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【第2部 星々の網目にて】20.魚の星

 砂色の髪が指に絡む。ソールの細い顎に触れ、肌をなぞるだけでクルトの中に喜びが満ちてくる。唇をあわせて彼の存在をたしかめる。舌がふれあったとたん、全身をつらぬくような衝撃がはしる。魔力――ソールの体内を循環する力がクルトへ引き寄せられ、重なりあう。ソールの魔力は砂の上をたゆたう波のようだった。透きとおった青がクルトの心にしみわたる。 「ご対面のところ申し訳ないが」  わざとらしい咳ばらいが響いた。クルトの背中で落ちついた女の声がして、とたんにソールが身じろぎし、クルトの腕をほどこうとする。  クルトは腕の力をゆるめたが、恋人を離しはしなかった。手をソールの腰に回したまま向き直る。臙脂色の騎士服を着た女が腕を組んで立っている。その後ろには商船を襲撃した男や女がならび、ふたりをみつめている。  臙脂の服の女は呆れたような、しかしどこか愉快そうな表情でクルトをみた。 「あんたはすこしようだ。まぶしい。控えてくれ」  ソールがあわてたように付け加えた。 「レイコフは独自の魔術機械を使ってる。探知しているんだ。みつかると……」 「なるほど」  クルトは眉をあげもしなかった。実際のところは、ソールと再会できた事実に夢中で自分が魔力を放散していたことに気づいてもいなかったのだが、指摘されて従わない理由はない。モードの表情がゆるんだが、それも一瞬のことだった。するどい声で周囲の人々へ「奥へ行け! 急いで」と指示を出すと、ソールに向かって「あんたも戻れ。どういうことか説明してもらおうか」と告げる。たちまち狭い通路に足音がこだました。 「ふうん。そっちの王国の重要人物が裏切者で、女王とレイコフに内通していたと。ソールがレイコフに選ばれたのは王家の機密を知っているから。つまりそれが『鍵』だな」 「鍵?」  クルトは聞き返した。モードと名乗った女はためらいなく答えた。 「噂話だ。この島の領主が長年探しつづけているもの。よその王家に関わるとはね」  舟から揚げた物資を運ぶ人々の列は慌ただしく、なのに整然として統率がとれていた。暗い通路は分岐が多く、道筋は複雑だ。作業場めいた趣のある多少広い空間を照らしているのは回路魔術の明かりである。クルトはソールの手を握ったまま、モードの真向かいに座っていた。彼女の隣にはクルトを舟にひっぱりあげた大男が座り、テーブルに肘をついた姿勢でクルトをみつめている。 「わが王国は現在北方連合と交渉中だ」クルトはさらりといった。 「北方連合の政府は王国の臣民が拉致されたことは知らぬ存ぜぬの一点張りだ。誰かが勝手にやったのだといってる。だから迎えに来た。ソールは俺と帰る」  半分ははったりで、というのはその「交渉」がどんな段階にあるのかクルトは知らないためだが、残りの半分はハミルトンを通じてレナードやレムニスケートに確認したことでもあった。つまりすべてが嘘というわけでもない。  モードはクルトとソールをかわるがわるみつめ、肩をすくめた。 「勝手に、ね。そういってのける者も政府にはいるだろうな。ここの領主は先代女王に賜った特権と財力で好き勝手やっている。逆にいえば一部の政府筋には嫌がられてもいる。ところで、あんたは我々のことをなんだと思ってる?」  ふた呼吸ほどクルトは思案した。 「領主に対抗する海賊だ」  モードの眼がきらめいた。 「我々はレイコフが来るよりはるか昔からこの島で暮らしていてね」 「あいにく、俺は古来からの自治権について、この国の方針は知らない」  モードはしたたかな笑みをうかべた。 「我々の考え方はこうだ。伝統的な自治権を無視して女王の特権を恣意的に使う『ならず者』はレイコフの方だ。だから我々は彼の物資を海上で確保している。我々の土地の利用料としてね。このごろは本土の政府とも交渉をはじめた。しかし状況はまだ有利とはいえない」 「それで?」 「カードはたくさんあるにこしたことはない。レイコフの『鍵』は強力な交渉カードになると思わないか?」  ソールが身動きした。「モード、僕は」  クルトはソールの手を握りしめた。まっすぐに女の眼をみつめて告げる。 「あなたはそんなことはしない。そうだろう?」 「どうしてそう思う?」 「ソールを盾にとる意味をあなたは理解していない」  モードは真顔でクルトをみつめた。息詰まるような長い一瞬のあと、女の頬がふっとゆるんだ。 「正しい使い方を知らない道具はいとも簡単に凶器になる。よくあることだ」 「ソールは道具じゃない」 「怒るな。もののたとえだ」  クルトはソールの手を握りなおした。手のひらはうっすらと汗ばんでいる。ソールの髪が首筋に触れる。