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【第2部 星々の網目にて】9.暗黒星

 ガラスと金属で作られた立方体の中で金色と銀色の金属棒がカチリ、カチリと動いていた。上、下、右、左、そして回転。一見回路魔術を使ったからくり仕掛けのようにもみえたが、しばらく眺めていてもこの機械が何をしているのかさっぱりわからない。  とはいえ美しいのは認めざるをえなかった。金属の動きにつれて立方体の下に置かれた黒いガラス板に文字が映し出され、パターンを描いて重なりあう。古代文字だ。文字の配置がつくる形に僕は眼をこらした。つい最近、書斎に持ち帰った本のページに同じ形があった。 「飲みなさい」  レイコフの声が僕の物思いを破る。渡されたガラスの杯は親指の先ほどの大きさで、金色の液体が入っていた。毎日夕食時に渡される蜜酒に似た色だった。口をつけようとして僕はふとためらった。ここ数日、僕は夕方になるとあの甘い味が欲しくて仕方がなくなる。 「気分を落ち着かせるためだ。量はわずかだ」  レイコフは僕が命令を聞くまでみつめているつもりらしい。僕は杯を飲み干した。裸体の上にブラウから渡された白い貫頭衣を着ているだけのせいか、ひどく心もとない気分だった。レイコフは白い繭のような形の椅子をさす。腰をおろすと柔らかな内張りが体全体をつつみ、背中がくるっと下がって仰向けになる。  唸るような音が足元からかすかに伝わってくる。この真下は印刷所で茶色の長い上着を着た人々が立ち働いている。ブラウに案内されてこの小さな部屋に入るまでは、立って枠に活字をならべたり紙を広げて乾かすといった、僕にもなじみのある印刷所の工程をかいま見ることができた。  この部屋にはなじみのあるものは何もない。 「恐ろしいことは起きない。危険もない。眼を閉じなさい」  レイコフが僕を見下ろし、穏やかにいった。唸るようなブーンという音が少し大きくなった気がした。足の方からふわりと持ち上げられるような錯覚を覚える。体が軽く、宙に浮いたようで、反対にまぶたが重くなった。僕は勝手に閉じようとするまぶたに逆らい、レイコフに視線をとどめようとした。彼の唇は動いているのに、何をいっているのかさっぱりわからない。  唸るような音にまじってブツリ、ブツリと断続的な響きが混ざりはじめた。僕はもう眼を開けていられない。    *  だるい体に激しい快感のなごりが残っている。雨音がきこえていた。カリーの店の屋根にあたるしずくだ。雨樋にたまった水が階下の屋根へ落ちる音も聞こえてくる。リズムが胸の鼓動と重なりあう。心地よくやわらかな幸福に満たされて僕はひっそりと息をつく。クルトが毛布をひっぱりあげる。僕を胸に抱きよせて、動物のように僕の髪に鼻をうずめている。  毛布のすきまから見える部屋の中は朝だというのに薄暗い。今日は休日で店は開けない。クルトはそれを知っていて、一度起きたにもかかわらずまた毛布の下にもぐりこんでいる。  カリーの店の二階、僕が寝室に使っている部屋は、先代のころは倉庫がわりだった。今は僕が手当たり次第に仕入れた本、整理しきれない本を追加するものだから、寝台はすっかり本に埋もれている。クルトはそのありさまにあきれたのか、本をしまおうといいだしたのだ。 「そしたら部屋が広くなるだろ?」  クルトは僕の肩口に唇をうずめてささやく。僕はすこし反抗的な気分だった。まったく、まだ学生のくせに。 「そうしたらなんだっていうんだ?」  いいかえすと即座に「もっと広い寝台を置く」と返事があった。  ほら、きみはやはり寝台が狭いと思っていただろう――そう僕は思い、とたんに何かが奇妙だと悟った。僕の意識がふたつあるのだ。毛布の下でクルトに抱かれている僕と、それを外から見ている僕。 「そんな――」  毛布の下にいる僕はクルトに抗議する。だがクルトは姿勢を変え、僕の上にのしかかるだけだ。 「寝台はこれでいいか。足りてるから。部屋が広くなったらもっと楽しいことをしよう」  低くささやく声は快活で、それだけで楽しそうだ。眼尻に嬉しそうな皺が寄る。 「もっと楽しいことって……」 「そうだな」クルトは僕の眉毛を指でなぞる。 「踊らないか。一緒に踊ろう」  踊れないと僕はぶつぶついう。続けて音楽がない、ともつぶやく。クルトはあっさり答えた。 「俺が歌ってやるさ」  そう、きみはなんでも解決するんだ。あっさりと。眺めている僕はそう思う。クルトは毛布の中で僕のひたいに手をのばし、垂れてきた髪をかきあげる。僕は彼の指にからまる自分の髪をみつめる。