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【第2部 星々の網目にて】15.不動星

 レイコフは僕を信用したのだろうか。ひとりで外に出ようとしてもブラウはもう止めないし、後をついてこない。いつのまにか窓も扉も開くようになった。  あるいは僕の魔力の一部が回復したために、レイコフは自分の魔術を僕に及ぼせると考えているのかもしれない。なにしろ今の僕に他人の魔力をさえぎる防壁はないし、この島全体がレイコフの領地なのだ。どこに逃げようとすぐにわかると暗に告げられているのかもしれなかった。  ランダウの声に導かれて印刷所の裏側を覗いて以来、僕は用心ぶかくなっていた。かつて持っていた防壁はないとしても、たやすく心の動きを読み取られないために、僕はひそかに学院で教わった訓練を再開していた。  昔はランダウと寄宿舎の部屋で、毎朝ふたりでゲーム代わりにさまざまな訓練をしたものだ。相手の集中を乱して勝ち負けを競うのが僕とランダウのお気に入りで――もっともそれは本来の訓練意図からは多少ずれていたのだが――僕らは勝敗の星で昼食をおごりあっていた。やがてそこにヴェイユが加わった。貴族の彼にはそもそも「昼食をおごる」などという観念がなかったから、はじめはずいぶん面食らったようだ。ランダウは時々大胆な冗談でゲームを攪乱し、僕らは腹を抱えて笑ったものだった。  ランダウが後ずさりながら僕に向かって百面相をする。 (おい、それは反則だろ、ランダウ!) (なんで? ルールは破ってない。後ろ向きに歩いても前向きに歩いても、進んでいる方向は同じさ) (こっちを見るなって! 笑ってしまうじゃないか) (だからやってるんだ) 「外套ならこちらをどうぞ」  ブラウが差し出した刺繍入りの長い外套を僕はうわの空で受け取った。彼は『はぐれ星』の船長が僕にくれた外套が嫌いなようだ。いや、外套ではなくあの船長が嫌いなのかもしれないが、僕はブラウが見ていない隙に船長の外套をブラウがくれた外套でくるみ、片手に持つ。空は澄んだ水色をして、片側に雲が集まっている。雨は定期的に降るようだ。王国ですらそろそろ雪がちらつく季節なのに、この島の気候は変だった。 「寒くなったら着るよ。北にいるとは思えないな」 「それでも海風は冷えますから。お留守のあいだに必要な書物があれば図書室からお届けしましょう。いかがですか?」 「ありがとう。だったら『天空の緑』を」  僕は頭に浮かんだ題名をいった。古代語で書かれた詩集で、館の図書室ではじめてお目にかかったものだ。ブラウはうなずいた。彼は僕が〈本〉の封印を解くために研究していると信じている。気分転換に散歩をしたいと話すと微笑んでうなずく。僕がレイコフに協力しているのは彼にとって嬉しいことらしい。そんなにも塔主に心酔しているのは彼の義足のためなのだろうか。ブラウの義足からは魔力の放射がかすかに感じられた。 「そういえば、髪留めがお好きなら今度別のものを」 「いや、いいよ」  僕は表情を出さないように気をつけながら青と緑の髪留めに手をやる。 「これで足りている」 「もっとソール殿に似合うものを塔主はお持ちです」 「では直接レイコフ殿にうかがおう」  館の外に出ると茶色の上着をまとった庭師がちらりと僕をみて、眼をそらした。毎日豪華な刺繍がほどこされた青色の上着を身につけるのも慣れたが――衣装部屋にあるのは揃いの服ばかりだ――この島ではどうやら、服の色や刺繍は僕が何者かを語るしるしになっているらしく、青色とほどこされた刺繍の図案は館で働く人々の警戒心を呼び起こすように思えた。すれちがう人々はみな僕を遠巻きにする。この反応は独特で、ブラウが着る赤の上着ともちがうようだ。  外に出られるようになってから、僕は毎日散歩の範囲をすこしずつ広げていた。ぶらぶら歩き、たまに止まって景色を眺め、無為な気晴らしを装う。かすかに海の匂いがする崖までたどりつくと僕は急いで船長の外套を羽織った。ブラウが勧めた外套は裏返しに丸める。船長の外套の襟からは海と革の匂いがして、青い上着に染みついた花の香りがすこし薄れた。僕は深呼吸をしてあたりを見回した。館の方向へ行くようにみせかけて、忘れ物でもしたかのような顔で崖の方向へ戻り――その途中にあった小道へすばやく足を踏み入れた。  この道を発見したのは昨日だった。僕は小走りに崖にそった細い坂をくだった。ずっと下に川が流れ、その先に湖がみえる。川ぞいのどこかに製紙所があるはずだった。湖の上方には丘がみえる。以前レイコフに馬車で連れていかれたところだ。  