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【第2部 星々の網目にて】18.明けの星
「だからあんたはろくでなしの耄碌じじいだといってるんだ」
「なんだって? 聞こえないぞ。なにしろ耄碌しているからな」
手綱を握ったハミルトンが背後の声に吹き出している。
「やれやれ、お元気なことだ。馬車でなくてもよかったかもしれませんね」
「たしかに、俺もアルベルト師が馬車で旅に出るのをみたことがない。騎士の馬にも平気で乗りそうだ」
クルトはハミルトンの横に座り、正面をみつめたまま答えた。
「しかしあの人は変な風に目立つからな。偽装は間違ってないさ。――にしても、学問が趣味で、お忍びで友人を訪ねあるく貴族のご隠居だって?」
「突飛に聞こえるかもしれませんが、実在するんですよ。お借りしました」
ハミルトンは真顔でそういった。
しかしレナード・ニールスの家令は主人に負けず海千山千で、どこまでが真実でどこからが冗談なのかは顔を見ただけではわからなかっただろう。クルトも探ろうとは思わなかった。今の自分の能力ならたやすいと知っていたが、ハミルトンはそれ以前に信頼のおける人物だ。
というわけで、クルトはうなずく。
「いや、正しい判断だろう。サージュにも必要だった」
するとハミルトンは今度こそ懸念の表情を浮かべる。
「彼、山越えは大丈夫ですかね? 馬で行くしかないんですが」
クルトはまたうなずいた。
「俺がどうにかするさ。でも山地に向いた馬を調達しないとな」
「任せてください。心当たりがあります」
王都を出た一行は北の国境に近づいていた。雪の少ない王国でもこのあたりはうっすらと積雪がある。山地の手前の宿に到着した四人は、引退した貴族の老人 、付き添い兼御者 、同行の治療師 そして従者兼護衛 という役どころである。
まるで茶番劇だが、人目に立つ者が複数いる以上は下手に商人などに偽装するよりはこの方がよいというのがハミルトンの言い分だった。特権を誇示する通行手形と合わせれば隠居貴族の奇矯なふるまいも「貴族らしい」として看過される。
宿の続き部屋に落ちつくとハミルトンは夕食には戻るといい残して出ていき、アルベルトはさっさと荷物を開けたが、サージュはクルトの横の寝台に長々と寝そべった。あとで彼を診なければ、とクルトは心に留めた。夜明け前に発ち、国境を超えるつもりでいた。一方、ハミルトンはアルベルトの観測装置を使ってこのあたりでやりたいことがあるらしい。
そういえばこの老学者にたずねたいことがあった。
「アルベルト師。古代の言語には詳しいですか?」
「そこそこな」
ケッと呆れたような音が響いた。寝台からはみ出したサージュの足が動く。
「ヴェイユ師から気になることを聞きました。なんでも古代語の一部は『歌』――歌われるものだったという話なんですが、ご存知ですか?」
「ああ。多少はな」
アルベルトはクルトをみつめ、顎をかいた。
「精霊魔術師の多くは魔力を言語ではなく直観像として行使する。回路魔術師は魔力を回路という眼にみえる形に変形して制御する。古代の呪文の魔術は魔力を音によって制御した――と思われる。それは今の我々の耳には『歌』に聴こえる――のかもしれん」
「かも?」
聞き返したが、アルベルトは荷物にかがみこみ、ごそごそと何かを探している。
「問題は失われた言語の音は推測によってしか補えないということだ。生まれたばかりの赤ん坊は驚くほどいろいろな音が出せるのに、ひとつの言葉を覚えたとたんにそれまで出せた音を出せなくなる。我々は言語で身体を整えられてしまう……」
話しながら老学者は紙の束を取り出した。
「多少は手がかりになるかもしれん」
「汚い字だ」
サージュがうしろからのぞきこんでいた。
「あんたまだこれを持ち歩いていたのか。『自然のしなやかな鏡』」
「汚い字もおまえには読めるだろう。北への道中でクルトに説明してやれ」
サージュは嫌そうに顔をしかめたが、何もいわずに草稿をめくっている。アルベルトはそんな彼の様子をみてニヤニヤしていた。クルトには奇妙に感じられる師弟関係だったが、ふたりのあいだになんらかの絆が――クルトには理解しがたい感情が強力に流れているのは察した。