クルトはくるりと巻いた毛に口づけして「どんな歌がいい?」と聞く。  歌は知らない。僕はそう答える。 「じゃあ俺が教えてやるよ」  ハミングが聞こえてくる。雨音のリズムと一緒に降ってくるクルトの声は、僕の奥底に沈んだ暗い部分に細くさしこむ光のようだ。僕は眼を閉じ、彼の声を触れる肌のすべてで受けとめようと試みる。 「ソール、眠った?」クルトがささやいた。 「起きてる」 「俺を見てよ」  僕は眼をひらく。眼の前に緑の眸がある。自然に唇が触れあった。何度もくりかえし僕らはキスをする。たとえようのない幸福感が僕を包む。    *  目覚めた時、頭蓋のどこかで大きな音が鳴り響いたような気がした。僕は白い繭の中で首をふった。夢をみていたのだろうか? たしかに幸福な気持ちだったと思うのに、まったく思い出せない。  奇妙に空虚な感覚があった。大切なものが遠くへ行ってしまったような……何かを失ったような気がしてならないのに、何なのかがわからない。熟睡していたにしては体がだるい。白い貫頭衣の外側には何の変化もなかったが、へそのあたりが濡れていて、僕はだるい感覚の理由に思い当たった。  いったい何が起きたんだろう?  視線を感じて顔をあげるとレイコフと眼があった。背後にブラウが立っている。  彼らの表情には何の含みも感じられなかったが、突然僕は強烈な羞恥を感じた。すぐにひとりになりたかった。 「疲れたかね?」レイコフがいう。 「ええ。あの……」 「今は何も変化が感じられないだろうが、措置は順調だ。明日二度目をやろう。何回かくりかえすことになる。今日はもう休みなさい」  ブラウが繭の前にひざまずき、やわらかな上履きをさしだした。 「夕食はお部屋に用意します。立てますか?」  僕はおずおずと立ち上がった。夕食という言葉に衝撃を感じていた。はじまったのは午後も早いころだったはずだ。一瞬のように感じたのに、実際の僕は何時間も繭の中にいたことになる。  僕は貫頭衣のまま逃げるように部屋に戻った。ブラウがあとをついてくる。窓の外はたしかに暗い。 「大丈夫ですか?」  ブラウは横に立ち、僕の肩に手をかけてささやいた。体中に落ちつかない感覚が走った。 「大丈夫だ。行ってくれ」  僕は慌ただしくつぶやいた。彼は聞いていたのだろうか。 「何でもいいつけてください。必要ならお手伝いしますから」  貫頭衣の背中から腰に彼の手が下がるのを感じた瞬間、僕は肘で彼を押しのけていた。 「やめっ――」  ブラウはさっと体を引いた。 「申し訳ありません」  あっけらかんとした謝罪は逆に僕をきまりわるくさせた。 「いや……お願いだから、行ってくれないか。ひとりになりたいんだ」 「ええ。失礼しますね」  望み通りひとりになり、僕は豪奢な部屋の真ん中に立ち尽くしていた。胸の奥がつかえているかのようだ。さびしくてたまらない。とほうもなく人肌が恋しかった。ささやいてくれる声が欲しい。クルトが……欲しかった。  どうして僕は突然こんな気持ちになっているのだろう。クルトに抱きしめてほしかった。想像しただけで息が勝手に熱くなり、貫頭衣の前が持ち上がる。浴室で汚れたそれを脱ぎ捨て、僕は熱い湯に体をしずめた。気がそれるとおもいきや、そんなことはなかった。なめらかな湯の感触にクルトの声を思い出したからだ。 (ソール)  ここに彼がいたら……いたら――  僕はたまらず手をのばすと自分で自分を慰めにかかった。快感はおとずれたが、あとに残ったのは重くだるい体だけだった。    * 「ソール。帰ろう、俺と」  クルトがささやく。  周囲は森の匂い、苔と土と緑の匂いでいっぱいだ。僕はクルトの腕に抱きかかえられたまま太い木の根元に座りこんでいる。さっきから泣きつづけたせいで眼が腫れ、しゃっくりで胸が苦しかった。やっと息をつき、自己嫌悪のまま「もう暗い」といいわけのようにつぶやいた僕の手をクルトが引く。 「とりあえず施療院へ戻ろう」 「道は――わかるか?」  僕はおずおずとたずねる。方向もわからなくなるくらい森の中を走って逃げたのだ。大人げないまねに恥ずかしさが襲ってきた。クルトは落ちついた様子で「大丈夫だと思う」といい、僕をみて微笑む。 「なぜ笑うんだ?」 「ソールが可愛いから」 「やめてくれ」僕はうつむいてぼそぼそという。「きみはどうかしてる」  歩きながらクルトは僕の手を握っている。彼の手のひらは温かく、ふりほどいてもまたつかまえられる。歩調を合わせながら文句をいうと「いやだ。せっかくの機会なんだ」という答えが返るだけだ。 