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【第2部 星々の網目にて】13.錨の星

 僕のからだはこんなにも、軽々と動くものだっただろうか。  僕は寝台に座ったまま両手を窓からさしこむ光にかざす。手首をねじり、指をひらいてはとじる。皮膚に透ける血管をなぞり、手首から肘をさする。両腕からつながる肩も首も軽く、視界はかつてなかったように明るい。立ち上がって窓をあける。流れこむ冷たい風まで艶めいているようだ。ていねいに顔と手を洗い、服を着て、靴をはく。手慣れた動作がまったく新しいものに感じられる。  部屋の片隅でときおり〈力のみち〉がきらめいては消える。いまや僕のなかに周囲の魔力をさえぎる防壁はなく、眼鏡がなくとも外界に存在する力の流れに感覚が反応するようになったのだ。同時に僕の内部にある魔力の源泉も多少は回復したのだった。もともと僕が持っていた魔力の根源は防壁を作り維持するために使われていたのだろう、というのがレイコフの見立てだった。  とはいえ昔の状態に戻ったわけではなかった。精霊魔術を使えるわけでもない。だが普通のひとが持っている魔力としては十分で、つまり、学院で事件を起こしたあとの僕の感覚とくらべれば天と地ほどの差があった。世界とはこんなにも艶やかでさまざまな手触りに満ちたものだったか。何気ない動作のたびに僕は眼をみはり、耳をすませた。  しかしレイコフはあの日、まだ先があるといった。防壁が壊れても『力の書』はまだ僕の内部に眠ったままだ。封印を完全に解放すれば僕の内部の魔力の根源はすべて回復するとレイコフは考えている。  そうかもしれない。僕はレイコフに措置のあいだの経験――夢?――のすべてを話さなかった。封印を解くために鍵になりそうな古代の呪文の魔術を研究したいといっただけだ。ランダウがそう話したと僕はレイコフに嘘をついた。  ランダウ。ついに僕が思い出すことのできた、あの日学院で〈本〉の炎の中で死んだ友。彼は僕の心の中にずっと棲んでいたのだろうか。あれは僕の中にある彼の記憶なのか。それとも……?  あの夢には不穏な空気も漂っていたし、思い返すと謎ばかりだ。しかし一部であっても魔力を取り戻したことは僕の気分を明るくした。やっとレイコフの魔術の本質とその新しさを理解することができたからだ。僕の意識が彼の装置へ向いたのをレイコフはすぐに察知した。もちろんそうだろう。防壁のなくなった僕は無防備に感情を発散しているにちがいなく、レイコフのような魔術師ならたちまちそれを読み取れる。  用心しなければならなかった。かつて学院にいたとき、僕は精霊魔術を学ぶ学生の例にもれず心を平静な状態へ留める訓練を重ねたものだ。その記憶と感覚を呼び起こし、僕は凪いだ海を思い浮かべる。この島へ僕を連れてきた船、『はぐれ星』の甲板からみた夜の海。  果ての塔の主はほんの一瞬眉をあげ、ついで得心したように薄く笑った。この島へ到着したときはいざしらず、今の僕はこの笑みを恐れるようになっていたが、そんな気持ちの揺らぎも心に映した夜の海に沈ませる。 「レイコフ殿、古代の呪文の魔術に関するあなたの蔵書を調べてもいいでしょうか? 落ちついて考えてみたいのです」  僕の言葉をレイコフがどう受け取ったのか、その時はわからなかった。しかしその日の夜から、四六時中僕につきまとっていた護衛の男たちがいなくなった。ブラウもそれまでのように頻繁に僕の周囲にいることはなくなって、僕はやっと息をつくことができた。 (ソール)  呼び声が聞こえたのは書架のあいだにいたときだ。ランダウの声だった。僕は飛び上がりそうなほど驚き、あたりをきょろきょろ見回した。図書室にいるのは司書だけだが、彼女は僕から眼をそらしている。護衛もブラウもいなくなったのに、司書は何かを恐れているかのように妙にぎこちない態度で、つい先日までのような親しい表情を見せなくなっていた。 (ソール、僕だ)  もう一度聞こえた。実際に耳に聞こえる声ではないと理解するまで、数秒かかった。 (ランダウ。きみは……) (うしろを見ろ)  僕はゆっくりとふりむいた。背後の壁にはなめらかな石のタイルと蜜色の羽目板が交互に並び、この館のあちこちで見かける渦巻と直線の文様が彫りこまれている。 (羽目板を触るんだ)  頭のなかに響く声に魅入られたように従いながらも、自分が危険な領域に踏みこんでいる気がしてならなかった。それでも僕は声が示すままに蜜色の羽目板に触れ、文様をなぞった。最初に直線、角を曲がってまた直線、最後に渦巻の外側から内側へ。 〈力のみち〉を感じた瞬間、板の向こうで金属が外れるような音がした。板を押すとカチリと開く。指先は冷たい金属の輪をひっかけ、そのまま手前に引くと扉が開いた。  足を踏み入れたのは石と石のあいだに挟まれたようなせまい通路で、どこから差しこんでいるのかもはっきりしないほのかな明かりに照らされている。僕がどこをうろついていても、いつもブラウが突然姿を見せるような気がしていたのはこんな道があるせいなのか。  突然純粋な好奇心がわきあがった。しばらく――いや、ずいぶん長い間忘れていた感覚だった。そういえば僕は昔、こうやって探検するのが好きだったのだ。寄宿舎や学院の中でも……。  通路の先ですうっと光がまたたくのがみえた。追憶にふけるのをやめて僕は歩きはじめた。ランダウの声はもう聞こえなかったが、まっすぐ進み、あらわれた階段を降りる。長い階段だった。ここはどこだろう。道は一本だったから戻ろうと思えばさっきの図書室へ帰れるはずだ。  そんな風に思ったとき階段が終わりになり、僕は横手の羽目板の隙間から明るい大きな空間を覗いていた。見覚えがあると思ったのも一瞬で、違和感に思わず眉をしかめる。羽目板の向こう側は以前案内してもらった印刷所だった。しかし魔力に対する感受性を取り戻した今の僕はそのときと異なる雰囲気を感じている。こめかみが勝手にぴくぴく動いた。あちこちに力の渦の溜まりがあり、隠れている僕にまでそれが触れてくるのだ。  奇妙な形をした巨大な機械があり、金色のパイプから魔力の強烈な輝きがあふれている。〈力のみち〉は上層へと流れ、僕の感覚はのびていくそれに一瞬釘付けになったが、同時に胸の内側が嫌な感じでざわめいた。パイプの根元に視線をやると不自然な姿勢で座っている人が見えた。長い上着の色はくすんだ橙色で、両手を上にあげている。首はうなだれて顔は見えなかった。彼らは何をしているのだろう?   羽目板の隙間の視界は狭く、眼を凝らしてもよくみえない。顔をくっつけるようにして覗くとブラウの上着を思わせる赤色が視野の端を横切った。唐突に室内に怒声が響いたが、何をいっているのかまるでわからなかった。この島の方言? 共通語ではないのか。バタバタと大きな足音がして羽目板のすぐ向こう側を誰かが走って行く。続く数人は後を追っている――と思ったとき、彼らの足が凍りついたようにとまった。  空中に炎がぽっと浮かんだ。僕は眼を瞬いた。炎は天からおちる火球のようにまっすぐに下へ落ちていく。恐ろしい叫び声が鋭く響いてすぐに消える。嫌な臭いが鼻をついた。 (離れろ)  頭の中でランダウの声が響いた。僕は声に操られるように通路をさらに先へ進んだ。いま目撃したのはまぎれもない暴力の場面だった。小走りに進みながら僕はレイコフの理論を思い出していた。彼の考案する大規模な魔術を実現するには膨大な魔力を必要とするはずだ。ブラウもレイコフ自身も、この島でその一部が実現されていると何度も僕にほのめかしている。その源泉となる魔力はどこから来るのか?  僕の頭はめまぐるしく動いた。レイコフは僕に〈本〉を解放させ、それで何を得るつもりなのだろう。友人の精霊魔術師で理論家でもあるヴェイユは〈本〉は力の通路だという説を唱えた。僕とランダウによって失われた書物は、単に知識を運ぶ媒体ではなく、それ自体が力を呼び出す仕組みなのだと。  なぜかサージュのしわがれた声が頭にうかんだ。彼はレイコフのことを「古代狂」と呼んでいた。