翌朝暗いうちにクルトとサージュはひっそりと出発した。ハミルトンが調達した馬は小柄だが足が太く、見た目の鈍重さに反して機敏に歩いた。
街道を離れたふたりがたどったのは、山地の奥へ入りこむ、獣が踏みならした道だった。もっともクルトの眼にその道はくっきりとみえていたし、馬も道を知っていた。だが雪は奥へ進むうちに深くなり、ハミルトンの助言で装備を整えていたとはいえ、乾いた場所をみつけるのに骨が折れた。天候が安定していたのはもっけの幸いだった。
野営しながら山地を抜けるあいだ、サージュはほとんど喋らなかった。彼がまたがる馬の方がクルトと心を通じあわせているように感じたほどだ。とはいえサージュはクルトよりよほど旅慣れた男だった。道を行くためにクルトと話をする必要を感じていないのかもしれない。
とはいえクルトは治療師だった。サージュ本人は不調を口にしなくても、火の前でじっとしている彼の体はクルトの眼と耳に不協和を発している。思わず肩に手をかけると、しわがれた声が不機嫌に「なんだ」といった。
「手を出せ。診る」
「いらん」
「あのなあ」
クルトは苛々しながら言葉をつないだ。
「おまえがよくても俺はよくない。肝心なところにたどりつくまえに倒れたら困る。陸がつながっているのならいいが、ソールがいるのは島だ。海の中まで俺の魔力は届かない。だから連れてきたんだ」
「精霊魔術の盲点だな」
サージュは嫌味な調子でつぶやいた。
「おかげで、海を浮遊していた古代都市の魔術はその後の時代にほとんど残らなかった」
クルトはかまわずにサージュの手を握った。彼の体内を精査にかかる。
「まったく、どうしてこんなにおまえの体はぼろきれみたいになっているんだ?」
つぶやくとサージュもまたひとりごとのように「あきらめろ」といった。
「俺は源を削りとられている。どうせ長くない」
「魔力の根源を? どうしてだ」
「レイコフだ」サージュは顔をしかめた。
「あの島の洞窟には他所には生えない苔がある。その苔に棲む虫が分泌する液には……強力な作用がある」
「作用?」
「この世で最高の魔力増幅薬だ。あれ以上のものは存在しない」
サージュの眼の焦点がぼやけていく。夢をみているような不明瞭な口調になった。
「離れてから……いろいろ試した。無駄だ。いつも――渇望が残って」
「おい!」クルトの腹の中がかっと煮えたぎる。「おまえはそんなところへソールを送ったのか?」
サージュはぼんやりした眼つきでクルトをみた。
「ソールは問題ない」
「何をいってる――」
「〈本〉は彼の中にあるんだろう。レイコフは彼を大事にするさ」
サージュは眼を閉じた。眠ってしまったかにみえた。クルトは苛々と彼を揺らした。
「おい、寝るな。俺に教えてくれ」
「何を?」
「古代語の話だ。アルベルトがおまえに草稿を渡していたじゃないか。歌――それに発音とか……」
「ああ、あれか」
サージュは眼をあけ、疲れたため息をついた。
「まったくあのじじいときたら、余計なことをしやがって」
「最初に余計なことをしたのはおまえだ、サージュ」
クルトは長身の男を睨みつけた。「おまえがソールを――」
「そうか?」サージュは唇のはしをゆがめて笑った。
「そもそもソールが〈本〉に手を出さなければ何も始まらなかったんじゃないのか? 彼は小さな王国の魔術師になって、学院の奥で研究に明け暮れていただろうさ。そんなソールにおまえが興味を持ったかどうかも怪しいもん――」
サージュの喉がぴくぴくと動いた。クルトは反射的に魔力の触手をのばし、彼の喉を絞めていたのだ。サージュは喉をさすって咳きこんだが、こんなありさまでも皮肉な笑みを消さなかった。
「おいおい、いま俺を殺すと困るんだろ?」
クルトはこわばった声でいった。
「そのつもりはない。俺は殺さない。俺は――治療師だ」
サージュは体を起こした。
「ずっと殺さずにすむといいな。まあいい。古代語の話をしよう」
山地を超えると北方連合の南端の領に出る。ずっと昔は大小の独立した国々だった北方連合は、五世代前から今の女王を生んだ王家のもとに従属し、統治されている。クルトが目指す島は王領に近い巨大な内海に浮かんでいる。そこには小さな島が点在し、商船が行き来していた。広大な内海を含む地形では、陸を回るのは時間がかかる。おまけに陸地の一部はすでに雪で凍っていた。
