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【第2部 星々の網目にて】11.結びの星

 背中を人肌のぬくもりが覆っている。あたりにはとろりとした金色のかすみがたちこめている。首のつけねを舌が這うのを感じる。ささやく声が聞こえる。 「ソール」  僕はうっとりして眼を閉じる。背後にいるのが誰なのか、ふりむかなくても、名前を呼ばなくてもわかる。そのことだけで幸福感に胸がいっぱいになる。肌を柔らかく触れる手のひらを感じ、たまらず声を漏らすと、耳たぶに笑う吐息が触れる。  僕は向きを変えようとするが、背後からのびる腕はがっちり僕を抱いていて動けない。ふりむいて顔をみたいと僕は願う。ぬくもりの心地よさもあらがいがたいが、あの眸を確かめたいのだ。彼がそこにいると。あの緑色―― 「クルト……」  つぶやきながら腰を支える腕をつかもうとして、僕はいきなり虚空に投げ出された。  粘り気のある液体に垂れた前髪が濡れていた。あやうく顔までつっこんでしまうところだった。慌てふためいて浴槽の湯をかきわけ、自分がどこにいるのかを思い出す。入浴中にうたたねをしていたようだ。空気にはほのかに蜜の香りが漂っていた。浴槽を満たす湯も金色がかってとろりとしている。疲れがとれるといってブラウが置いていった入浴剤が眠りを誘ったのだろう。  夢の手触りはたちまち遠くなる。僕はぬるくなった湯をかきわけ、たった今まで感じていたものを思い起こそうとしたが、ささやく声も肌の感覚もすでに薄れてとらえられない。髪からしずくがぽとりと垂れた。僕は自分にいいきかせる。夢は記憶できない。あのクルトは現実ではない。ただの夢だ。僕の幻想。僕の願望。僕は何も失っていない。  そう願いたかった。レイコフの『措置』が僕の心に確実に何かの作用を行っているのはわかっていた。作用は何よりも僕の体にあらわれた。まず、ずっと耳の奥で聞こえていた耳鳴り、あまりにも当たり前になっていて、いつもは存在すら忘れていた耳鳴りが消えた。それに僕は急にまっすぐ立てるようになった――いや、この表現は正しくない。ただ僕はあの事故――火事以来、自分の体がどれほど平衡を失っていたかを自覚できるようになったのだ。  しかしこれとひきかえに失われたものがある。  四度目の『措置』を僕はどうにかして逃れようとしたが、かなわなかった。レイコフが何日か留守にするとかで間隔は空いたものの、そのあいだはブラウと護衛の男たちがいつもすぐそばにいて、けっして離れようとしなかった。部屋の扉も窓も彼らがいないと開かないし、扉にも窓にも鍵穴ひとつ見当たらないときている。いったいどんな仕掛けで閉じられているのか。レイコフ独自の『古くて新しい魔術』によるのだとすれば、手がかりはどこにあるのか。  僕とて昔は精霊魔術を使い、その制御法を学んだし、実践はできないとはいえ回路魔術の知識もそこそこはあるが、ここで働いている力の装置は似ても似つかないものらしい。監視のもと数日でできることなどたかが知れているが、無為に過ごすわけにはいかなかった。  最初にやったのはレイコフ自身が書いた大部の書物に眼を通すことだ。夕食時や観測室で聞いたレイコフの話と同様に興味深い理論だった。精霊魔術のように、個々の生命体の魔力を〈力のみち〉として直接精神や見えない組織に働かせるものでも、機械的な仕掛けに回路で増幅した魔力を組み合わせて擬似的に〈力のみち〉を作るのでもない。  最初に魔力の拠り所となる文字を作り、その文字を組み合わせた符号で種々の命令と結果を繰り返すことで、まったく別種の〈力のみち〉を構築する。これによって、今までにない大規模な魔術を展開可能だという。  レイコフに渡された書物には理論的な可能性と、古代魔術研究からレイコフが復元したと主張する符号が書かれているだけだ。僕のような技術の素人にとっては実践的とはいえない。