こんな話をしていないで彼を抱きしめたかった。抱きしめて、もう安心していいと告げられたらどんなにいいか。  モードの頬がまたかすかにゆるみ、すばやく引き締まる。 「ではあんたの王国へこの件を貸しにできるかな」 「俺たちが無事に帰れなければ貸しもなにもない」  クルトはぶっきらぼうに告げる。魔力を使ってモードの心を変えてしまえ、という誘惑が一瞬うかんで消えた。もちろん精霊魔術の掟はそんな行いを禁じているが、理由はそれだけでもなかった。一団を率いる者の思考にうかつに介入するのは危険だった。状況が予想外の方向へ動き、結果として何もかもが悪い混乱に陥るかもしれない。  モードはクルトの答えを反芻するように口のなかで何事かをつぶやき、隣に座る大男と眼をみかわした。 「では帰れ。だが島を離れるには船が必要だ。はぐれ星の船長に交渉してみるんだな」 「はぐれ星?」  モードとソールが同時に答えた。 「お調子者の運び屋だ」 「僕を連れてきた船」  ということは、隣国の桟橋でみた船か。あの時のことを思い起こすと悔しさで胸がいっぱいになるが、これもソールが隣にいる今は不要な感情だとクルトは思い切る。 「その船はここにあるのか?」  モードはまた肩をすくめた。 「この島で修理している。船長は港にいる。ソールを贔屓しているからな、条件次第では運んでくれるさ。自分で探せ」 「それはどうも」 「あんたらの事情はわかったが、我々は常に逼迫しているんだ。今は急いで隠れなくてはならない。いつもの通りだ」  モードは両手を叩いた。音が洞窟に響きわたり、人々はいっせいに彼女を見た。 「準備がすんだ者から移動するぞ。今回は船上に塔の連中が現れた。これは初めてだ。用心しろ。方向は五ヵ所に分散、物資もだ。物資に塔主の機械がまぎれていないか気をつけろ。妙な金属はすべて取り外して置いていけ。点検が済んだ者から出発だ」  人々はうなずき、ざわざわと動き始めた。ソールが身じろぎした。 「モード。僕らは……」 「もちろん移動だ。私と行く」 「最後にしてくれないか」  モードは眼をむいた。 「なんだって? あんたは『鍵』だ。最初だよ」 「だからだ」  ソールはまっすぐにモードをみつめている。頬は白く、表情は硬い。 「レイコフは僕を狙っている。みんなと一緒でない方がいい」  クルトは思わず「ソール」と口を挟もうとし、モードはモードで「それは」と口にした。ソールは首をふった。 「クルトと話があるんだ。時間をくれないか。お願いだ」  ソールの片手はクルトの指を握りしめている。モードはふたりを交互にみて、小さく息をついた。 「仕方ない。つもる話がありそうだな」  岩の中に穿たれた部屋は狭く、寝台がふたつ並ぶとそれでもういっぱいだ。ソールは壁に手を触れる。回路魔術の明かりがともる。と、はっとしたようにクルトを見上げた。 「魔力が回復したね」  クルトはソールの言葉を待たずにいって、微笑んだ。ソールに寄り添って寝台に座る。 「すぐに気がついた。感じたんだ」 「レイコフの措置のせいだ」ソールはかすれた声でつぶやいた。 「最初は少しずつ……日に日に強くなっている。目覚めるたびに。でも〈本〉は……〈本〉は僕の中にある。僕はランダウを思い出した。〈本〉はまだ……閉じられている」 「そうか」  クルトは恋人の腰に腕をまわし、そっと背中をさすった。うなじの髪をかきわけた指が青と緑の髪留めに触れる。 「持っていてくれた」 「お守りらしいな」  ソールはうつむいたままくぐもった声を出す。語尾が震え、笑っているようにも泣いているようにも聞こえた。 「クルト、どうやってここまできたんだ? 内通者というのは……」 「ダーラム師だ。彼は俺が発つ直前にアピアン殿下の命で拘束された」 「ダーラム師?」ソールは眼をみひらいてクルトを凝視する。 「僕が知らないことがたくさんあるな」  ソールが連れ去られてから起きたことを知らせようとしても、まとめて話すのは困難だった。ここへ来るのにサージュの手を借りたとまで話したものの、クルトは我慢できなくなった。 「あとでゆっくり話す。ソール……」  まっすぐに自分をみつめる視線に、距離を縮める欲望をおさえられない。クルトの唇は勝手に恋人の唇をもとめて動いてしまう。ついばむように何度もソールの唇をはみ、押しつけて味わう。いつのまにか寝台にソールを押し倒して口づけを重ねていた。ソールは拒まず、クルトの首に腕をまわしてくる。 「何百回キスしても足りない」  指でソールの唇をなぞりながらクルトはささやいた。顎、耳へと唇を這わせる。腕のなかの体がびくりと震える。腰と腰が重なり、布越しにおたがいの欲望を感じた。舌で首筋をなぞるとソールの唇から熱い吐息があふれる。 