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【第2部 星々の網目にて】17.孤児の星

 夜空はわずかに青みがかった鉄のような黒色だった。星々は銀砂のようにまき散らされ、黒の背景に貼りついている。なのにじっとみつめていると深く深く、底の方へ落ちていくような気持ちになる。星たちは空の暗闇に力の網を張る、と僕はぼんやりと考える。僕らはその網にかかる魚の群れだ。この先どこへ運ばれるのか、誰も知らない。  美しい星空を眺めているのに、力の網などと無粋な連想をしてしまうのは、魔力が多少戻ってきて、僕の眼に映るものが変わったせいだ。世界は前よりも艶をおび、光も風も夜に舞う蝙蝠も、以前はなかった鮮やかな輪郭をもっているような気がする。 「調子はどうだね」  はぐれ星の船長とモードに出会った思いがけない「散歩」の翌日、レイコフは僕を夕食に呼び出し、豪勢な食事が終わると先に立って観測室へと招いた。 「最近留守が多くて申し訳ないが、俗世の用件がいろいろとあってね」  僕の隣で星空をみているレイコフの口調は穏やかだ。彼はめったに声を荒らげない。にもかかわらず、ブラウや使用人に対する言葉は強い命令や叱責のように響くことが時々ある。魔力が戻りはじめて、僕はやっとその理由を理解した。彼の声にはときおり異なる音程や音色が重なっている。まるで和音のような二重三重の響きをもつことがあり、それはたぶん何らかの魔術の効果なのだった。  おなじように重なる音は僕の『措置』を行った部屋でも鳴っていて、ここでは大きな楽音のように鳴り響いていた。防壁が魔力をはじいていたころ、僕はまったくこれに気づかなかった。今思うと不思議なほどだ。音は、文字を刻んだ金属がひっきりなしに動きつづける立方体――『措置』のあいだ僕の眼の前にあった装置――から鳴り響いている。装置の足元は煙突のように階下へとつながって、この館を貫いているようだ。  これこそがレイコフが古代文献から再生したという魔術装置の本体で、僕が「金属活字」だと思っていたものはこの装置の部品なのだった。レイコフの声の効果もこの装置に関係があるらしいのだが、この装置がどうやって〈力のみち〉を動かしているのか、僕にはいまだにわからなかった。  回路魔術師で技術の天才である友人のセッキならともかく、みたものを記憶できるからといってそれを理解できる頭が僕についているわけではない。最近の経験でわかったのはこれだけだ――ブラウがレイコフを崇め、島の人々がレイコフを畏怖し憎むのは、この魔術によってもたらされる力と苦痛のせいだ。 「古代語も古代文字も学生のころ以来で、勘を取り戻すのに時間がかかっていますが」  言い逃れに聞こえないよう注意しながら僕はいった。 「でも魔力が戻ってきたおかげで、この館のことがわかるようになりました。ひとつ不思議なのですが、あなたの再生した魔術は僕の故国の回路魔術よりはるかに魔力を集中させる必要があるようです。どのように魔力を集めているのです?」 「生きているものなくして魔力はない。古代においては多数の奴隷が使われていたのを知らないかね?」  レイコフはさらりといった。 「もちろん良い方法ではない。人の体内の源泉から力を引き出すのは無駄が悪い。おまけにすぐ消耗してしまう。魔力の源泉が多ければ薬物でひきのばせるとはいえ、効率の悪さには変わりがない。しかも事あるごとに反抗しようとする」  首筋がぞわっと総毛だった。 「それで?」  僕は星空をみつめたまま表情を変えまいと努力し、ふつうの口調で問い返す。 「だが私はそなたをみつけ、そなたはここへ来た。その身の内に無限の力につながる〈本〉を抱えて。そなたと私、ふたりになればすべてが手に入る」 「すべて?」  僕の声は震えていなかっただろうか。 「この世の知識のすべて。そなたに封じられた〈本〉はこの世の外の力につながる通路だ。私が再生した魔術はそなたの〈本〉でついに完成する」 「完成……」 「そうとも。そうそう――」  レイコフは僕に向かって唇のはしをあげる。ぞっとするほど優しい微笑みだった。 「そなたが〈本〉を獲得した方法は天才的だった。どうやって思いついたのかね」 「方法?」僕は途惑って聞き返した。 「何がです?」 「友人とふたりで『力の書』を開いたことだよ。私はあれの来歴を徹底的に調べた。あれをみつけた魔術師はひとりとして、他人と共に開こうとは考えなかった。なぜか――もちろん〈本〉を独占したかったからだ。しかし〈本〉はそのたびに力ある魔術師を破滅させてきた。どれほど魔力をもっていても、あれはひとりの人間に担えるものではない」  僕は思わず口をひきむすんだ。まさか、と思う。レイコフのいわんとすることを理解したくなかったのだ。 「レイコフ殿は……僕が意図してあれをやったと思っておられる? わざと友人を犠牲に?」 「ちがうのかね?」  ぱっと怒りが燃え上がりそうになる。僕は慌てて心をしずめた。レイコフに感情を見せるのは悪手としか思えない。もっとも塔主は僕の内心を気にかけてはいないようだ。 「正直になりたまえ。無限の力の前でかりそめの感情や見せかけの倫理を気にするなど無駄なことだ。しかしあれを計画したわけでもなく、とっさにやれたのならそれこそたいしたものだ。