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【第2部 星々の網目にて】12.奔星雨
「寒いね。おつかれさん」
「どうも。冷えますね」
審判の塔の裏口で門番と夜警の兵士がなごやかに挨拶をしている。クルトは兵士の横をすり抜けて塔の内側へ入る。めくらましの魔術が外套のようにクルトを包み、塔の門番も夜警もクルトに気づいていない。クルトのめくらましは回路魔術の探知装置もやすやすとすり抜けた。ソールを奪われて戻ってきた王城には、以前は感じられなかった警備の穴がいたるところにみえる。
カタンの執務室は塔の高層階だった。クルトの感覚にも不寝番以外の者はまったく触れないが、塔の構造上、物音を立てれば下の階にすぐ伝わってしまう。クルトは柔らかい靴の底で床を確かめながら、ゆっくりと階段をのぼった。めあての階層にたどり着くと目的の部屋はすぐにわかった。四人の審判長の中でカタンは一番年長だが、任命されたのは比較的最近である。執務室はもっとも手前だ。
クルトは扉の錠の周囲に感覚を集中させ、カタンの指の癖をみてとった。開けるのにほとんど時間は要しない。暗い室内に足を踏み入れると後ろ手で扉を閉め、一息ついただけでめざすものを探しにかかった。執務室の奥には大きな書机が鎮座し、背後の壁は書類棚で覆われている。床は厚い敷物で覆われ、クルトの足音を吸収した。ためしにいくつかの引き出しを開ける。書類が縦に整然と並んでいる。
ここにはないという可能性もある。だが……
暗闇のなかでクルトは眼をとじる。回路魔術がつくる〈力のみち〉が心の視界に描き出された。他人に存在を気づかれないように何かを隠すならどうするか? 隠した者はカタンとは限らない。
クルトは椅子を引いて書机の前に座った。靴底が石のタイルに当たる。かがみこむと指をタイルの境界に走らせた。境界に沿って青い光がきらめく。
(俺の行動は――いつも王国の守護のためにある。王国の魔術師である以上は当然だ。ハスケル家も王国の家臣だ)
(ほんとうにそういえるのか? クルト――例の書店主のために私の努力を無にしたのに)
魔力の輝きをみつめていると、脳裏を父と交わした会話が横切った。屋敷の書斎で、ひさしぶりに父とゆっくり話をしたのだった。
(父上もこの程度は知らされているだろう。ソールを守ることは王国を守ることだ。ハスケル家が王国を――王陛下とアピアン王太子を裏切ることはない)
(王国への忠誠は――もちろんだ。だが私の夢はどうなる。おまえが宮廷にいれば私は領地経営へ専念できたものを……)
(父上は領地経営だけでは退屈してしまうさ。宮廷の皆も父上の力でハスケル家があるのを知ってる。俺が政策部に仕官しなくてもハスケル家が無視されるわけじゃない。領地には母上が気を配っているし、父上の息子は俺だけじゃないんだ)
父親の長年の夢をクルトは少年のころから知っていた。ハスケル家から政策顧問を出し、宮廷政治の中心となること。実際、王立学院の最終学年になるまで、クルトは自分がその道を進むのを疑っていなかった。ただしそれは父の夢をかなえたいからではなく、先走る権勢欲を一方的に押しつけてくる父を見返す――あるいは見下すためだった。
そう考えると自分はずいぶん傲慢だったわけだが、いまはいまでもっとたちが悪い。会話をしながらクルトは少しずつ父の心を誘導していたからだ。ダーラムへの警戒の種をまき、世継ぎの王子の方向へ天秤を傾けさせる。世継ぎの王子、アピアン殿下へつく方がよりハスケル家の隆盛につながるという信念の種を植えこむのだ。学院の教師にみつかれば能力の濫用だと告発されても仕方がない行為だ。
