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【第2部 星々の網目にて】10.剣の星

 ソールの友人だという地下書庫のアランがカリーの店に来たのは、学院で行われた会合の翌日で、時刻は閉店まぎわだった。店番の学生が早く帰らせてくれというので、クルトはたまたまひとりでカリーの店にいた。 「旅に出ている? そうなんですね……」  何年も日光に当たっていないような、不健康な肌色をした男はみるからに落胆していたが、手元の袋から小さな箱を取り出した。 「焼き菓子です。つれあいの手製ですが、ソール殿が気に入っていたので届けようかと思ったのですが」 「申し訳ない。いただいてよろしいんでしょうか」 「ええ。ソール殿が旅から戻られたらまた持ってきます」  男の骨ばった指には刺青のようにインクの染みがつき、こぎれいな包み紙と対照的だ。クルトは書架のあいだに椅子を置く。 「アラン殿。ソールからお話は何度か聞きました。審判の塔で働いておられるとか」 「地下書庫の下っ端ですよ。年数だけは長くてね」 「俺も学生の頃、よく使ったものです」 「ええ。ソール殿と話されているのを何度かお見かけしましたよ」  クルトは柄にもなく赤くなった。たしかに講義の下調べのために――誓ってもいいが嘘ではない――地下書庫へ通い、仕事で来ているソールを探しては何かと口実を作ってそばにいたものだ。 「ソール殿が誰かと一緒にいるのは珍しいので、すぐに覚えました。あの方はあまり人が近くにいることを好まなかったし、我々がお茶に誘っても最初のころは断られましたからね。すこし意外でしたが今ではわかりますよ。あなたが好きだったんですね」  クルトはまた赤くなった。店内が薄暗いのに少しほっとする。 「いや、あのころはその――俺が厚かましく押しかけていたので」 「いえいえ。あなたといるソール殿を見ると安心しましたよ。寂しくなさそうでね」  アランにはまったく他意がなく、懐かしさのゆえにこんな話をしているのだった。しかしクルトは急いで話題を変えた。実をいうとアランの来訪はクルトにとっても都合がよかったのである。 「審判の塔でのお仕事はいかがですか?」 「地下書庫はいつも同じです」青白い肌の男は穏やかにいう。 「我々はただの裏方です。調査のために書庫へ来る人たちもね。もっとも最近は審判長みずから降りてくることが何度かありましたが」 「審判長みずから? 珍しいことなんですか」 「ええ。ふつうは調査部を通しますし、必要な時は秘書に頼めばよいようなものですが、カタン殿は審判長に昇格してそれほど長くないので、自分で確認したいこともあるのでしょう。我々としては彼ほどの人に地下へ降りてこられると逆に困惑するのですが」  苦笑でアランの唇がわずかにゆがんだ。クルトは無邪気を装ってたずねた。 「カタン殿はどんな方なんです?」 「熱心な方ですよ。塔の審判長は職務の性格のせいか、どちらかというと内向的な方の方が多いのですが、カタン殿は逆でね。それに昔から王宮や魔術師につてがあるとよくいわれていました。次席どまりだったのは逆にそれをよく思われていないから、という噂もあったくらいです。もちろん仕事はきっちりされますし――審判長の判断そのものに私ごときが何かいえるものでもありませんから」  そういったアランの言葉には、困惑だけでなく反感や不満も含んだ複雑な感情の影がおちていて、クルトは平静な表情のままそれらを飲みこむ。 「最近審判の塔の方が王立魔術団の回廊でダーラム師と話すのを見ましたよ。あれがカタン殿だったのかも」 「ダーラム師? ああ、魔術師の偉い方ですね。しばらく前ですが、書庫に来たことがあって応対したのを覚えていますよ。そういえばあの時、あの方は地下書庫のあと上層へあがったはずです。カタン殿に用事があったのでしょうか」  さすが、長年勤めているだけあってアランは審判の塔の事情に詳しかったし、クルトの興味はただの好奇心だと思っている。書庫で地味に働いている彼にこんな風にたずねる者もほとんどいなかったに違いない。クルトはお茶を出して質問を重ね、この真面目な男からさらにいくつかの事柄を聞き出した。  何者かが自分を監視している。そうクルトが気づいたのはアランがたずねてくるより少し前のことだ。  もともとカリーの店は騎士団の警備下にあったのだが、あらたに加わった視線――魔力で作られた監視の視線は警備隊の見回りや回路魔術の仕掛けとは異なる色を帯びていた。最初クルトはヴェイユに念話でこの件を相談しようと考えた。だがこの監視の目標はむしろそのような念話そのものにある可能性を思いつき、気づかないふりを通すことにした。  そんな「ふり」が可能になったのは、クルト自身に以前はなかった余裕が生まれたためである。まったく予期していなかったことだが、ソールの奪還を失敗したあとに能力がさらに増大したのか、前はできると思わなかったこと――自分の像をかたどったまぼろしを監視者に見せておくとか、偽の念話を聞かせること――がいまや可能になっていた。謎の監視は逆に好都合だった。こちらからたどることで、ダーラムに抱いた疑惑の証拠をつかめるかもしれないからだ。  そのダーラムとは会合のあと一度だけ話していた。学院を出る間際に向こうから「お父上とは会っているかね」と声をかけてきたのだ。念話ではなく周囲に聞かれるのもいとわない、ただの世間話の調子だった。クルトは礼儀正しく答えた。 「今回の件で余裕がありませんでしたからしばらくまともに話していませんが、変わりないのはわかっています。