51 / 72

【第2部 星々の網目にて】19.宵の星

(ソール。正しい音で歌え。〈本〉を――僕を解放しろ)  目覚める直前、またランダウの声が聞こえていた。僕は汗びっしょりで体を起こした。手のひらで磨いた岩のなめらかな表面をなぞり、明かりをつける。回路魔術の装置を簡単に操作できるのはいまだに不思議な気分だった。安全な場所にいるとわかってほっとする。壁は土と灰の色で、寝台は固く、上掛けは粗末だ。それでもここはレイコフの館ではない。  深呼吸して魔力の感覚を呼びおこす。部屋の内側から壁の外へゆっくり知覚の範囲を広げていく。ここはモードと彼女の仲間が『基地』と呼ぶ場所のひとつだ。この島をつくる岩盤の裂け目のいたるところに伸びひろがる天然の洞窟を利用し、長い年月をかけて作り上げられた巨大な巣。レイコフの港のように巨大な空間はないが、細く長い通路が島じゅうを繋いでいる。僕が散歩の途中で迷いこんだ洞窟もそのひとつだ。  ずっと昔は貯蔵庫として使われていた場所をモードたちはひそかに改造し、レイコフに抵抗する拠点を増やしていったという。彼らの多くは川ぞいの製紙所や館の地下で働いている。 『基地』の通路は狭く入り組んでいる。魔力が回復していなければあっという間に迷子になってしまいそうな場所だ。『基地』の地図はひんぱんに変わると、モードは僕をここへ連れてきた時にいった。 「なぜですか?」 「レイコフの手下が発見した洞窟は埋めて、迂回通路をつくるからね。彼の魔術の部品を埋めて精査した場所にあいつは追手をんだ。それを避けるため」 「飛ばせるというのは、彼の魔術を使って……?」 「ああ。降ってきたように追手があらわれる。者は前兆に妙な音を聴く」  そういってモードは自分の頭を軽く叩いたのだった。  僕は立ち上がり、部屋の外に出た。随所に補強のある洞窟の通路をぬけて水場へ行き、用を足す。近くにいる人々の気分の揺らぎが感覚に触れてくる。子供の頃から慣れ親しんだはずの感覚だが、十数年の空白を経た今は新鮮すぎる。  僕はかつての訓練を思い出し、心から雑音をしめだした。魔力が回復しているのなら気をつけろ、とモードはいった。 「レイコフは島じゅうに細かな網を張っている。魔力の多い者が彼の網にかかると、捕らえられて喰われる」  ――喰われる。  モードはレイコフの魔術につながれ、彼の『機械』に魔力を供給することをそう呼んだ。  彼女に発見されたのは僕が館から逃亡して丸一日経った夜のことだ。まだ暗いうちに僕は必死に移動し、館からできるだけ離れようとした。人間の気配を避けようとした僕にとって、湖を囲む森をめざしたのは自然な流れだった。しかし当初の興奮が冷めると、食料のひとつも持たずに飛び出した愚かさを悔やむことになった。  それでもあの館でランダウの声を――夜の夢でも白昼夢でも――聞くよりはましだった。森を歩いているあいだは周囲に注意を払うのに必死で、何ひとつ考えずにすんだからでもある。森では沢の水はみつかったが、食べるものはなかった。途中で何度か木の根にもたれてうとうとしたが、夜にはついに湖のほとりへ出た。  方角的には海ではなく島の内側に向かっていたわけだが、湖からは川が流れているはずだ。川はいつか海につながる。そこからどうするべきか。ときおり心を落ちつけて館の方向へ注意を集中する。時間がたつにしたがって、館の方向から慌ただしい叫びのような感情が放たれるようになった。僕を探しているのかもしれない。彼らはここまで来るだろうか? どうやっても島から出られないのなら、単にしらみつぶしに探せばいいだけだ。  逃亡は衝動的でやみくもなものだった。僕はここで自分の愚かしさとまた向き合わなければならなかった。生理的欲求――空腹と睡眠だ。どこかでまとまった休息をとらなくては。  僕は湖に沿って森を歩きながら、おだやかな感情を放射する人々を探した。一日を終えてほっとして、安らいでいる人や、家族や仲間と一緒にいて安心している人の心だ。ともしびのように光るほのかに暖かいそれらの感情をたどって、小さな沢を下っていった。  空腹で鼻が鋭くなっていた。どこからか煮炊きをする煙の匂いが漂ってくる。ほっとしたとき、歌が聞こえてきた。  僕はぎょっとしてたちどまり、とっさに太い木の幹に隠れ、歌の聞こえる方向をのぞいた。男が三人、その後に女が二人、道を歩いてくる。歌っているのは男たちで、女たちはそのあとを笑いながらついていく。男のひとりが膝を叩いて拍子をとっている。歌詞の意味がわからなかった。この土地の古い言葉なのだろうか。  