような人間にはっきりわかっていることがある。力あるものにとっては知識もまた力なのだ。レイコフは島の領主としての権力を持ち、さらにこれも持っているというわけだ。 「塔主は古代の失われたシンボルを取り戻そうとしています」  ブラウの声は固い小さな宝石のように書架のあいだに転がり落ちた。 「あなたの力を取り戻すこともあの方が成し遂げるべき事柄の一部なのです。何もしなければ、過去の歴史でひとが成し遂げたことのすべてが、塵となって消えうせるのですよ」  僕は司書に断って蔵書から一冊を手に取った。図書室を出たあともそこかしこに監視の目を感じた。ブラウだけではない。印刷所で働く者も、図書室の司書も、行きあった者全員が僕を見張っているような気がしたのだった。おまけに建物の出入り口には必ず武装した男たちが立っている。  疲れたので部屋に戻りたいとブラウに話し、僕は彼のあとについて長い通路を抜け、馬車に乗った。部屋に入ってやっとひとりになれた。太陽は中天に達していた。  午前中いっぱいこの島をみせられたのに、欲しい手がかりはみつからなかった。もちろんこの島を出るための手がかりだ。船のドックに行きつかないことには何も始まらないはずだが、どうやったらこの島の地図を手に入れられるのだろう。  ため息をつきながら僕は図書室から持ち帰った本を開いた。ならぶ文字に視線を走らせ、たちまち惹きつけられるのを感じる。困ったことだ。こんな状況だというのに、とても面白そうだ。  このままこの島にいれば、カリーの店にない書物を僕はすべて読むことができるのかもしれない。そしてカリーの店のような雑事に――顧客への対応や仕入れについて煩わされることなく、読んだ内容についてじっくり考えることだってできるのかもしれなかった。もしこの島にずっと閉じこめられて、逃げられないとして……  しかし逃げられないというのであれば、王国でも似たようなものだ。〈本〉をこの身に抱えている限り、僕はつねに王城の管理下にいなければならないのだから。隣国に逃げたところでおなじこと。僕のちっぽけな自由や望みなど吹けば飛ぶようなものにすぎない。だとすればここにいてもたいして変わりがないのでは?  僕は混乱して頭をかきむしった。指が髪留めのなめらかな表面に触れた。クルト。きみはいまどうしているだろう?

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