もし僕が〈本〉の封印を解くのを拒否したら、彼はどうするつもりだろう。  僕はやみくもに歩いたはずだ。なのにいつの間にか羽目板の裏側からいつもの居室に戻っていた。導いたのはときおり頭の中で響くランダウの声だ。  落ちつかないまま僕はふらふらと居室をめぐった。書斎の机にはレイコフの著作が置かれている。唐突に、邪悪なものを見てしまったという思いが強く迫った。炎とあの臭い――あれにそっくりな臭いを南の島で嗅がなかったか?  僕はレイコフの本から眼をそむけ、書斎を出ると後ろ手に扉をしめた。この部屋にはもう二度と入らない。  その日の食事はすべて部屋に運ばれてきた。ブラウも現れず、僕はひとりだった。眠ろうと寝台に横たわったとき、ふと今日はクルトのことをまったく思い出さなかったと気がついた。この島に連れてこられてからというもの、クルトの記憶は毎日のようにふとした折に僕の心の片隅に浮かび、そのたびに胸がしめつけられるような寂しさを味わったものだ。なのに今日はそれがなかった。  これも魔力の一部が回復したせいなのだろうか。しかしどういうわけか、何か大事なものを失ってしまった気がしてならない。僕はクルトの顔を思い浮かべた。カリーの店。海辺の村。クルトは僕の大切な人だ。なのになんだか……何かが足りないような気がする。  いつの間に眠りにおちたのだろう。気づくと僕は平らに凍った浜辺に立っている。  すこし離れたところにランダウがいた。僕らを包む空間は無限に広がり、空も海も足元もすべらかな硬い表面をもっている。 「ランダウ!」 「きみの意識は眠ると僕を解放する」  ランダウの声も周囲と同様に硬質な響きを帯びている。彼は近づこうとした僕に手のひらを向けて、来るなとでもいうような素振りをした。 「でも――それだけではこれには届かない」  ランダウの両腕が開いた。炎をあげる〈本〉がそのあいだに浮かびあがる。圧倒的な憧れと渇望が僕を包んだ。理由をたずねるような理性の働きはいっさい停止して、ただランダウのように〈本〉を抱きしめたいという欲望でいっぱいになったのだ。 「ランダウ……僕も――僕にも」 「ここまで来るんだ。ソール」  ランダウはいった。「僕を捕まえろ」  一瞬浮かんだ彼の表情は、かつて学院でいたずらをけしかけた時のような茶目っ気に満ちていた。僕は嬉しくなってランダウの方へ駆けていこうとするが、つるつるした足元はすべり、うまく前に進めない。ふとみるとランダウの体は大きくなっていた。黒い眸が僕を覆うほど巨大になり、闇をたたえて迫ってくる。 「それとも僕に捕まるか? ソール」  ランダウがいった。その声は妙にまのびして低い。ちがう、と僕は思う。彼はランダウ――だけど、ランダウじゃない。ランダウは死んだのだ。おまえ自身のあやまちのせいで。  それならおまえの中にいるこのランダウはなんだ?  ランダウはますます巨大な影となって僕の視界を覆いつくした。〈本〉は彼の頭上、高いところで輝いている。僕はふるえながら言葉を発する。 「〈本〉を開いたら何が起きる?」  ランダウの唇が真横に裂けた。 「。ソール。僕を呼べ。正しい音で」  またしても世界が砕けた。海も空も足元も粉々にひび割れる。崩壊する世界のむこうにあざやかな緑色があらわれた。僕は息をのんだ。クルト。彼の眸は冷たく刺すようで、僕をみつめながら無言でまっすぐに手をのばす。その指先からいばらの蔓のようなものが伸び、するすると僕に迫り、からみつき――  悲鳴をあげて僕は眼を覚ました。跳ね上がるように寝台に体を起こす。背中を冷たい汗が流れた。淡い輝きが壁の上を筋となって何度か流れる。力のみち。力とはいったいなんだ。いくつもの警告が混ざりあって僕を混乱させていた。これから僕はどうするべきなのか? そもそも僕に何ができるのか? 僕はずっと無力だった。ただ守られているだけだった。  しかし今は?  僕は両手で顔を覆った。眠りがいつ訪れたのか、覚えていない。

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