だがセッキのような回路魔術師なら……僕は古い友人でもある黒衣の大柄な男を思い浮かべた。いや、セッキほどの天才でなくても、この理論を知れば新しい「魔術装置」を作れるのかもしれない。  しかし大規模な魔術を展開するには大量の魔力が必要だ。回路魔術は分散して増幅させることで魔力を拾い上げ、精霊魔術は個々人の能力に頼る。レイコフの魔術はどこから魔力を引き出すのだろうか?  余白の補遺にはこの魔術の応用について書かれていた。符号を使って遠隔で生き物に命令を下し、その結果を自身に取りこんだり、魔力を小さな太陽のように高熱・高圧の球にまとめあげ、大爆発を起こす方法などだ。爆発――淡々と記された言葉をみて僕は顔をしかめた。ただの考案だとしても、物騒にすぎる。  その翌日も、また翌日もレイコフは戻らなかった。館のどこを歩いても誰かがついてくるだけで咎められることはなかったし、蔵書を読むことも禁じられなかったから、僕はレイコフが不在のあいだは毎日図書室へ行った。司書は長い白髪を髷にまとめた女性で、とても親切だった。この島の成り立ちや生き物、歴史に関わる書物を読みたいとたずねると、すぐに何冊かの題名を教えてくれた。  眼にした書物のすべてを暗記できる僕の能力にはこれといった変化はないようだ。ページをめくりながら僕は自分自身を嗤わずにいられなかった。おまえはかつて、不安におぼれそうな中で唯一掴める糸のように書物にすがりついていただろう。今ここでも同じことをしているわけだが、それがいったい何になる?  いや――まったく何の役にも立たないということはないだろう。  心もとない反論を自分に返しながら、僕は王国ではほとんど興味を持たなかった北方連合の歴史や土地に伝わる物語を読み、この地方特有の語彙や表現をまとめた辞書をめくった。この土地では王国や隣国で話されている共通語が通じるが、この地に古くから暮らす人々のあいだでは別の言語も使われている。その語彙は共通語にも一部混ざって、島の人々の声に独特な響きを与えている。いくつかの国家が女王のもとに束ねられて北方連合となるはるか前からここで暮らしていた人々の言語だ。今では少数派となってしまったが、文法は古代語に似ているように思える。  僕は疑問が出るたび司書にたずね、さらにこの島や北方連合についてもたずねた。図書室へ行くたびに司書はより詳しく教えてくれるようになり、数日後には僕は書架の蔵書そっちのけで彼女の話を聞いていた。  今の連合は女王のもとに束ねられているが、その基礎にあるのは長年いくつかの王国が協調したり戦ったりした結果の同盟だ。地方の独立心は今も強いらしく、それは古くから伝わる英雄譚にもうかがえた。それぞれの地域固有の英雄譚を人々は大切に守っている。この島はレイコフが女王から私的に下賜されたものだった。レイコフがやってくる以前は雪も今より多く、名目上の領主へわずかな貢納を送るだけで、実質的には住民の自治がされていたらしい。 「昔の気候はきびしかったものですが、塔主さまがこの島を変えました。暮らしは楽になったといえますが」  彼女はふいに言葉を切った。僕はかすかに動いた視線を追った。護衛の男の背後からブラウがあらわれて僕を見た。 「ああ、ここにおられましたか。ソール殿」  僕はブラウを眼で制し、司書をうながした。 「それで?」 「いえ、塔主さまがいなければ多くの者がこの地のきびしさを越えられなかったでしょう、という話です」  司書は何もなかったように話を続けた。予想したものとはちがう方向だ。一方ブラウは彼女を無視して慌ただしく僕の肘をとった。 「ソール殿、塔主がお帰りです。すぐに参りましょう」 「それはその――」 「ええ、前回の続きです」 「待ってくれ。ずいぶん急だが」 「問題ありません」  ブラウは有無をいわせなかった。僕は両脇を大柄な男たちに挟まれるようにして、図書室から連れ出された。彼らの動作は表向きは丁重だが、確実に抵抗は無駄だと思わせるようなもので、歩きながら強引に蜜酒のような液体を飲まされる。