突然背後に人の気配が立った。僕は思わずひっと声をあげたが、たちまち手のひらで口を塞がれた。 「ここにいたか」  耳元で聞き覚えのある声がささやいた。僕は首をねじった。モードだった。 「心を落ちつけろ。館の犬がうるさくてな。あんたがいなくなったと大騒ぎだ」  それから毎日、僕はモードたちの『基地』の洞窟を移動している。  眠る場所を変えるのはレイコフに捕捉されないためだとモードはいった。長い距離を歩くこともあればほんの数分の場合もある。僕を案内するのはいつもモードだが、他の仲間たちとも顔を合わせることになった。『はぐれ星』の船長はいなかった。  洞窟には地図も目印もなかったが、島のどこを歩いているのかわかったのは回復した魔力のおかげだ。洞窟にいる人々の位置を把握し、どの道がどう通じているのかをすこしずつ覚えた。  昼間はすることがなかった。暇だというとモードは符号と数字がびっしり書かれた紙を持ってきて、計算してくれといった。符号が何を表しているのかはわからなかったが、単純な足し算でよいらしい。店の帳簿づけよりずっと簡単だった。終わったというとモードは嬉しそうな顔をして、さらに紙を持ってきた。  眠る場所はいつも似たような部屋だった。寝台がひとつかふたつあり、水場が近くにある。毎日誰かが食事を持ってきてくれた。物資は基地のあちこちに分けて貯めてあるようだ。僕の注意を引いたのは、ちらりとみえた高価なワインや武器のたぐいだった。彼らはどこでこれを手に入れるのだろう?  森の中では聞こえなかったランダウの声は、モードの基地でまた聞こえるようになった。自分を解放しろと頭の中でしつこくささやきかけるのだ。同じ言葉のくりかえしで、同じ夢もくりかえされた。  ただし夢の中のランダウはどんどん――不安なほど――大きくなっていた。毎度ふくらんで巨大になり、僕の視界をふさいでくるのだ。もはや友人ではなく、怪物のように。  夢をみているあいだは恐ろしくなかった。目覚めて思い出すとたちまち怖くなる。〈本〉の封印を解かないかぎり僕はずっとこの夢とランダウの声に悩まされるのか? しかし封印を解いたら、あの怪物のようなランダウは……  僕は冷たい水で手と顔を洗い、髪をなでつけた。今日はそうする間もざわざわと、この近くにいる人々の浮足立った感情が触れてくる。何かを待っている、期待している気分がみなぎっているが、僕には誰も何もいわない。 「朝飯だ」  昨日ここに移動した直後に会った大男がパンとスープの椀を渡してくれた。 「今日は多少騒がしくなるが、おとなしくしていてくれ」 「モードは? 何かやれることがあれば……」 「いや。今日は黙って引っこんでいるのがあんたの仕事だ」  僕は食べ物をもっておとなしく部屋へ引き下がった。  昨日遅く移動したこの場所は、館を島の正面とすると裏側にあたる位置で、海が近かった。夜中にモードの仲間が「いいものがあるぞ」というのでついていくと、岩のあいだに湯が湧きだしていた。裸になった男たちはみな日焼けしてたくましく、僕はいささかきまりわるかったが、すすめられるまま彼らにまじって湯につかった。  数日ぶりに体を洗ってくつろいだ気分になったが、先に湯を出て岩陰で着替え、何気なく彼らの話に耳を澄ませたとき、一気に緊張が戻ってきた。 「次の船は明日か?」 「ああ。朝早く」 「館は物資が目減りすることをどう思っているんだろうな」 「最近の塔主は本土へのごきげん伺いが多いだろう。島を女王から賜ったといっても、やつに不満をもってる連中はたくさんいるさ。王領が潤うわけでもないから王族にだって不満はある。ただあの機械が……」 「あれさえ壊せば中の連中だってこっちの味方に……」 「モードはまだ『時』じゃないといってる。ただの海賊も悪くないけどな」  ハハハ、と笑う声が響く。僕は『基地』のそこかしこに備蓄された物資を思い起こし、ひそかに納得した。あれは商人から略奪したものなのだ。彼らは「次の船」も狙うのだろう。  魔力が回復すると、時を刻む一日の感覚も戻ってくる。生き物たちが目覚めて眠るときに生み出される〈力のみち〉のリズムを感じられるようになるからだ。洞窟の中にいてもその脈動は僕の体に響いている。地上の風、海の波、あらゆるところに魔力の輝きが霞となってきらめいている。  これなしで僕はいったいどうやって生きていたのだろう? そう思うと胸の底がしめつけられた。もしまたこれを失くしたら、僕はいったいどうなるだろう?  人々のざわついた気配が遠くへ消えた。