並の魔力、それに精神力では不可能なことだからな。そなたと私――私たちふたりならどれほどのことがなしえると思う?」  僕は首をふった。 「あなたはここを維持するためにたくさんの人の手を借りています。ひとりではない」  レイコフはまた微笑んだ。 「私と対等の者はいない」 「でも……ブラウは? レイコフ殿の側近でしょう」 「あれも拾っただけの者だ。もとは何の力もなく、すべて私が与えたものにすぎない。昔から私の力に惹かれてくる者たちがいる。そなたをここに呼ぶ時にもかつてここにいた者を使った」 「サージュ?」僕の声は少し大きかったかもしれない。 「彼がどうしたね?」  そういった塔主の唇が見知らぬ形で動いた。僕はいびつな音を聴きとり、頭の中で文字を思い浮かべる。古代語だが、教科書にはけっして出てこないような言い回しだった。侮蔑語のひとつだ。  サージュはこの島と『果ての塔』それにレイコフについて僕に教えたばかりか、僕をここへ運ぶ手引きをした。しかしサージュ自身はここへは来なかった。今思えば来るつもりも――来たくもなかったのだ。でもサージュは過去にここを訪れている。いったい彼に何があったのだろう。  僕はなんとか自然にレイコフへいとまを告げ、居室へ戻った。寝室の扉を閉めてもしばらく震えが止まらなかった。寒さのためではなかった。  羽根を詰めた上掛けと敷布のあいだで体を丸めて、レイコフの残酷さは自分とは無縁だといいきかせようとする。僕がわざとランダウを犠牲にしたなど、考えるのも恐ろしい。  ぱちり、と頭の中で音が鳴った。木と革の表面が炎の中ではじける音だ。僕は禁じられた部屋にいた。学院の図書室の奥、学生が入らないように鍵をかけた区画だ。ランダウが僕の前に立っている。〈本〉はひらかれ、僕らの間にある。ページから立ち上がった紅い炎がランダウに燃えうつり、彼は炎を払いのけようとする。僕は逆の動きをする。無我夢中で手をのばし、ランダウへ向かう炎をつかんだのだ。僕は炎と戦う、なぜならランダウを助けなければならないからだ。彼を生かさなければ。  僕はみずからの魔力の根源を呼び出し、それは炎に対抗して白い網のようにランダウに投げかけられ、炎に崩れそうな彼をつなぎとめる。網はランダウの体に沿って彼そっくりのかたちになり、〈本〉から生まれた炎はその中に包みこまれる。でも僕の手はまだ炎の一部をつかんでいる。頭の中に音が――文字が――概念が――力が入りこみ、また音に変換される。あまりにも大きな音、僕の中にとどめておくには大きすぎる音。僕はその音を発声しようと懸命に口を開く。  そのとき巨大なランダウの影が僕の前に立ちふさがった。両手のあいだに燃える〈本〉を抱いて、僕をにらみつけている。 「ソール、きみは正しい音を知っている」 「ランダウ、僕は――」 「きみは〈本〉をんだ。僕が燃えているときに」 「ランダウ! 僕は――僕はきみを助けたかった……」  ランダウは〈本〉を両手でもちあげ、高くかざした。彼の顔も手足も怪物のようにふくれあがり、僕をにらみつけている。僕は悲鳴をあげる。 「ソール。正しい音で歌え。〈本〉を――僕を解放しろ」  僕は汗びっしょりで飛び起きた。あわてて見回した部屋は明かりがついたままだ。手のひらに白い光の筋が走る。魔力の流れが体のそこかしこに感じられる。  焦ってあたりを見回した。僕がいるのは同じ部屋だ。レイコフの果ての塔、館の一室。なのに何かが変わっている。僕は手のひらをもちあげ、光に透かした。  魔力がまた――戻ってきている。  僕はたった今までみていた夢のことを考えた。ランダウは「歌え」といっていた。  歌か。僕らは何年も親しい友人だったが、一緒に声をあわせて歌をうたった記憶はない。僕はあまり歌を知らないし、僕らは大勢で騒いで歌うような酒場にはいかなかった。  いや、でも僕は……たしか好きな歌があったはずだ。誰かがうたう歌……何だっただろう?  どういうわけか思い出せなかった。僕の内部には欠けた陶器のように消えてしまった部分があり、そこから真っ黒の深淵がのぞいている。いや……僕は頭をふってそれた考えを元に戻した。ランダウは「正しい音で歌え」といった。正しい音――〈本〉の言語の音だろうか。古代語の発音は複雑で復元も難しい。しかしその一部は「歌われる」ものだと昔教わって……  はっとして僕は硬直した。もしもこれが正解で、〈本〉の封印が解けたとしたら――レイコフの望みがかない、そして僕はどうなるだろう?  ふくれあがったランダウの影が頭に浮かんだ。僕に迫り、覆いつくし―― ()  ぎょっとして僕は頭を抱えた。髪はくしゃくしゃにもつれていた。なんとか手で撫でつけてお守りのように髪留めを握る。明かりを消して窓から外をみる。もう真夜中だった。ばらまかれた星々は網目をつくり、輝くうすい霞の川を天のかたすみに伸ばしている。それらの星々から離れたところにひとつ、ぽつんと輝く光がみえる。  僕はしばらくじっとしていた。決心がつくまでどのくらいかかっただろう。やっと服を着て、靴を履き、船長の外套のボタンを留めた。よみがえった魔力のおかげで暗闇でも困らなかった。  今すぐこの館から逃げ出さなければならない。

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