「クルト……記憶が……」  切れ切れの声がもれた。 「防壁をとりさるための……レイコフの措置で……僕は大事なことを忘れてしまったかもしれない」 「ソール?」 「つながらないんだ……ところどころ。きみの――きみがいたはずの記憶が……」  クルトは顔をあげた。ソールのみひらいた眸から涙がこぼれおち、耳へとたれていく。 「僕は覚えていられればいいと思っていた。二度と会えなくても……なのに忘れるなんて」 「ソール」  クルトは恋人の髪を撫でた。 「いいんだ。俺はここにいる。ここにいるよ」  重なった体がどうしようもなく熱かった。みつめあった一瞬のあと、ふたりは同時に動いていた。もつれあいながら服を脱ぎ捨て、寝台の上で素裸になるまで、たいした時間はかからない。  クルトはソールの上にのしかかり、胸と胸を触れあわせた。堅くなった腰の中心を擦りあわせ、恋人の胸を唇でなぞる。片方の乳首を口に含んで舌でなぶると、たちまち尖って上を向いた。 「あ……ああっ」  恋人のせつない喘ぎを聞きながらクルトはへそからさらに下へ唇をずらしていく。たがいの中心が擦れるたびに尖端から濡れたしずくが垂れた。  肌と肌がふれあうゆるやかな快感を味わいながら、クルトはソールの足をもちあげる。唾液で濡らした指で後口をさぐるとソールは眼をつむったままかすかな声をあげる。 「ん……あ……クルト――」  少しずつ指をソールの中に侵入させながら、クルトはわずかに魔力の触手をのばし、固い筋肉をゆるめていった。ソールを覆っていた正体不明の防壁は消え、いまやたやすくクルトの魔力を受け入れる。クルトは指の数をふやし、さらに奥をさぐった。内側はやわらかくほぐれ、熱かった。 「あ……」  ソールが叫びを押し殺したのがわかった。もがくようにクルトを振り切って寝台の上にうつぶせになる。誘うように腰が揺れる。クルトはソールの背中にのしかかり、みずからの怒張を押しつけると一気に侵入した。 「ああ、あ、あ――」  ソールが声をもらすたびに胸の奥から愛しさがあふれる。クルトはたまらず腰を進め、もっと奥へとうちつけた。そのたびにソールの喘ぎは激しさを増す。 「だめ――あ、ああああ――ああん!」  体じゅうが熱を帯びていた。クルトはつながったままソールの前に手を回す。濡れたペニスを握って愛撫すると、熱くつながった部分がきゅっとしめつけられた。 「あっ……クルト――い―――」  その瞬間、恋人の内側から『力のみち』がクルトを引きこむように流れ出した。皮膚と皮膚、体と体が溶けあったような快感がわきあがり、クルトの全身を侵していく。思わずクルトも眼を閉じていた。魔力が自分とソールの中をくるくるとめぐり、高まっていく。 『ソール!』  果てる瞬間、心が勝手に彼の名を呼んだ。 「星々の網目……」  小さな声が響いた。  クルトはソールの背中を抱き、砂色の髪を細い束にほぐしていた。素肌にふれるのは恋人の皮膚と堅い寝台、それに粗い毛布だけだ。触れあう体のあちこちで魔力が脈を打っている。クルトは細く繊細な色をした髪を指にからめて、そっとのばす。不揃いな先端が飛び出していく。それをおいかけてまた指にからめながら「ん?」と聞き返す。  ぽつんと落ちた言葉はひとりごとのようだった。 「網にかかる魚は僕らだ。僕らは星の網にかかって……もがくだけ……」 「それは詩?」  ささやくと年上の男はかすかに首をふり、「いや……」とつぶやく。 「愛してる」  クルトは恋人のうなじに唇をつけてつぶやく。何度も同じことをつぶやいたはずだが、回数など問題ではなかった。これからもくりかえすだろう、何度でも。 「ソール、まずこの島を離れよう。急いで」  突然の衝動にかられ、クルトはささやいた。 「モードがいった船をみつけて船長を説得する。その先は――俺はソールが安全に暮らせる場所を探す」 「クルト」 「王国に戻らなくてもいい。〈本〉がどうなっていようが、ソールはソールだ。ふたりならどこにでも行ける。大陸に渡ってもいい。ソールが行きたかったところに行く。俺とふたりで。だから……」 「クルト」  静かな声に含まれた何かがクルトの言葉を止めた。ソールは身じろぎし、クルトの方へ向き直った。 「それではだめだ」 「ソール?」 「それでは同じことのくりかえしだ。それに……」 「ソール、でも――」  人差し指がすっとあがり、クルトの唇を封じた。思わず恋人の顔をのぞきこむ。ソールの暗い眸がクルトをみつめ、そらされた。一瞬そのまなざしの奥に葛藤が波立つのがみえた気がした。しかしふたたびクルトに戻された視線は、凪いだ夜の海のように穏やかだった。 「クルト。僕は〈本〉を破壊する」

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