クルトは若い裕福な商人の息子に偽装していた。樹皮から抽出した香料――かさばらないのに高価なもの――を元手に毛皮や北の奢侈品を買付け、いつか父を継ぐための見聞を広める、といった調子である。ソールと暮らしていた隣国の海とこの内海では気候も人々の雰囲気もちがったが、サージュは物慣れた様子で歩いていった。
山地を抜けてからサージュは急に落ち着いて、嫌味な口調は変わらないまでも、クルトの目的に従うようになっていた。首に巻かれた輪のおかげでサージュはクルトから逃げることも離れることもできなかった。だからついに観念して、ソールを助けるというクルトの目的を受け入れたのかもしれない。
夜になるとサージュはアルベルトの草稿を広げ、クルトに古代語について説明したが、その口調にはどこかソールを連想させるところがあった。ソールほどではないのかもしれないが、サージュの博識もなかなかのものだった。
内海でいちばん大きな港を有する都市にふたりは何日か滞在し、サージュはクルトの従者として付き添いながらレイコフの島へ向かう商船を探していた。領主は毎回大量の物資を買い付けているという。サージュが出航間近と聞きこんできた商船にはワインや塗料からぼろ布まで積まれていた。
「せっかくの機会だから島へ行きたい? だがねえ……」
年配の商人は船倉に余裕がないと渋った。実際は競争相手を増やしたくないのである。
クルトはひそかに彼の心に介入し、この二人連れが島へ渡ろうが渡るまいが、彼の不利益にはならないと信じこませた。船賃を受け取って若者を乗せるだけのこと、そう思いこませるのは簡単だった。
商人の心には積荷の価値や、取引が終了したあとの予定や、故郷に残した家族への思いがごっちゃになっていた。かすかな不安もうっすらとかぶさっている。港では略奪の噂がささやかれていた。この船は新しくはなく、積荷のおかげで足も遅い。海上で襲われるとひとたまりもなかった。
船旅はのんびりしたものだった。商人の不安は杞憂にすぎなかったのかもしれない。
ほとんどの時間を船倉に引っこんですごしたものの、クルトは何度か乗組員に取り入り、島の住民や領主の噂を集めた。もっとも成果ははかばかしくなかった。たいして大きな島でもないのに皆ろくな情報を持っていない上、乗組員にとっては楽しみのない場所らしい。
船倉にいた理由のひとつはサージュの様子がまたおかしくなったからでもあった。口数が少なくなり、苦痛をこらえているのが明らかだったので、クルトは彼にかけた魔力の拘束をゆるめたが、それでも楽になったようにはみえない。そもそも魔力の拘束そのものは、彼に苦痛を与えるようなものではない。
島がすぐそこまで近づいた朝、やっと空が白んだころに、うめき声を聞いてクルトは目覚めた。サージュは体を硬直させ、ほとんど白目のなくなった漆黒の眸で空中をみていた。
「サージュ? どうした?」
ふいに耳を割らんばかりの銅鑼の音が鳴り響いた。
「敵襲ー! 敵襲!」
大声で乗組員が叫んでいる。クルトは小さな窓から外をみつめ、接近する舟の列を眼にした。色とりどりの服を着た男たち――女たちが武器をかまえ、甲板を狙っている。
「サージュ。しっかりしろ」
クルトはサージュを抱え起こした。眸は動かず、唇から唾液が糸を引いている。壁にもたれさせたとき、叫び声をあげながら船倉に何者かが押し入った。クルトはサージュをひっぱりあげると積み上げられた荷物の影におしこんだ。
「積荷を台無しにするなよ!」
誰かが叫んでいる。陽気な響きだった。
「全部持って帰るからな!」
そのときだった。突然強大な魔力のうなりがクルトの耳に響いた。奇妙な音色がいくつか混じりあって頭の中に直接響く。これまで経験したことのないような、外部から押し寄せてくる魔力の渦が船倉でくるくる回る。
クルトは積荷の影からその渦をみつめ、息をのんだ。魔力が靄のように消失したあとから武装した男が五人、あらわれたからだ。膝までの黒い長い上着は薄暗い船倉にとけこんでみえる。
