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【第2部 星々の網目にて】7.変光星
レイコフは夕食の前に今日もみずから蜜酒を注いだ。昨日とおなじ瓶からふたつの杯へ。ひとつを僕の方へ押しやって、手に取るのを待っている。
支配的な視線に逆らえないまま僕は杯をとりあげた。陶器はひんやりと冷たいが、蜜酒は甘く、腹の中で熱くなる。レイコフに丁重に扱われているのは疑いようもなかった。彼はあくまでも自分の意思を押しつけてくるが、手荒な扱いではまったくない。食事は今日も豪華で、見慣れぬ野菜と初めての風味に満ちている。今日も給仕はいない。
「研究が一段落したから、私も明日はブラウの案内についていこう」
昨夜とはちがう氷菓を前においてレイコフがいう。
「どんな研究を?」とたずねると逆に問い返された。
「伝説に登場する『浮遊都市』は事実だと思うかね? 水に浮かび、自在に移動する島だ」
いきなりの話題に僕は面食らった。
「いえ……多少の真実を映してはいても、誇張があると思っていますが」
「そうだな。なぜなら現在の我々はそんなものはありえないと思ってしまうからだ。当代一の精霊魔術師だと讃えられる者がいたとしても、我々の魔力はしょせん小さなもので、物体を動かすなどできるはずがない。もちろん回路魔術は多少の変更を加えた。だが古代の生活を支えていたのは完全にちがうものだ。私はそのごく一部の再現に成功したが、島を動かすには至っていない。とはいえ、道はみえている」
僕はまばたきし、記憶をさぐった。
「都市は内部で青い血流を燃やして力を得、選ばれし魔術師がその流れを保った――僕が知る伝説のひとつはこう語っています」
レイコフのまなざしがきらめいた。
「ああ。その通りだ。私はその青い血流を追い求めてきた」
ふいに衝動がこみあげてきた。僕はスプーンを置き、早口でいった。
「僕はあなたのような目的はもっていません。たとえ僕の魔力欠如が治っても、あなたの目的に協力したいとは思わないでしょう」
「そうかね?」レイコフは愉快そうな笑みをうかべた。
「まだすべてを見てもいないのに? そなたは自由にこの館を歩いて良い。図書室への出入りも自由だ。道に迷ったら誰にでもたずねるといい。みなそなたのことを知っている」
周囲の全員が僕のことを知っている。それはつまるところ自由など何もないということではないか? そう思いはしたが、僕は黙っていた。氷菓はまだ半分残っていたが、食欲は失せていた。レイコフは立ち上がり「こちらへ来なさい」といった。広間の巨大な絵の隣に手を当てると壁だと思っていた木目が動き、ぼんやりと照らされた通路があらわれた。
レイコフのあとについて僕は長いらせんの階段をのぼった。だんだん入口が遠くなる。いったいどこまで上るのだろうと思ったとき、階段の終点がきてレイコフは扉をあけた。
ガラスの半球を夜の空が覆っていた。一面、黒い布にばらまいた水滴のような星の光に覆われている。円形の部屋の中央には大きな天体観測機械が据えられ、金属の筒が突き出していた。レイコフは小さな明かりを手にもって暗がりで僕を機械のそばへと招くと黙って機械を操作した。昼間印刷所で聞いたのと同じ、ブンブンと唸るような音が響く。
「どうだね。美しいだろう」
僕はレイコフが指さしたレンズを覗いた。視界一面に青い星の一団が広がった。眼の前に宝石をばらまかれたかのようだ。
「もちろん美しいものをみたいというだけのためにこれを作ったわけではない。この機械はこうして星をみるのにも使えるが、本来それ以上のものだ。そなたのことを最初に知ったのもこの助けがあったからだ」
「――どうやって?」
「そなたの魔力が回復すれば教えてやれるだろう。今は聞いても無駄だ。星の観測といえば……」
レイコフが離れると急に機械の唸りはやんだ。レンズの向こうの星々は消えてしまい、僕は頭上をふりあおぐ。部屋の壁の一方は半分透明で、暗い地上にもわずかな数の光があったが、空の星が圧倒していた。
突然白と橙色の明かりがついた。レイコフは大きな棚から木枠を引き出している。
「星の地図だ。全天を観測しながらこの地上でもっとも正確なものを作成中だが、生きている間にどのくらい埋められることか」