とはいえこれはハスケル家のため、そして王国のためでもあるとクルトは信じていた。学院で行われた会合以来、自分にそういい聞かせている。父はいまだにクルトとソールの関係を好ましく思っていないが、それでも息子を愛していた。
いまなら父にソールへの無条件の好意を植えつけることだってできたが、それは逆に嫌だった。もしソールに知られたらただではすまないと予想できたからだ。いや、他のこともただではすまないだろうが。
表に現れるものが何だろうといまのクルトには父の感情の奥底を感じ取れる。彼が自分に向けている情愛は、最期の床でも息子を認めなかったソールの父とは正反対だった。
(父上、あとひとつだけ。俺に持っていた期待をマンセルに押しつけないでくれ。あの子はまだ若すぎるし、自分の魔力もろくに制御できない)
青い光がすっと弱まり、消えた。タイルを封じていた回路魔術の鍵が解けたのだ。クルトは石の下に指を差し入れ、細い革筒を引っ張りだした。
カリーの店の方へと真夜中の路地をぬけたとき、クルトは物陰に隠れているひとの気配に気づいていた。こんな冷気のなかで自分を待つ必要などないのに。内心ため息をつきながら念話で待ち人の注意を引いたのは、警備隊に気づかれないためだ。
『マンセル。夜中に抜け出して何をやってる』
『クルト兄さん』
暗闇のなかでもマンセルの周囲には草を思わせる魔力の輝きがにじんでいる。かすかに楽音のような響きも聞こえた。
マンセルならどこにいてもクルトはあっさりみつけだせるだろう。ソールとはちがって。
同じ暗闇でも、守護の足環を持たず、魔力の輝きも発しない恋人だけを見失ってしまうなど、そんな理不尽なことがあっていいのだろうか。そうあらためてクルトは思った。魔力を失う前のソールはどんな風に輝いていたのだろう。
『こんなに寒いのにどうしたんだ。とりあえず入れ』
裏口を開けるクルトの後をマンセルは黙ってついてきた。学院で、あるいは寄宿舎の友人と問題でも起きたのだろうか。自分に向けられる強い思慕をひしひしと感じながらも、クルトは無視してまず湯を沸かした。少年が自分を頼って抜け出してきたのならすげなくするつもりは毛頭なかった。何しろマンセルはまだ十五歳だ。
審判の塔で味わった緊張のためか、さすがにクルトも疲れていた。なぜこんな夜中に自分をたずねてきたのか、マンセル本人に話させてから寄宿舎へ送り届けるつもりでいる。クルトも在学中はときおりはめをはずして寄宿舎の規則を破ったものだ。精霊魔術の学生にはありがちな逸脱だった。
「お茶でいいな?」
そう声に出すと、深夜の静けさの中で言葉は思いがけなく大きく響いた。小さなテーブルの前に座ったマンセルがこくりとうなずく。
「何があったんだ? わざわざここまで来るなんて」
「クルト兄さん……」
マンセルはうつむいたまま、湯気のたつカップに手をつけようとしない。急に顔をあげて書架の暗い影がならぶ店内の方をみつめ、またクルトの方へ戻した。
「あの人は?」
「ソールなら用事があってしばらく留守だ」
「もう戻ってこないの?」
「まさか。俺が迎えに行く」
「白のローブを断ったと聞きましたが、ほんとう?」
疲労で集中を欠いていたクルトの頭が急に醒めた。
「マンセル。誰に聞いた」
「誰にって……」マンセルの青い眼がクルトをみつめる。「友達です。兄さんがいうから友達も作ったし、学院の成績も」
「おまえが優秀なのはもちろんわかってる。努力しているのも」
「そう? ほんとうに?」
マンセルは優美な仕草でクルトの方へ手を伸ばした。突然、クルトはこの数か月のあいだに眼の前の少年がずいぶん垢ぬけたと気づいた。美貌が磨かれただけでなく、あたりかまわず発散されていた魔力の野性味も減り、マンセル自身をひきたてるような変化が生まれていた。学院の教師や新しい友人の影響だろうか。