とたんに頭がくらりとした。分量が増えているのか、液体が変わっているのか。  いつの間にかあの繭へ沈められ、金と銀の金属が動くのを視界の端でみつめていた。レイコフはどこにいるのだろう? 僕には彼の顔を見るゆとりすら与えられなかった。繭のなかにいると痛みはない。心地よさと頭の芯が痺れるような感覚が同時に襲い、眼をあけて意識を保つのがむずかしい。最初の時も二回目の時も、目覚めた瞬間はかすかな幸福感と疲労につつまれ、その後に空虚がやってきた。その次はどうだったかというと……  ――急激に意識がなくなり、ふいに肩を揺すぶられる。まぶしい光にたまらず僕は眼をひらく。レイコフの眸が正面にあった。 「もう一度」  やめてくれ、といいたかった。僕は繭のなかでもがいたが、手足は脱力したように思い通りにならない。押さえつけられているわけでもなく、どちらかといえば浮かんでいるように感じるのに、自分の意思で動かすことができないのだ。口もとに甘い味を感じ、拒否しようと唇をむすぶが、強引にこじあけられる。舌に触れる液体は甘く熱い。むせるかと思ったのに僕の体は勝手に飲みこむ。背中がふわりと宙に浮いた。  ――と思った瞬間、僕は砂浜に立って海と空をみていた。  晴れて静かな、美しい夕暮れだった。海鳥が遠くで鳴き、太陽の光がおとろえてゆく。水がおだやかに打ちよせて、雲がさまざまな色に反射する。  雲ひとつない夕暮れも美しいが、群がる雲に傾いた太陽の光が差しこむ様子も美しいものだ。雲のあいだできらめいていた虹色の影がいつのまにか消え、やがて淡い紅色に染められた雲が風にゆっくりとちぎれていく。  世界は美しい。僕がどれほど無力でも。  僕は落ちついておだやかな心持ちだった。クルトのことを思い出していた。彼と過ごした日々について、その場にいるかのように鮮明に記憶をよみがえらせる。カリーの店で彼にはじめて出会ったとき――机の下から這いだしてクルトをみた僕の最初の感想は「ずいぶんハンサムな学生だな」というものだった――地下書庫で彼とばったり出会ったとき。当初僕らはおたがいに敵意丸出しで、おたがいに感じ悪く突きあっていた。それがだんだん……そう、だんだん…… 「きれいだな」  僕は自分の背後にその声を聞く。 「ああ、きれいだ」  そう僕はくりかえすが、自分のうしろに誰かがいるとは思っていない。記憶の中の人物と頭の中で会話しているだけのこと。よくあるひとりごと、一人遊びなのだ。考えることもなく言葉を吐けるから、僕は「すこし前に彩雲がみえていたよ」という。 「さいうん?」  一人遊びでこんなふうに聞き返されることはあまりなかった。けれど僕は気にせずに続ける。 「光が雲の水蒸気で屈折して、虹色に染まってみえるんだ。幸運のしるしといわれているが、かなりありふれた事象でもある。ひとは単純だからな。見かけるとそれだけでいい気分になれる」 「それは惜しかった。もう少し早く着けば一緒にいい気分になれたのに」  砂を蹴る足音が聞こえた。僕はびくりとして、飛び上がりそうになった。 「こっちを向いて。ソール」  僕の心はふりむきたい気持ちと落胆を恐れる気持ちでいっぱいだ。それでも我慢ができない。僕はふりむき――  そこに『彼』の顔をみた。 「ソール」  夕暮れの空にひびが入り、陶器が割れるように砕けた。海の波は凍りつき、平らですべすべの球体となって僕から遠く離れていく。彼は僕のすぐ前に立っている。僕はその顔の造作をありありとみつめ、思い出していた。黒い髪、すこし太い眉毛、褐色の眸。ひたいは広く、二重瞼とすこし高くて丸みを帯びた鼻が陽気な印象だ。考えこんだときにだけ短く小さな皺が眉間に一本寄る。  僕はその名を呼ぼうとして口を開くが、とたんに喉が凍りついたようになった。と、視界がおかしくなった。彼の体がぶわりと膨張したのだ。僕は一歩後ずさった。彼も困ったような表情をしてあとずさる。