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【第2部 星々の網目にて】14.夜天光

「ではこれが『八の燭台』のダーラムが北方連合の女王と通じている証拠、というのだな」  王太子のアピアンは光に書状をかざし、末尾に押された印章と特徴的な署名をしげしげと眺めた。 「女王の名前――正式名か。印章の下のしるしは……」 「古く北方で使われていた文字です。立会人が添えたものでしょう」  言葉を添えたのはアダマール師だった。クルトとならんで長椅子へ座り、金の象嵌をほどこした小さなテーブルに向かっている。 「これは遠隔地の臣民に与える許可証です。ダーラム殿はこれがあれば……この王国でこの先何が起きようとも北方連合の保護を得られる」  アピアン王子はテーブルの向こう側でひじかけ椅子に腰をおろしていた。手袋をはめた手で用心深くもちあげた書状をそっとテーブルの上に戻し、クルトを射るような眼つきでながめた。 「ハスケル。きみの話はこうだったな。ひとつ、ダーラムはメストリン王子の権威を背景にみずからが唯一の長である部門を作り、王宮政治の権力図を書き換えようとしている。彼は審判の塔や学院に分散する情報をすべて自分のもとに集め、レムニスケート家と騎士団を弱体化させるのを望んでいる。ふたつ、審判長のひとりであるカタンはダーラムと通じている。最後に、ダーラムは北方連合の女王に忠誠を誓っていて、その証拠となる書簡をカタンの執務室に隠していた。この書簡をどうやって手に入れた?」  クルトは唾を飲みこんだ。 「詳しくお聞かせしなくてはなりませんか?」  アダマール師が咳払いした。アピアンはクルトを正面からみつめた。一呼吸おいて陽気な笑い声が小さな部屋に響きわたる。 「そうかそうか」アピアンはクルトがとった手段を咎めるつもりはないらしい。「持ち主はこれがなくなったことに気づいているか?」  クルトはまた唾を飲みこんだ。 「いいえ。二人以上の眼でみないかぎりはわからないでしょう」  アピアンは表情を変えなかった。「魔術か。対応としては適切だな」  クルトは肩をすくめ、アダマール師の視線を避けた。  王宮の地下深くにある窓のない部屋は静かすぎ、時の流れから切り離されているようだ。王国で二番目の地位にある権力者はクルトが若すぎるとはいわなかった。この朝クルトはまずマンセルを寄宿舎へ送り、その足でまっすぐ学院を訪れた。ヴェイユとアダマール師にマンセルから聞き出した教師の名を伝え、アピアン王子に渡したいものがあると告げてから数時間。さすがのクルトもここで直接王太子へ謁見するとまでは予想していなかった。しかし王太子のアピアンは供も連れずにこの部屋へあらわれたのである。手はずを整えたのはアダマール師だった。 「きみがハスケルか」  王太子は部屋に入ってくるなりクルトの顔をみつめ、手を差し出しながら単刀直入にいった。 「セルダンがいったとおりの眼つきだな。私はアピアン。重要な話があると?」  セルダンの名が真っ先に出たこと、おまけに気軽な仕草と続いてクルトは面食らったが、こう先手をとられては膝をつくのも逆におかしい。しかも相手はそんな反応に慣れているようだ。試されているのを感じながらクルトはアピアンの手を握り返し、それから一歩さがって、あらためて礼をした。 「クルト・ハスケルです。お目にかかれて光栄です」 「学院での会合についてはセルダンから聞いている。アダマール師も、久しくお会いしていなかったが、ご健勝でなによりだ」  アピアンは早口で話した。頭の回転の速さを映しとったような話し方だった。弟のメストリン王子より若くみえるのは痩せた体型のせいだろうか。椅子から立ち上がろうとしたアダマール師を穏やかに制して単刀直入に本題に入り、まずはクルトに話をさせたのである。  黙って話を聞いているあいだもアピアンは感情の乱れをいっさいみせなかった。若年の王族は魔力の多寡にかかわらず学院で精霊魔術師から訓練を受ける。平静さはその賜物なのだろう。カタンの執務室に隠されていた書簡の確認を終えたあとは、腕と足を組んでゆったりと座ったままクルトとアダマール師を交互にみつめている。視線は鋭く、何ひとつ見逃さないという様子だった。  クルトはふとセルダンを思い起こした。王太子は武人のようないでたちとは程遠い。だがその表情の動きにはレムニスケートの嫡子を連想させるところがある。 「さて……どうするか。アダマール師はいかがでしょう?」 「殿下は……ソール・カリーの件はお聞き及びでしょうかな」  アピアンは足を組みなおす。 