モードとその仲間がどんなつもりで僕をかくまっているのか、いまだに僕にはわからなかった。モードと知り合いらしい『はぐれ星』の船長にはあれ以来会っていない。彼がとりなしてくれたおかげで、モードは僕がレイコフの捕虜だったと理解しているはずだ。  彼女は魔術師ではないが、めったにあらわれない『予知』の才を持っているらしい。そんなモードは僕を敵だとは思っていないようだが、仲間だとも思っていない。  彼女は〈本〉のことは知らないだろう。知ったら僕をどうするだろうか?  落ちつかない気持ちで僕は狭い部屋を行ったり来たりした。商船の略奪にはどのくらいの時間がかかるのか。彼らのことだ、略奪が終わればすぐに人も物資も移動させるにちがいない。物資の一部はレイコフの作業場できつい労働をしている者たちに配られ、一部は備蓄される。僕にできることはなんだろうか。彼らの反乱の隙をみて逃げ出す?  レイコフは彼らの略奪行為を黙ってみているのだろうか。僕は不思議に思った。海の上だから手が出せないというわけか?  遠くで音が鳴った。  嫌な音だった。調和しない音程と音色が重なっている。レイコフが僕に『措置』をした、あの館の部屋で聞いた音に似ている。レイコフの魔術機械から響く音だ。 (降ってきたように追手があらわれる。者は前兆に妙な音を聴く)  僕はモードの言葉を思い出した。ひょっとしてこの音がその前兆なのだろうか。追手はここにあらわれるのか? それにしてもずいぶん遠いし、方角は海のあたりだ。  不安がきざして、いてもたってもいられなくなった。僕は部屋を飛び出すと暗い通路を小走りに進んだ。分岐を右、左、何段か上に、そしてまっすぐ。進むうちに人々の感情の切れ端がひっかかってくる。不安、高揚、驚き、満足と警戒。  僕は足をとめた。何か聞こえる。  楽音のようだった。さっき部屋の中で聞こえたような不安を誘う和音ではない。艶のある輝かしい音、どこか懐かしくて胸がしめつけられるような音だ。  知らぬ間に足がふらふらと前に出た。細いまっすぐな通路の先から海風が吹きこんだ。笛のような音が鳴り響く。楽音はその笛と合奏するかのように響きわたり、歌になった。金色の光が矢のようにこちらへ向かってくる。 『ソール!』  頭の中に声が響き、僕はその場に射止められたように立ち尽くした。金色の光の真ん中に草の緑がきらめく。光は僕の方へ突進し、僕を包みこみ、そしてクルトの顔になった。  乱れた栗色の髪のしたで緑の眸が僕をみつめる。僕の背中を抱く腕を感じ、胸に押しつけられる重みを感じる。潮の香りをまとった髪が僕の頬を撫で、頬と頬がふれあった。  僕は無言で彼をみつめていた。眼にしているものが信じられない。 『ソール』  頭蓋に響くのはクルトの声だ。彼と知り合って何年も焦がれていた――彼の心から直接発せられる声。この耳で何度も聞いた声と似ていて、すこしちがった。艶やかな色あいと幅をもった響き。  あごに手がかかり、唇が重ねられた。嫌も応もなかった。上唇を軽く噛まれ、舌が僕を溶かすように舐める。触れられたとたんに僕の体はやわらかくゆるみ、蕩けてしまう。舌に歯のあいだをなぞられ、自然に口をあけていた。ふきかけられる熱い吐息に自分も舌をさしだして絡める。粘膜が触れあったとき、かすかに青い魔力の閃光が走った。 『みつけた……』  クルトの声は感じられるのに、僕は彼に念話を返せない。まだ信じられなかった。これは僕の頭が生み出した幻影ではないだろうか。レイコフの館で夢にみたように……。  クルトの唇は信じられないくらい甘く、僕の背中を抱きしめる腕も本物のようだ。これがまぼろしだとしたら、僕はほんとうに狂ってしまったにちがいない。クルトは治療師のローブではなく、商人が着るような毛織物の上下を身につけている。唇を強く吸われ、舌をさらに深く絡められる。かすかに麝香のような匂い――記憶にあるクルトの匂いが鼻腔を満たし、僕を酔わせた。僕はふるえる膝を彼の足に押しつけ、なめらかな上着をつかんだ。背中に回された手が腰にさがると、さらに強くかき抱かれた。 『ソール』  また頭の中でクルトの声が響き、僕はもう我慢できなかった。ほんとうに自分がおかしくなっていたとしてもかまわない。自分の内側の〈力のみち〉がクルトの方へ一直線に流れていくのを感じる。唇をむさぼりながら彼の首筋にすがりつく。 『クルト! きみ――どうして……』 「泣かないで」  耳に熱い吐息がかかり、鼻先が首筋におしつけられる。指が僕の顔をなぞり、涙とこぼれた唾液をぬぐいとった。 「ソール。俺は来たよ」

ともだちにシェアしよう!