どうしてなのか、僕らはすこし離れて立っていた。なんだか滑稽だ。そういおうとしたとき、彼の言葉が聞こえた。 「ソール、気をつけろ――僕に」  僕は何といえばいいのかわからなかった。とっさに浮かんだ言葉を口走る。 「きみは前も警告してくれた。どうやって――何に気をつけるんだ? 例の〈本〉か? あれはいったい……」 「あれはここにある」  彼は両手を大きく広げた。指が赤く光り、あっと思ったときは真紅の炎が長く伸びている。広げた腕のあいだに金色に輝く表紙が浮かぶ。  僕は魅入られたようにみつめていた。いつしか足が勝手にじりじりと炎へ向かっている。あれに触れれば――という考えが僕を満たした。すべてが解放される、そうではないか?  なのにどういうわけか本を持っている彼へなかなか近づけない。視界のなかで彼は大きくなったり小さくなったりして、あげくは陽炎のようにゆらゆらと揺れている。僕は焦って手を振り回した。 「それはあの〈本〉だ! これを開けば――」 「ソール……僕は」  ふいに彼の手から炎が消えた。彼はまた僕の眼の前に立ち、苦しそうに眉をしかめる。地面が突然やわらかい砂に変化し、彼の足先がめりこんでいく。僕はあわてて彼の手をとろうとするが、なぜか彼は体をねじって僕を拒んだ。僕は叫んだ。 「どうしたらいい? どうしたらいいんだ?」  声は陶磁器で作られたようなこの世界に硬く跳ね返った。白い砂に埋もれた彼の顔の、唇だけが小さく動いている。砂に覆い隠される前のつぶやきを僕ははっきり聴きとった。 「ソール、僕を呼べ。正しい音で」  まぶたは糊で貼りつけられでもしたように乾いて重かった。ひらくと正面にまたもレイコフの眸があった。唇になめらかなものがあてがわれ、喉に冷たい水が流れこむ。 「思い出せたかね?」  思い出したのではなく忘れたのだといいたかった。いま僕が感じている真っ白の空虚を埋めていたものはなんだったのだろう? なのに僕の口は勝手に動いた。 「彼に会った――ランダウに」 「ランダウ。それが鍵の名前か」  はっとして僕はまばたきをした。名前。顔。鼻をこする癖。そしてそのほかの…… 「ランダウ。そう、彼は――」  堰を切ったように記憶がよみがえった。次から次へと像が思い浮かぶ。最初に出会った時のこと。学院に入学してすぐだった。僕は安い食事を手に入れる方法に困っていた。僕と同様に貧乏学生だったランダウはすでに上級生から情報を手に入れていて、僕にいろいろ教えてくれたのだ。立場が似ていたからすぐさま友達になり、毎日のように話をして、何年ものあいだ兄弟のように共に過ごした。  どうして僕は彼を忘れているなんてことができたのか? こんなに鮮明に覚えているのに。 「ランダウか。それで……」  レイコフはじっと僕をみつめた。 「……どうだね?」  僕は首を振った。  記憶はよみがえり――そして、それだけだった。僕は疲れて、ただひたすら空っぽな気分だった。首を振り、重い腕を持ち上げる。こわばった手のひらを広げる。レイコフはまだ僕を凝視しているが、どれほどみつめられようと何も起きないだろう。なぜならランダウは砂の中に消えてしまったからだ。  レイコフの表情は変わらなかった。 「なるほど。では――そなたの防壁のつぎに、もうひとつ謎があるということだな」  しかし僕は彼のむこうにみえるものに注意を奪われていた。金と銀の金属が動くだけだった機械はいまや、全体からまぶしいほどの薔薇色の光を発していた。首をめぐらせて周囲をみると天井や壁にいくつも輝く光が脈動している。〈力のみち〉を走る魔力の輝きだ。その光に照らされて、空間はこれまでまったく見えなかった色彩と輪郭で彩られている。  僕は自分の手のひらをみつめ、何が起きたのかを理解した。  失った魔力の一部が回復したのだ。

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