「会合で話された件についてはセルダンから報告を受けているが」 「では重複するかもしれませんが、いま一度。ソール・カリーを拉致したサージュは、北方連合に属する『果ての塔』の主、レイコフの命令で行動していました。彼は薬物――魔力を増幅する知覚の拡大剤を代償にこれを請け負っている。もとは結社『朝露を散らす者』の一員として『果ての塔』に滞在していたことがあります。『朝露』は単なる魔術書の窃盗団ではありませぬ」 「朝露か。セルダンはそれについて思うところがあるようだ。レムニスケートの古い記録にその名がある」 「昔はともあれ、今はレイコフ直属の諜報組織です。書籍業者の間にまぎれこんで情報を集め、自分たちに都合の悪いものは抹消している。彼らに協力する者はあちこちにいる。おそらく、学院にも。今朝、クルトの報告で我々は教師をひとりマークしました」 「ほう」アピアンの眼がきらめいた。「それはお手柄だ。ハスケル――いや、クルトと呼ぼうか。父のハスケル殿と区別するために。いいかね?」  クルトはうなずいた。「もちろんです」 「ではクルト、きみの報告が正しいとして、ダーラムの狙いはなんだと思う。将来、北方連合の動きに応じて王国を乗っ取る。あるいは売り渡す。それとも単に情報の見返りの報酬が欲しい……『八の燭台』にまで上った男にしてはなんとも小さいな。ただそれをいうならこの王国とて巨大とはいえないが」  王太子のざっくばらんな物言いはクルトを途惑わせた。王族とはこんな風にみずからの国をみているのか、それともこの王太子が特別なのか。 「ダーラム殿は……」  クルトは迷いながら口を開いた。 「すべてを自分の視野のなかにおさめていたいのかと思います。自分の意識に映るものは何もかも精妙に――からくり仕掛けのように動かしていたいのかと。思うままに操ることそのものを楽しみたいのかと……もちろん他にも理由はあるかもしれませんが。金銭や……」  アピアンはうなずいた。 「精霊魔術師にはありがちな罠だな。アダマール師、あなたの講義はいまだに覚えているとも。それとダーラムの領地について調べさせた方が良さそうだ。しかし今すぐ彼を〈探査〉するわけにもいくまい。王立魔術団の長のひとりだからな。他の燭台連中に相談するしかないが、その前に陛下へ上申しなければならない。女王の書簡は二重忠誠の証拠にはなるが、うかつに出せないカードだ。あとは……カタンが審判長になったいきさつを調べた方がよさそうだな。彼とダーラムの繋がりは単独なのか。最後はメストリンだが、さて……」  アダマール師が薄目で王太子をみた。 「殿下、近かろうが遠かろうが、北方連合の野心がこちらに向いているとき、王家が分裂することはなんとしても避けるべきです」 「正解だ。特に彼らの目線が隣国にあるのなら、私と弟の仲たがいは願ったりかなったりだろう。隣国の土地と、大陸に一番近い港が欲しいのなら、陸と海からの挟み撃ちが理想だ。ここで陸に接するわが王家が分裂し、傀儡が立ち、彼らに通じた優秀な魔術師が実権を握れば、どうなる?」  アダマール師から細い息が吐きだされた。 「やれやれ、殿下。楽しんでおられる」 「まさか。私は真剣だよ。ところでクルト、ソール・カリーはきみの伴侶ということだが」  唐突に話が変わってクルトは眼をむいた。 「は、はい?」 「きみはソール・カリーの奪還にもっとも適任なのは自分だと豪語したそうだな。彼と共に一生幽閉されてもよいとまで。しかし〈本〉の封印を解いたソール・カリーがもし北方連合についた暁には、私はどうしたらいい? 私はきみの忠誠を信じられるのかね?」 「――もちろんです」  即座の応答ではあったが、語調はいささか弱かったかもしれない。クルトはアピアンから眼をそらすまいとした。眼の前の男は毛ほども心の動きをかぎとらせない。穏やかに、だが強い声でいった。 「いいのか? 私はその答えを誓約と受け取るぞ」 「俺は王国の魔術師です」  クルトは静かに答えた。 「義務を果たします」 「最悪の事態になっても?」  クルトはうなずいた。アピアンの眸はさらにクルトを注視したが、ふいにゆるんで、遠くをみるような眼つきになった。 「昔――若くてろくに考えを持っていなかったころ、私はセルダンに誓約を立てさせた。私と王国、あるいは私とレムニスケート、どちらかを選択しなければならないときがあったら、私以外を選ぶようにとね」 「殿下?」  クルトは王太子の眼を正面からとらえようとした。眸にほんの一瞬、セルダンへの感情が炎のようにちらりと上がり、みえなくなる。 