僕は木枠を指さした。
「この棚はすべて星図なのですか?」
レイコフは軽く頭を振った。
「いずれじっくり見る機会をあげよう。ここは塔の中心だ。天に関することだけを調べているわけではない。地上の雑事もあるからな」
レイコフの視線を追ってふりむくと、広い円形の部屋には先ほどの観測機械以外にも、何に使うのか皆目わからないものが並べてあった。門のようなアーチ、濁った巨大な球体、渦を巻く金属線、それに書架。
「あなたの著作はここにありますか?」
レイコフはふりむくと書架から大部の書物を一冊取り出した。
「あとで読むといい。持っていきなさい」
「これは」
「古代の魔術は現在の精霊魔術や回路魔術とは異なる方法を向いていた。力をシンボルに変換することで操作できるようにしていた。彼らはそのためにシンボルを刻んだ印章を使った。この本はそういった事柄について私が行った最初の考察だ」
僕はずっしりした書物を両手で受け取った。なめらかな革に覆われ、金箔があしらわれている。大きすぎて立ったまま開くには不向きなものだ。
「シンボル――呪文に関する文献ならいくつか知っていますが、あなたの著作は知りませんでした」
表紙をみつめたままそういうと、レイコフは芝居がかったそぶりで大きく片手を振った。
「シンボルは力の|形代《かたしろ》だ。それを認めなかった我々は彼らより退化したといえる。本来は今私がそなたに話しているこの言葉も、そんな力を持つものだったはずだ。古代においてはたしかにそうだった。もちろん我々の言葉の中にも過去の遺稿がとどまっているが、捕らえることは難しい。そなたに封印された〈本〉はまさに、このシンボルの集合なのだ」
たずねるつもりのなかった問いが圧力のようにせりあがった。衝動的に僕は口を開いた。
「どうやって僕の中にある防壁を取り去るつもりですか。どんな精霊魔術師もあの内側には入れなかったのに」
レイコフは首をふった。何か間違っているといいたげだった。部屋の円周に沿ってゆっくり歩きはじめる。
「精霊魔術は攻撃的で敵対的な魔力の使用法だからな。そうではなく、内側から開くのだ」
「内側から?」
「そなたには完全な記憶があるだろう? 良い記憶を誘導して、みずからの意思で扉をひらかせる。そなたの王国では聞かないかもしれないが、北方では古来から山岳民のあいだに伝わってきた。長い冬のあいだに魔力をみずから閉ざしてしまった者を治すためにね。これに私の研究成果をあわせることで十分可能になるだろう。考えてみなさい。そなたの望みはなんだね?」
僕は黙っていた。これは誘惑なのか必然なのか、自分は何を望んでいるのか。
こんなこと、クルトと一緒にいるときは考えるまでもない。ささやかな希望や日々の生活のちょっとした明るさと共に、ただ暮らしていけるだけでよかったのだ。だがいま僕はここにひとりでいて、何を望めばいいのかもわからなくなっている。
おまけにレイコフの誘惑は不安を生んでいた。彼は防壁を取り除くとあっさりいうが、たとえそれが成功したとして、はたしてそれだけですむのだろうか? だがヴェイユもいったように、防壁さえなくなれば僕は『彼』をふたたび思い出せるのかもしれない。
「慌てる必要はない」
レイコフの声が響いた。まるで僕の思考が一回りするのを待っていたようだ。
「そなたの意思が重要だといったはずだ」
翌日も僕は建物の外へ連れ出された。今度はレイコフとブラウ、それに護衛らしい男の四人だった。今度の馬車には窓があり、ゆきあった人々は立ちどまって僕らが過ぎるのを待った。道幅のためではなく、レイコフに敬意を表するためだ。
空は青く澄み渡っていた。馬車はゆるい坂道をのぼっていく。行きついた先の小高い丘から湖がみえた。ふちを丸い森にかこまれて、空を切り抜いたように青く輝いている。湖からふたすじ川が流れているが、その先は森の中に消えていた。川のほとりに建物があり、横の空き地から煙があがっている。
「あれが製紙所だ。風向きによっては臭いがきつい」
レイコフの言葉に続けてブラウが「申し訳ありません。こればかりはどうしようもないので」と僕に真顔でいう。ブラウはレイコフに心酔しきっているのは気味が悪いほどで、僕は馬車の中でひたすら居心地が悪かった。