製紙場については疑問に思っていたことがあった。レイコフは印刷所で使う紙も、天体の動きを記録する紙も、僕の居室に置いてある紙も、すべてこの島で作っていると僕に話した。居室にある紙は亜麻の繊維が入ったなめらかで上質な紙だったが、こんな紙をつくるには原料になる大量のぼろ布、それに人手が必要だ。これに携わる人々はこの小さな島のどこで働き、どこで眠っているのだろう。  紙の原料以外にも、食料やぜいたく品などたくさんの物資が、この島が属する北方連合王国の本土から運ばれていることも当然予想できた。ぼろ布も本土から船で運ばれているのなら、製紙所は港の近くにあるのではないだろうか。この島自体はそれほど大きくないはずだ。現に今も海の匂いがするし、下っていく先の崖には切り取られたように黒く四角い影がみえる。ひょっとしたあれは島の内部への入口だろうか。一度ブラウに案内してもらったとき、この島には洞窟がたくさんあるという印象を受けた。  そのときだった。突然横から何かが飛び出て僕の脇腹と片腕をつかんだ。とっさのことで僕は声もあがらないまま手足をばたばた動かしたが、すぐに何かで口をふさがれ、強い力で暗がりへ引きずりこまれた。あっという間に両足と膝、両手を拘束され、襟首をぐいっと引かれた。ちらちらと光が点滅する。 「やっぱり青を着てる。館のやつらだ」 「外套はちがうぞ」  ささやく声が聞こえた。島の発音で、語尾はよく聞き取れない。と思ったとき聞き覚えのある声が「おいおいおい、待て。そいつは俺が持ってた服――ん?」と割りこんだ。 「待て。――先生じゃないか」 「先生?」 「わかった。俺の荷物だ。いや違った、荷物」  口をふさいでいた何かが剥がされた。皮がひきつれて痛かった。白く丸い光の中に青い眸が見えた。湖のような青。『はぐれ星』の船長の眼だ。  遠くで歌が響いている。酒場で詩人がうたうものではない。刻むようなリズムに言葉がのり、あいまに調子よいかけ声が入る。その場にいる全員が声を出して拍子をあわせる歌、働く者の歌だ。  歌詞がよくわからなかった。僕の知っている言葉ではない。鼻先に嗅がされた匂いのせいで頭がぼうっとする。突然眼の前が明るくなる。視界を覆っていた袋が外されたのだ。 「あんたの知り合いだって?」  頭の上でなめらかな声がいった。僕はびくりとした。張りのある深い声。女の声のようだ。 「そう怒るなよ。朝露の依頼でな、はぐれ星で運んだ」 「怒るなだって? いまだにそんなことをやってるなんて――」 「悪ぃな。俺はなんでも運ぶんだよ。だから先生は来たくてきたわけじゃない」  僕は椅子に縛りつけられていた。肩まできつく固定されているせいか、首をあげるのに手こずった。髪はぼさぼさで、前髪がみっともなく垂れている。髪留めはどこへいったのだろう。  やっと顔を斜めに傾けるのに成功したとき、僕の頭の上では口論が進行中だった。『はぐれ星』の船長のそばにいる人物は革で縁どった臙脂の上下を着て、足は長い革のブーツに包まれている。豪奢な金髪が腰のあたりで揺れている。わざと垂らしていると思しき前髪で眼は見えず、鼻先から口元がわかるだけだ。 「船長、ここは……」  頭の上を飛び交う会話のあいだで声を発したとたん、金髪の女が鋭い声でたずねた。 「あんたは塔主のスパイ?」 「え?」  僕は面食らった。 「僕は――ちがう。でもなぜそう聞く? 僕がスパイだったらやはり同じことをいう」 「魔術師?」 「まさか」 「そのようね」  いつのまにか女は僕の手首に触れていた。 「嘘はついていないみたい。それならどうしてあんなところにいたの」 「港へつながる……道を探していたんだ。ここ何日かやっとブラウがついてこなくなったから、今のうちに……」 「ブラウ。ああ、塔主の犬ね。わかった。あんたが噂の鍵か」  と、女はぱっと眼をみひらき、ぼうっと突っ立っている船長に吠えた。 「あんたの荷物だったなんて! どうしてもっと早く教えないの!」 「そんなこというなよ。鍵だとかいわれても俺はなんのことやらさっぱり……」  船長は顔をきょろきょろ動かし、僕と口論の相手を交互にみた。船の上にいるかのように体がしなやかに揺れ、リズミカルにバランスをとっている。口調には切迫感がなく、青い眼には事態を面白がっているような光があった。 「俺はただの運び屋なんだよ」 「まったく」女はあきれ顔で腰に手をやった。「いつもこうだよ」  やっと拘束を解かれたのはそれから間もなくのことだったが、僕は船長と女の前で長々と話をしなければならなかった。まずは王国で拉致されてから『はぐれ星』でここに来るまで。