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【第2部 星々の網目にて】8.星水晶
王国の名のもとにソールの命を奪う――ダーラムの発言は、もはやクルトが黙っていられるものではなかった。即座に立ち上がって発した声は思いがけず大きく響いた。
「いいえ。ソールは俺が取り返します」
「ハスケル。黙っていたまえ。きみは」
即座にヴェイユが口をはさむ。クルトは無視した。
「俺はここで話に加わる権利が――いや、義務があります」
全員の注視を感じながらクルトはテーブルの周囲に座る者たちにひとりひとり眼を向けていった。心痛を眸の背後にのぞかせているアダマール師。ダーラムは両肘をぺたりとテーブルに寝かせて手を組んでいる。ヴェイユがひたいに皺をよせてクルトをみつめ、暗色のローブのセッキは小刻みに体をゆらし、肩をぽりぽり掻いている。軽蔑したような表情でクルトを見やるのはカタンだ。一方、セルダンは鋭い貫くような視線でクルトを見返している。その唇が力強く動いた。
「義務とは?」
「カタン殿がいわれたとおり、俺がソール・カリーの専属魔術師だからです。問題は理解しました。話は簡単でしょう。現在『果ての塔』で何が起きているにせよ、とにかくソールを王国に連れ戻します。塔の所在はサージュが知っているはずだ。たとえ彼がいわなくても、突きとめられる」
「ひとつ問題がある」
ダーラムがおもむろに口を開いた。
「ソール・カリーに関わらせるには、きみは彼と親しすぎる」
「関係ありません」
「いや。これは私情を超えた問題なのだ。王国の将来に関わるのだからな。ソール・カリーを排除しなければならないような事態になっても、きみは同じようにいえるのか?」
クルトはためらわなかった。
「俺はソールとなら一生審判の塔に幽閉されてもかまわない」
場が一瞬ざわめき、静かになった。失笑だろうかとクルトは思った。実際そんな気配も多少は感じ取れた。カタンはクルトが分別のない激情に囚われていると思っているし、セッキはクルトが先走りすぎだと考えている。ダーラムやヴェイユといった精霊魔術師の思念はぼんやりとした、抑制的な調子だとしか感じ取れなかった。もっともクルトはこのとき気づくべきだった。通常ならば、精霊魔術師が何を感じているかなど、ぼんやりと感じ取れもしないということに。
「きみこそソール・カリーのために約束された将来を失ったようなものだろう。どうしてそこまでいうのかね?」
ダーラムは一見穏やかに言葉を続けている。
「それにソール・カリーは自分から果ての塔へ行ったのかもしれないのだ。捕虜になったサージュという男と親しかったんだろう」
「そんなことはありません。単なる同業者同士のつながりにすぎない。もちろんソールはサージュを信用していて、サージュはそれを利用しただけだ」
答えながらクルトはまた違和感を感じていた。ダーラムはどうしてそこまで知っているのだろうか? 今の話に限らない。ダーラムの反応はところどころ奇妙だった。すべての答えを知っているかのような余裕を見せている。この会合は「答えをさがす」ために行われているものだというのに。
「ソール・カリーが王国に危機をもたらすというのなら、彼の家族や伴侶が責任をとる。ちがいますか? 俺はソールの伴侶です」
「ハスケル」
ヴェイユがまたさえぎろうとしたが、クルトは待たなかった。
「それに俺はこの場にいる誰よりも未知の魔術を追うに足る資格を持っている。ダーラム師に打診された白のローブについては断らせていただきましたが、北へ隠密に、また素早く向かうには治療師の方が都合がいい。ソールが拉致された最終的な目的が北方連合の野心にあるとしても、彼らの目的は隣国です。王国はその間で選択を迫られるだけで、表立って動くことも難しい。結局隣国や北方連合の動静に合わせて受動的になることを余儀なくされる。唯一王国が権利を主張できるのがソールなら、俺が行くのがもっとも合理的でしょう。もちろん騎士団の助けを借りるのに異存はありませんが」
最後のひとことはこちらを睨んでいるラジアンに向けたものだった。セルダンが眉をひそめた。
「いわんとすることはもっともだが、ハスケル。きみは嫡子では?」
クルトはうなずいた。
「ソール・カリーが伴侶だときみはいったが、それは今の王国では公式に認められない。まして嫡子となると……」
「必要なら相続権を手放すまでです」
セルダンはなだめるように手をあげた。
「落ちつけ。では仮にきみと騎士団でソール・カリーの探索に北方連合へ向かうとしよう。その場合――」
続いてセルダン主導ではじまったソール探索の詳細にクルトの耳は向けられていたものの、心の一部は別の事柄に集中していた。ダーラムに向けて魔力の触手を伸ばしていたのである。
精霊魔術を習得した者にこんな行いをするのはふつう、馬鹿者だけだ。礼にもちろん反するし、直接的な身の危険――弾き返されて逆に自分がダメージをこうむる――もある。だがクルトはためらわなかった。自分をいましめる|箍《たが》がいつの間にか心の片隅に退き、力の感覚だけが精神を満たしていたからだ。
魔力を通してみたダーラムの防壁は荒い網のようなもので、内部にやすやすと侵入できた。とはいえ本人に気づかれないためには、その内部の精神の結晶ひとつひとつがずれないように、ゆるまないように注意しながら、迷路の奥を探検しなければならない。ダーラムの心の中は糸のようにからまり曲がりくねっていた。切れ切れの思念が迷路から分かれる小部屋の目印となっている。クルトの魔力は慎重にそれらの思念を解読する。ふいに、ひとつの小部屋の目印が審判の塔のカタンと接触した記憶でかたちづくられているのがわかった。その隣の小部屋は――これは北方連合の紋章だ。この名は女王の……?