館(島の者たちは塔を含む建物をそう呼んだ)に戻ったのは正午をまわったころだ。レイコフはこのあと所用があるという。図書室でも昨夜の観測室でも、好きに見ていい。そういって立ち去った。僕の部屋には昼食が用意されていた。昨日の下着は誰かの手で片付けられ、寝台は整えられている。レイコフに渡された蔵書は書斎にきちんと置いてあった。
「どうしてそんな顔をされるのです?」
ブラウが突然たずねた。昼食の給仕をするといってそのまま部屋にいたのだ。
僕は呆れてブラウを見返したが、彼は本当に不思議そうな表情をしていた。
「いや――僕の店がどうなっているか気にかかって」
実際は、気にかかっているのはカリーの店というより王国で僕に関わる人々の方だが、ブラウはきょとんとした眼つきで僕をみた。
「ソール殿、心配なのはわかります。でもあなたはもう塔主のもとにいるのですよ。そんなに気落ちしていないで、むしろあなたの力を取り戻せることを喜ぶべきです。力が戻れば自ずから道は見えるのですから」
彼は本当に僕が望んでここに来たのではないとわかっていないのだろうか。
その晩は部屋に夕食が運ばれた。レイコフと共にした食事より多少簡素だったが、蜜酒の瓶は添えられている。館のなかを自由に歩いてよいといったレイコフの言葉は正しかった。僕は昇降機や長い通路に迷いそうになりながら図書室へ行き、塔の観測室へ行った。星図の棚を引き出して中をみて、塔の上から地上の方角をたしかめた。寝る前は書斎でメモをとった。館の略図を描き、火山湖や川、それに通った道をできるだけ正確に配置する。
自由に歩いてよいといわれたが、どこにもブラウや護衛の男たちがいて僕をみていた。僕はそもそも人と打ち解けるのが得意ではない。ブラウとの会話は堅苦しかったし、護衛の男やたまにみかける使用人らしき人々は話しかけようとしてもうなずくだけだ。おまけにひとりで館の外へ出ようとしたとたん慇懃に止められるのだった。
次の日もそのまた次の日も、そんな風にして何日か過ぎた。レイコフと夕食をともにすると、彼はそのたびに防壁を取り除く「措置」の話をする。
「そなたの防壁が簡単に取り除けると思うほどうぬぼれてはいない。だが私は力になりたくて話している。もしそなたと封印された〈本〉の謎を共に研究できれば、これ以上ない喜びだよ」
とはいえ結局は虜囚なのだ。快適な環境や夕食の蜜酒に急速に慣れながらも、僕の焦りはつのっていった。島を出る方法をみつけられないままずっとここで飼い殺しにされる恐怖もあったし、館の内部や島のいたるところで作動している見慣れない魔術装置の魔力を自分がまったく感知できないことにも恐怖を感じていた。せめてセッキが作った眼鏡がここにあればいいのだが。
もしレイコフに従って防壁を取り除くことができたらどうなるだろう。次第に僕はそう考えはじめた。防壁がなくなっても、かつて僕が持っていた魔力が戻る保証はどこにもなく、制御できるかどうかもわからない。しかし少なくとも僕は魔力を感知できるようになるはずだ。
ヴェイユは以前、僕がもっているはずの『彼』と〈本〉の記憶は、防壁の奥、僕の精神のどこかに封印されているといった。レイコフはその謎をさらに解きたいという。僕が王国で一種の危険物扱いを受けていたのは、現在は僕自身にも届かない〈本〉の記憶のせいだった。少なくとも僕はそう聞いていた。
しかし〈本〉の記憶は果たしてどのくらい危険なものだろう。また、誰にとって危険なのだろう。〈本〉を恐れるのと、今のように手足をもがれたも同然の状態を恐れるのと、どちらがましか?
レイコフの興味を満たすために協力したいとはまったく思わなかった。しかし魔力をいくらかでも取り戻す方がここを逃げられる可能性が高いとなると、話は別だ。飼い殺しにされるよりはずっといい。待っていれば状況がよくなるという保証はどこにある?
クルトがみつけてくれるのを待っていることなどできない。自分で何かをしなければ。
僕は書斎でレイコフの本を前に座っていた。まだ一度も開いていなかったのだ。視線をあげるとバルコニーへ続く窓のむこうに塔がみえる。ばらまかれた星の光が夜の隙間で語りかけるように瞬いた。僕はためいきをつき、革の表紙に手をかけた。
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