ここに来てから何をしていたか。さらにレイコフが僕をここまで連れてきた理由もすこし。  金髪の女はモードと名乗った。魔力がひとよりもいくらか強いらしく、といっても魔術師というほどでもないようだが、僕が話をする間ずっと手首に触れ、嘘をついていないかを確かめていた。一方僕はといえば、モードの質問や船長と彼女のやりとりを頭の中でつなぎあわせ、遅まきながらやっと理解していた。  ――この島にはレイコフの支配にひそかに抵抗する住民がいるのだ。僕は彼らが集まる秘密の会合場所の近くを、みるからに不審な様子でうろうろしていたというわけだ。 「さて、どうするか」  モードは腰に手をあてて考えこんでいる。隣で船長が「気の毒だから先生にお茶でも出してやれよ」と呑気な口調でいう。 「それに、先生をここにひきとめるのはまずいぜ」 「どうして」 「レイコフのことだ、島を裏返してでも探す。何しろこの先生を運ぶときの条件が破格でな」 「船長」たまらず僕は口をはさんだ。「先生はやめてくれ。ソールだ」  船長は平然とした顔でうなずいた。 「なるほど、ソール先生だな。とにかく先生には戻ってもらわないと、逆にここを嗅ぎつけられるぞ」 「それは困る」モードは険しい表情になった。「だがソール、あんたがもし塔主にチクったら……」 「そんなことをするか!」  僕は思わず叫んだ。 「僕はこの島を出たいんだ。船長――頼む、はぐれ星で僕を連れ出してくれ。僕は――僕は、帰らないと……」  声が石の壁に反響した。悲鳴のような切望がまじるのを止められなかった。モードと船長が眼を見かわした。 「あー……落ちつけ」  船長がまのびした声でいった。 「たしかに俺もこの島は好かん。冬も凍らないのはいいし最先端の設備が整った洞窟港は便利だが、領主も側近も高慢だし住民は人遣いが荒すぎる」 「馬鹿をいえ」すかさずモードがいう。「ひどいのは塔主だ。彼がここに来てから私たちがどれだけ――」 「うんうん、そこはわかってるって。で、俺が運んでおいてなんだが、先生も来たくて来たわけじゃないと。だが俺は先生を連れだせない。おまけに先生が消えてレイコフの機嫌が悪くなり、この辺に一斉手入れでも入ったらさあたいへん。モードの機嫌が海の底までまっさかさまだ。モードは俺の片思いの相手でね」  船長の飄々とした口ぶりに僕の興奮はすっと冷めた。この男はずいぶんと食わせ者だ。 「……はぐれ星は?」 「修理中なんだよ。それに俺は高い。先生に払えるかな?」  僕は黙りこんだ。船長は憐れむような眼つきで僕をみた。僕はこんな眼つきに慣れている。人々は何年も僕をこんな風にみつめ、僕はずっとそれを屈辱と感じてきた。なのに船長の視線は不思議と不快に感じなかった。 「だから今日のこれはまあ――事故だな。俺たちはちょっと不幸な出会いをしたが、先生は何も見なかった。ここがどこかもわからないだろう? 犬が嗅ぎつける前に館に戻ってくれ」 「犬?」 「赤い服を着てる」モードがむすっとした声でいう。 「ソール、あんたがもし私たちに協力してくれるなら――私たちも協力する。そのうち証明して」  証明だって? 僕はたずねた。「どうやって?」  モードは首を振った。前髪がはらりと分かれてその顔がみえた。彼女の眼は灰色がかった青だった。霧が晴れるようにその色が揺れる。濃い青色が眸を覆ったかと思うと、みるまに元の色に戻った。 「――さあね。今は完全にはあんたを信用できないし、きっと時が来ればわかる」 「時?」  僕は聞き返したが、モードは答えなかった。その後の彼らの行動は早かった。僕はまた袋をかぶせられ、今度は拘束なしに手を引かれて、狭い通路を歩かされた。やっと袋をはずされると、僕がたどった崖の道とは全然ちがう場所にいた。木立の向こうに館の影がみえる。 「赤い服の犬には湖をみたくて遠出したといいなさい。あっちで作業員に歓待されたとね。ふりむかないで。口裏は合わせられる」  僕のうしろにはモードひとりしかいないようだ。僕は小さな声でいう。 「モード。あなたは魔術師ではない。でも僕はこの地方に伝わる物語を最近読んだ。英雄はごくふつうの人間だったが、ときおり未来を視る眼が憑依する。あなたは……」 「それはただの物語だね」  ささやく声がして、手のひらに固いものが押しつけられた。 「これは返す。お守りらしいね。あいつがいってた」  木立が鳴った。僕は髪留めを握りしめて立っていた。ふりむいても誰もいない。

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