「やれやれ、本来なら他人に求めることではない。ひどい話だ。だが力の行使は往々にして代償を求める。そして勝利というものは、代償を払うとか、払わせるなどと考えなくてすむ状態へ、常に自分を置いておくことだ」  アピアンは小さく笑った。皮肉な影が一瞬頬をかすめて消える。 「逆に敗北とは、無茶な選択をせざるをえない事態そのものをさす。きみは負けるにはまだ若い。ソール・カリーは我々に任せておけ。ダーラムの件は私からセルダンに話す。まずは機密を他国に漏らした疑いで審問にかけるべきだな。本件は陛下へ内密に上申する」  このままでは結局、ソールを奪還する騎士団の一行にクルトは入れてもらえないようだ。  まだ話があるという王太子とアダマール師を残し、地上へ戻ったクルトは落胆していた。ダーラムの件を進言するという当初の目的は果たしたが、ソールへの道は閉ざされたままだ。急がなければならないのに、何ひとつ先に進められない自分に焦りしか感じない。  という感覚はクルトの中で時間を追うごとに増していた。とはいえ焦りの理由はクルトにもはっきりしなかった。実際、国の政治の問題としては、北方連合とダーラムがどんな陰謀をめぐらせていようと、冬のあいだはそれほど事態が動かない可能性は高い。  ほんとうに?  騎士団の留置場を歩きながらクルトは自問していた。サージュを診るべく通っていたおかげで見張りの騎士たちはクルトに慣れていた。突然あらわれてもなんとも思われず、まっすぐ最奥の柵までたどりつく。 「よう、魔術師。何の用だ? まだ治してくれるのか?」  皮肉っぽいしわがれ声がクルトを迎えた。 「おまえはもう治ってる」  クルトは素っ気なくこたえた。 「魔力については諦めろ。施療院も学院も、おまえの欲しい薬は出せない」 「だったらここに来る用はないな」  サージュはにやにや笑っていた。毎度苛々させる笑い方だが、まさに自分を苛立たせるためにやっているのだとクルトにはわかっていた。その理由もわかっていた。  暇なのだ。クルトはサージュの体をできうる限り癒したが、柵の内側には書物もなく、話し相手もおらず、ただ無為があるだけだ。その無為をサージュはクルトをからかうのに使い、クルトはクルトで、相手の圧倒的な無力――何しろ牢にいるのだから――を知りつつも苛立ちを抑えられないのだった。  治療のあいだもその後も、サージュとの会話はクルトにとってまったく楽しいものではなかった。この男と話が合う日など永遠に来ないにちがいない。たとえ彼がソールにしでかしたことを差し置いても。  しかしそれでも、今はこの男が必要だった。というわけで、クルトはいった。 「俺はあるんだ」 「おやおや。何の用だか」  クルトは牢の錠に指を添えた。ぱちりと火花が散り、扉が開く。するりと中に入ると後ろ手にまた鍵をかける。騎士たちの耳に届かないように早口で告げる。 「果ての塔へ行きたい。案内しろ」  サージュは眼を丸くした。 「おい魔術師。何をいってる。お断りだ」  声は心の底から嫌そうな響きを帯びていた。どぶに唾を吐くかのような勢いだ。もっともサージュが何といおうとクルトに取りあうつもりはなかった。アピアン殿下に進言したとはいえ、ダーラムの陰謀がどの範囲に及んでいるかをはっきりさせるには相当な時間がかかるだろう。自分が王国を離れたあいだにサージュに何かがあれば、ソールを探す最後の手がかりが失われることになるのだ。  だから単にこう返した。 「おまえには拒否できない」  サージュは眼をむいた。 「できるさ。だいたいあの連中が」指さした先には騎士が立っている。「俺を出すわけがない。ずっとここに閉じこめておくつもりだろう? 俺はこの国の重要な機密を奪ったんだからな」  重要な機密か、とクルトは思った。たしかにソールはこの国で何年もまともな市民の扱いを受けていなかった。〈本〉ゆえに監視され、自由に移動することもできなかったのだ。いまも、彼はいったいどこに囚われているのか。だがこの男は『果ての塔』の正確な位置を知っている。 「いや。俺がここから出す」  サージュは鼻を鳴らした。 「行きたいなら勝手に行け。俺は行かないぞ。あそこは……だめだ」  馬鹿にしたように腕をふる身振りや軽薄な口調と裏腹に、その声には本物の恐怖が宿っていた。クルトは眉をひそめたが、こう答えるだけに留めた。 「おまえが何を恐れても、俺には関係ない。ソールのためだ」

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