船倉に押し入った襲撃者のひとりが「ひっ」と息をもらした。男のひとりの手から何かが飛び、胸に深く刺さったのだ。別の襲撃者が叫んだ。
「館の連中だ! 戦え!」
たちまちあたりは混戦となった。クルトはわけもわからないまま、動かないサージュの顔を叩いた。この混乱を抜けて島へ上陸しなければならない。船のすぐ横で襲撃者の舟がゆらゆらと揺れていた。突然現れた武装した男たちは船を襲った者へ応戦している。どうやって海上の船へあらわれたのか見当もつかないが、戦いは甲板へ移ったようだ。
「サージュ。起きろ。しっかりしろ」
魔力を補おうとサージュの手首を握ったとき、圧倒的に強い力で後ろから肩をつかまれた。クルトは体をひねり、背後からのしかかった誰かを突き飛ばし、走った。耳元をぶん、と何かが鳴った。剣の音だ。甲板へ続く階段へ向かいながらクルトは頭をかがめ、相手を心の眼でつらぬき、その体をつくる筋肉を視てとった。腱を捻ると悲鳴とともに物が倒れる音が響き、どっと崩れる。息をつく間もなく、ななめうしろから伸びた腕がクルトの首をしめあげた。その手首の腱を念じて捻り、踵を思い切りうしろに振る。そのままサージュのいたはずの場所へと走り戻る。なのに積荷のあいだに彼の姿がない。
「サージュ! どこだ?」
足元に倒れている人間につまづきそうになった。サージュの気配を探ろうとしてクルトは混乱した。またあの魔力の渦が船内にあふれ、おかしな和音が鳴り響く。眼前に立った黒服の男を突き飛ばしてクルトは甲板へと走った。船を最初に襲った者たちの一部は黒服の男たちと戦い、べつの一部は船体に寄せた舟に物資を運び出している。騎士を思わせる臙脂色の服を着た女が高所からクルトをみつめ、叫んだ。
「そいつはこの船のやつか? 館の連中じゃない」
クルトはふりかえった。ふたたび魔力の渦を感じた。女のうしろに黒い影が立つ。
「危ない!」
なぜ声を発したのか自分でもわからなかった。誰が敵で味方なのかさっぱりわからないありさまで、ただ衝動に従っただけだ。ふいに途方もない力で横からひっぱられた。
「あんた、こっちへ乗れ」
あっと思う間もなく体が宙に舞った。甲板から放り投げられたのだと理解したときはもう遅かった。クルトは大きく水に沈み、一度だけ水面をはるか上に見て、もがきながら上昇した。しぶきをあげて顔を海風にさらしたとたん、長い腕が伸びてきた。そのまま小さな舟に引きずりあげられる。
濡れた服から水がしたたり落ちた。商船が遠くへ離れていく。横にならんだ何艘もの舟には物資が山と積まれていた。すさまじい速さで島の影を回っていく。
すぐ隣の舟には甲板に立っていた臙脂の服の女がいた。クルトが乗せられた舟の舳先にいる大男に「まあまあの戦果だな」と声をかける。
「急ぎましょう」
「ああ」
水しぶきがあがり、進むのがあきらかに速くなった。この舟は回路魔術で動いているのだろうか。状況をつかめないままクルトは頭を振り、ついではっとして叫んだ。
「サージュは? 俺の連れはどうなった?」
誰も答えなかった。一列に並んだ舟は水中から突き出した岩山の横をジグザグに抜けて進んだ。前方に崖が迫ってもまっすぐに進んでいく。クルトはまばたきもせずみつめていた。岩にぶつかると思ったとき、眼前にまっすぐな水路がひらけた。
舟の列はいつのまにか、岩の壁のように偽装された障壁のあいだをくぐり抜けている。先に岸辺へついた舟から順に荷が揚げられていた。黒い穴のような四角い戸口がひらいている。白い影が内部の暗がりで揺れた。クルトは眼を見開いた。
「おい、おまえはそのまま……」
クルトの舟が岸辺に近づくと同時に大男が手を伸ばしてきたが、彼に応じたクルトの動きは反射的なものだった。男の手を魔力ではじきかえし、舟から飛び降り、水を蹴って走り出す。叫ぶ人や物資をかつぐ人をおしのけながら走った。
なぜならたしかに視えたし、感じていたからだ。あれは何年も前に一度だけ――一度だけ受け取ったのと同じもの、同じ色をした魔力だ。
『ソール!』
視野のかなたで白い影が揺れた。クルトはぽっかりと開いた暗い穴の中へ走りこんだ。
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