「マンセル」
「僕は知ってるんです。クルト兄さんはあの人がどこにいるのかわからない。あの人は兄さんを置いて行っちゃったんですよね……?」
「マンセル?」
驚きのあまりクルトの動作は一瞬遅れた。立ち上がったマンセルの唇がクルトのそれに重なる。舌が触れあった拍子にマンセルの思念が流れこんでくる。
『クルト兄さんは僕をずっと子供だと思っていたでしょう。でもちがうんだ。僕はいろいろ知ってます。あの人は兄さんのことなんかほんとうは気にしていないんだ。魔力がなくて、兄さんに頼っていただけ。兄さんを利用していただけです。だから下賤な男にうかうかとついていったんだ。ねえ、兄さんはこれであの人から自由になれますよ……』
クルトの体じゅうが沸きたち、唇から体内をくだる強烈な快感にうなじの毛が逆立った。粘膜を通して流れこむマンセルの魔力は強烈だった。接触魔術だ。
精霊魔術のひとつだが、素質がものをいうため強力な使い手はめったに出ない。年下の少年にとっては才能の証明かもしれないが、王都に来て数か月でこんな風に使えるなどありえない。クルトの頭蓋で警告が鳴り響いた。体内を甘く誘惑する熱に下半身がたちまち猛り狂う。マンセルの手がクルトの首にまわり、唇がさらに深く重ねられる。
蜜よりも甘い感覚を押し返したのは凍りついた海の幻想だった。凍えた風が少年の魔力をはねのけ、甘い熱を吸収してクルトの中を平静に戻した。
『マンセル。おまえにこれを教えたのは誰だ。学院の者か?』
マンセルの唇をもぎはなして問い詰める。クルトは彼の華奢な手首を強く握りすぎたかもしれない。誰の眼にも印象深いだろう美貌が苦痛にゆがんだ。
『おまえに無理やり侵入したくないんだ。頼む。見せてくれ』
『クルト兄さん……』
見おろした眸に大粒の涙が浮かび、たちまち溢れそうになる。
『ごめんなさい、僕は……兄さんが好き――』
『おまえの気持ちには応えられない。それにマンセル、おまえは利用されている』
マンセルは眼を閉じた。眼尻からこぼれたしずくがあごまで伝っていく。指先でそっとぬぐってやったとき、彼の思念の裏側に影が浮かぶのがみえた。クルトは無意識に眉を寄せた。この者ならよく知っている。初学年の最初に指導を受ける教師だ。
『わかった。マンセル……』
どうすべきかとクルトはしばし考えをめぐらせた。いまだに少年の手首を強く握っていたのに気づき、あわてて緩める。細い背中に腕をまわしてさすった。
「今日はここに泊まるんだ。明日俺が寄宿舎へ送っていく。ハスケル家のためにやむを得ない用事があったと話すから大丈夫だ。おまえのことはアダマール師に任せる。適切な師を選んでくれるはずだ」
「でも……」
少年は途惑ったようだった。かまわずクルトは言葉をつづけた。
「初学年から特定の師につくのは珍しいが、おまえの魔力なら納得してくれるだろう。それに重要なこともわかった。ありがとう」
マンセルのまぶたにまた涙がたまり、ぽろぽろと零れた。やれやれと思いながらクルトはマンセルの首を引き寄せる。胸の中でしゃくりあげる少年が落ちつくまで待ちながら、思い浮かべるのはソールのことだった。彼の砂色の髪に触れたかった。なめらかな髪の房を指に絡め、キスをするのが好きだった。ソールのひたいにかかる前髪をかきあげ、はえぎわを指でなぞって唇を落とすのだ。
あざやかな緑と青の髪留めの像が脳裏に浮かんだ。ソールはあれを失くしていないだろうか。
腕の中で少年が静かになり、きまりわるそうにもぞもぞと動いた。マンセルを椅子に座らせてクルトはもう一度湯を沸かした。明日は忙しい一日になる。
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