「何がせっかくの機会……」 「だってソール、王都じゃ手なんてつないでくれないだろう」 「それは――」 「だからせっかくの機会なんだ。あ、足元、気をつけて」  森はもう僕らの背後にあり、道は月に照らされている。    *  あたりに湯気がたちこめている。僕は狭い浴室の洗い場に膝立ちになり、背後から胸を抱かれ、体の奥にしびれるような快感を感じている。クルトの息が耳朶にふれる。 「気持ちいい?」 「ああっ……いい……」 「どうして欲しい?」  焦らされてたまらず、僕は懇願する。 「ちゃんと……して……欲しい……」 「俺が欲しい?」  首をふってうなずき、クルトの手が腰を抱えるのにまかせる。奥へ突き入れられるとたまらず声をあげてしまう。クルトは快楽の中心を正確にえぐるように突き、頭の芯が白くなる。我を忘れて腰をゆらし、クルトの熱い声を肌に直接聞く。 「ソール……俺もいく……」  天井からしずくが僕らの背中におちる。クルトは僕の濡れた髪をかきわける。 「……大好きだ……」  ささやく声に思わず「僕も好きだよ……」とつぶやいたとたん、頭に触れる手が止まる。 「ソール、もう一度いって」 「好きだよ」 「もう一度」 「だから、好きだって」 「ほんとにソールがいってる?」 「当たり前だ」 「俺、うぬぼれてしまうよ?」 「そんな必要ない」 「俺も好き」  クルトの声を聞きながら、僕は自分が湯気のなかで泣き笑いのような表情を作っているのを自覚する。ここまで幸福なことがこの僕に起きていいものだろうか。こんな――  その時だった。一瞬にしてあたりが乳白色の霧に覆われた。ふわりと体が宙に浮いたように感じ、僕は困惑して周囲をみまわした。クルトはいない。ここはカリーの店ではない。乳色の霧のあいだに黒い影が浮かびあがった。 (ソール!)  影から発せられた声は聞き覚えがあるような、ないようなものだが、明白に警告の色合いを帯びていた。僕は霧の中でまばたきをくりかえした。黒い影が近づいてくる。霧が晴れてちらりとその顔がみえた。 「――」  名前を呼ぼうとしたのに声は出なかった。だが僕ははっきりと見た。これは『彼』の顔だ。 (ソール、失うな!) 「何を?」 (忘れるのではなく失うんだ。気をつけろ。失くしたことにも気づかなくなるぞ) 「――?」  僕はまた名前を呼ぼうとした。だが舌は口蓋にはりついたようで、声が出ない。『彼』の向こうから乳白色の霧が深く濃く迫ってくる。ねっとりした白のなかに黒い影は埋もれ、みえなくなる。    *  眼をあけるとすぐ近くにレイコフの眸があった。 「三度目だ。気分はどうだね?」  頭の周囲で唸るような音が鳴り響いている。僕は白い繭のなかで体を起こそうともがいた。夢の中で聞いた『彼』の言葉を覚えておこうと胸のうちでくりかえす。失うな。『彼』はそういった。僕はこの繭のなかでいったい何を失くしたのか? 「レイコフ殿。この『措置』は……」  話そうとすると喉がひきつった。ブラウが水をさしだし、僕は一息に飲んだ。 「防壁を壊すために……僕の記憶を引きかえにしている。そうですね?」 「気づいたのかね?」  レイコフは薄い笑みを浮かべた。 「その通りだ。すばらしい。どうしてわかった?」 「どうして?」  ほとんど無邪気にも聞こえるレイコフの問いに僕は素直に答えようとしたが、突然『彼』の警告を思い出した。 「わかりません。そんな気がしただけです」  これはどんな種類の罠なのだろう。  自分がばらばらにされているような気がした。魔力を失ってからというもの、日々の記憶は僕自身を維持するための最後の砦にほかならなかった。僕はいったい記憶を失ったのだろう? それはいくばくかの魔力を取り戻すことと引き換えになるのだろうか?   カチリ、カチリという音が耳につく。ブラウの手を借りて繭から立ち上がりながら、僕はガラスと金属で作られた立方体を見上げた。上、下、右、左と金属が動きつづける。この機械は全方位に文字の影を投げているのだ。投影された文字列は書物のページのように整然としている。 「これで終わらせてください」  僕はなんとかそういったが、強い口調にはほど遠かった。レイコフは僕を憐れむような眼でみた。 「次回は何日か後になる。安心しなさい。多少失ったところでどうということもないものだ。大多数の者たちはそなたの記憶がどんなものか理解もしていないだろうがね。ブラウ、連れて行きなさい」  口調に混じる冷酷さは疑いようもなかった。

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