「果ての塔の正確な所在地は明らかにされていない。どうやって突きとめる」
テーブルではセルダンがクルトに、ソールを連れ戻すための実効的な作戦をたずねている。
「捕虜が――サージュが果ての塔を知っています」
セルダンに答えながらも、クルトはひそやかにダーラムの思念の探索を続けていた。彼の心をつくる糸を探れば探るほど、陰謀の気配が見え隠れする。しかしクルトの一部は冷静に、これだけでは証拠にならないと考えていた。ダーラムに何らかの企みがあるとしても、具体的に彼が何をしているのか明らかにしなければならない。それにダーラムはメストリン王子のもとで宮廷を再編するつもりでいる。そのためにクルトを新しい審議部へと誘ったのだから。メストリン王子はダーラムにどこまで関わっているのだろう?
「もちろん、サージュも精霊魔術を心得ています」
表向きはダーラムを完全に無視し、セルダンだけをみつめながらクルトはいった。
「彼を探査して場所を特定できる人材は限られています。機密で別の精霊魔術師を煩わすより、俺を使う方が圧倒的に早い。俺は学院の教師でも王立魔術団の一員でもない、ただの治療師だ」
ヴェイユが眉をあげた。最後の言葉はいささか皮肉に響きすぎたと、クルトは語調をゆるめた。
「新年を過ぎれば北方の港は凍ってしまう。そうなると陸路しか残りません。港が凍る前に出発しなければ」
「クルト・ハスケル」
セルダンが重々しい声でいった。
「きみの話は了解した。事態を理解していることも。だが決定は我々が行う。ひとまず座りたまえ」
カリーの店の階上にある寝室は、ひとりで眠るぶんには窮屈だとは感じない。クルトと出会ったばかりのソールは、この部屋を積み上げた書物の柱でいっぱいにしていた。本の中に寝台が埋まっているように見えたほどだ。
ふたりでこの部屋を整えた今となっては、ひとりでいると広すぎると思うくらいだった。クルトは無意識に奥の窓側をあけて横になっていた。ソールがいつも窓側で眠るためだった。
昼間の会合は結論がはっきりしないままに解散となった。自分が先を急ぎすぎて失敗したのか、それとも自分には推し量れない何らかの政治的な駆け引きがその背後にあったのか、どちらにせよクルトには知らされなかった。苛立ちのせいかなかなか眠れず、何度か寝返りをうったあげく、クルトはやっと浅い眠りにおちた。
すぐ近くで波の音が聞こえた。海辺の村の浜辺だとすぐにわかった。顔をあげると眼の前にソールがいた。鼻先だけがすこし日焼けし、砂色の髪のところどころが夕日を受けて金色に光っている。唇がわずかにひらき、波の音の切れ目に彼の声が聞こえた。
「…クルト」
胸がいっぱいになって、クルトは何もいえなかった。黙ってソールの背中を引き寄せる。顎をとらえて唇を重ねる。乾いた表面はかすかに塩の味がしたが、下唇をこじあけるように舌先でまさぐり、奥の湿った内部へと侵入をこころみる。ソールはあらがわなかった。背中に回る手のひらを感じながらクルトはソールの歯列をなぞり、舌をからめる。耳に聞こえるのは波の音だけだが、手のひらに触れる体は温かい。
布越しに体の中心を触れ合わせながら、クルトはずれた唇をソールの耳へはわせ、息を吹きかける。吐息が甘くクルトの首にあたる。ソールはここにいる、という思いがクルトを満たす。連れ去られたというのは間違いだった。ここにいる――ここに……
波の音が大きくなった。クルトは眼をあげ、ソールの背後に水の巨大な壁がそそりたつのをみた。ソールは気づいていないかのようにクルトにむかって微笑みかけている。彼をまた抱きしめようと手を回して、クルトは困惑した。ソールの体はなぜか水のようにクルトの指を素通しにしてしまうのだ。
水の壁はじりじりとソールに迫り、彼の髪はいつのまにか水の壁に埋めこまれたようになっている。ソールが口をひらく。そこから響いたのは言葉ではなく未知の音だった。まるで歌のような。
「ソール!」
クルトは叫び、眼を覚ました。空気は冷たく、部屋は静まり返っている。敷布の背中の部分だけがクルトの汗で濡れている。
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