秋から学院に入学した親戚の者もいますし」 「マンセル君だろう」 「ご存知なんですか?」 「お父上が紹介してくれたからね。彼もきみと同様に才能があるようだ」  ダーラムはマンセルも知っているのか。しかしいくら将来の見込みがあろうと、初学年の学生を単なる『才能』で記憶しているとは思えなかった。 「ソール・カリーの問題が王国の政策にまで関わるとなると、きみ次第でお父上――ハスケル家も影響を受けるかもしれないな」 「そうでしょうか?」  クルトは思いがけないことを聞いたとでもいうように眼を見開いてみせた。 「父はまだまだ現役ですし、俺になどかまわず判断を下しますよ。下手に時流に乗ったりせず、王家への忠誠を元にして」 「なるほど、信頼があるのだな。よいことだ」 「ええ」  素知らぬ顔で話しながら、クルトはダーラムから伸びる魔力の網をさりげなくかわした。ダーラムの魔力は細くしなやかな糸のようだった。精霊魔術師であっても気をそらされていれば見逃すかもしれない。ダーラムはわずかに眼を細め、それ以上は何もいわなかった。クルトは魔力の触手を伸ばすのを慎重に控えた。会合の最中にクルトが思念を探っていたことに気づいたわけではないようだ。  とはいえ父への言及は警告の一種にちがいない。ダーラムがどんな未来像を思い描いているにせよ、自分を中心とした権勢の網からハスケル家を除外するという脅しだ。ひとたびそんなことになれば、父はダーラムにはけっして勝てないだろう。やろうと思えばダーラムは魔力で父をいかようにも操れる。  それにしても、ダーラム自身もハスケル家と同様に比較的歴史の浅い貴族の出身だったはずだ。それがいまや貴族でかつ、王国の魔術師として最高位の八の燭台にいる。なのにさらなる陰謀を求めるのはどういうわけか。とはいえこの疑いは単にクルトが魔力で察したことにすぎず、誰がみてもわかる証拠がなければただの思い違いということになる。  気になるのは彼の心に侵入した時にちらりとみえた北方連合の女王の名だった。この国もそうだが、王族が自分の名前を正式に記すのは誓約書や条約のような、正確な名乗りが必要なものに限られる。 「ハスケル。何か考えていても先走るな」  ラジアンとヴェイユにはダーラムのあとにそろって同じことをいわれた。ラジアンは小声で、騎士団はいつもソールの味方で、騎士団のうしろにいるレムニスケート家のセルダンもけっして悪いようにはしないはずだといい聞かせにかかるし、ヴェイユはヴェイユでクルトが何かをつかんだと察したのか「ひとりで抱えこまないで話せ」と念話してくる。  実際もしダーラムがソールを拉致した『果ての塔』や北方連合に関係しているのなら、世継ぎのアピアン王子と王陛下に伝わるよう何か事を起こすべきだろうし、そこでレムニスケート家を通すのは理にかなっている。  しかしハスケル家――というよりクルトの父は、レムニスケートの一派に長年反感を抱いていた。クルト自身は反感など持っていないとはいえ、ソールの一件でこれまで間接的にかかわったことしかない。かの家は古くからの武人の家柄で、王立魔術団や精霊魔術師との関係がほとんどない。だいたい騎士と精霊魔術師は互いに敬遠しがちで、それもあってか学院との関係も深くはない。  それにレムニスケート家はそもそものはじまりから王国の防備にすべてを捧げているような家系だ。いくら悪いようにはしないとラジアンがいったところで、本当にソールが王国の脅威になるようなことがあれば、真っ先に動くのはむしろ彼らだろう。  クルトはその前にソールを取り戻さなければならないのに、自分を北方へ送るように彼らを説得するのは一筋縄ではいかないようだった。歯噛みしたかったが、政治とはそういうものだ。  クルトがそういった政治のまわりくどさを教わったのは、元をたどれば父親、ハスケル家の当主である。だからクルトは会合の翌日の朝のうちに、王城近くのハスケルの屋敷へ向かった。監視しているのがダーラムでも誰でも構わなかった。好き放題に王都を留守にしている嫡子が当主のご機嫌取りにいくのは特段珍しいことでもない。  玄関を入るとマンセルの従者が出てきて、クルトの顔を見たとたん、きまり悪そうな表情をした。 「クルト様。お久しぶりです」 「ああ――」  とっくに領地へ帰ったと思っていたのでクルトも一瞬途惑い、思わず口に出してしまった。 「もういないものと――マンセルはまだよくここへ?」 「いえ、このごろはめったにお会いしません。私は領地の本家から命令を受けまして、当分こちらでお仕えすることになりました」 「正式に貸し出されたのか」  クルトは思わず嘆息した。親戚など、近い貴族の家の間で優秀な使用人を「貸し出す」のは時折あることだが、一方的に仕える相手を決められるなど、されるほうにとっては迷惑な話だろう。 「すまない。父は書斎か? 迷惑をかけていないか?」 「とんでもありません。当主は奥でお休みですがそろそろ起きられる頃です。お食事は召し上がられますか?」 「手間だろう。大丈夫だ。書斎で待っていると伝えてくれ」  久しぶりに訪れた書斎でクルトはぐるりと周囲を見回しながら、屋敷の奥でまだ半分夢うつつの父の思念をつかまえた。彼にダーラムへの警戒心を植えつけるにはちょうどいい頃合いだ。今後宮廷で何があったとしても、父が罠にかけられるのは避けたかった。  学院で叩きこまれた戒め――他人のこころを粘土のように弄ってはならないという戒律を、忘れたつもりはみじんもなかった。今だけだ。クルトは父の椅子に腰をおろし、魔力の触手を屋敷に広げた。

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