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【第2部 星々の網目にて】21.揺籃星

 魔力を失うまえ、他人と肌をあわせるのがどんな感覚だったのか、僕はずっと忘れていた。  クルトの指と舌が僕を――唇、首筋、耳、胸、そして下腹をなぶり、指が僕の奥をまさぐる。舌が粘膜に触れると細胞のあいだを力が行き来し、僕の頭を快楽で刺激する。鼻腔はおおいかぶさるクルトの匂いでいっぱいだ。  クルトはゆっくりと僕の中に入ってくる。揺さぶられて弄られる快感に他のことはなにひとつ考えられない。もっと深くつながりたい。僕は泣きながら喘ぎ、クルトは声にならない言葉を聞き取ったように僕の奥まで甘くつらぬく。そうしながら僕の中心を握り、愛撫し、きゅっとしごく。  僕は一気に昇りつめ、ふわりと宙に投げ出された。  僕は空中を浮遊している。墜ちることもなくそのまま宙にとどまっている感覚に思わず眼をあける。夢で何度もみた光景が足元に広がっていた。はるか下に凍りついた海と空の浜辺がある。僕は中空に浮き、そのままふいに上昇する。凍った海も雲も空も僕の視界をたちまち離れ、真っ暗な星の海に投げ出される。  僕は星々がつくる光の模様のなかを漂う。星の光は硬くきらめき、信じられないほど美しく、そして寂しかった。手にとどくものは何もなく、自分に触れるものも何もない。星の輝きは僕を取り囲んだままゆっくりと動きはじめる。光の筋が網になり、僕はそのなかに捕らえられている。  そのとき何かの気配を感じた。僕へ近づこうとする星がある。いやあれは―― (ランダウ?)  僕は星々のあいだに浮かぶ友人の姿をみる。覚えているままの姿だ。学院の制服を着て、僕に向かって微笑む。とても寂しそうな微笑だ。たとえどれほど美しくても、こんなに暗くて冷たい場所にいれば無理もない。僕は彼にむかって手をのばすが、ランダウは星のあいだを跳躍して、後ろにさがる。 (ランダウ! 待てよ!)  ランダウはまた僕をみつめ、また笑う。今度は学院や寄宿舎で何度もみた微笑だ。眸がいたずらっぽくきらめき、ひとりで楽しんでいるように、僕をからかうように笑うのだ。 (なあ、ソール) (ラン、こっちに来いって)  僕はランダウがやったように星を踏み台にして跳躍する。光の網が僕の周囲でくるくるまわる。ランダウは僕と追いかけっこをするつもりらしい。僕の方へ顔をむけたまま後ろへと跳躍し、その両足は青白い小さな星に着地する。曲芸でもやっているみたいだ。僕の焦りをよそに彼は星を両腕にかかえ、ぽんと放り投げる。彼の頭上で星は輝きを増し、大きくなり、他の星を飲みこみ、赤くなる。 (ソール、もしも時が前と後ろ、同時に進んだらどうなると思う?) (ばか、こんなところで何をいってるんだ。学院じゃあるまいし)  とたんに僕は後悔する。ランダウは永遠に学生のままだ。学生の頃僕らはこんな話で果てしなく時を費やしたものだった。でもランダウは傷ついた様子でもない。落ちてきた赤い星を彼は両手でつかまえ、ボールのように持ち上げる。こちらへ投げつけてくるのかと思った僕は、思わず腰を落として身構える。しかしそれは騙し手(フェイント)だ。ランダウは笑いながら星をうしろへ放り投げた。  彼の背後へすっ飛んでいった赤い星は僕らを囲む大きな軌道を描き、まわりはじめる。回転しながらだんだん小さく、赤から橙へ、そして青へと色がかわり、やがて最初にランダウが抱えていたような小さな青白い星となる。それからもっと小さくなり、最後は暗い闇に溶けた。 (時を巻き戻せば星も消える、そうじゃないか? 前に進むものと後ろに進むものが出会ったら、どうなるんだろうな)  その時遠くでちかりと何かが光った。星の海の中に金色の光がさしこみ、あっという間に視界を覆いつくす。同時に呼び声が僕を覆う。 『ソール!』  僕はふたたび浮遊していた。星々のあいだではなく、金色の光と楽音があふれる暖かい波の中を漂っている。打ち寄せてくる甘い快楽に遠くへと運ばれて、その先に緑の眸をみる。  クルトの吐息が僕のうなじにあたる。彼の指が僕の顔のすぐそばで、髪の房をもてあそんでいる。毛先が僕の頬や耳をかすめるたび、僕はくすぐったさにびくっと震える。そのたびに僕を抱く腕に力がこめられる。  僕は無意識に星々の網目のことをつぶやいている。一瞬の幻影でみたランダウの顔と声を思い出す。あれはたしかに僕の友人のランダウだった。レイコフの措置以来あらわれた恐ろしいものではなく、かつての友人だった。  前に進むものと後ろに進むもの。ランダウの言葉を僕は反芻する。後ろに進む、か。昔ランダウは寄宿舎で、ゲームのあいだに似たようなことをいわなかったか。いや、ちがった。彼はこういったのだ。後ろ向きに歩こうが、前を向いて歩こうが、進む方向は同じ…… 「愛してる」  クルトが首のうしろでささやいた。彼のぬくもり、体の重み、腕の力、そして魔力を通じて伝わる愛情――すべてが僕をうっとりさせた。自分にこれほど豊かなものを受け取る資格があるなんて、とても信じられない。何かのまちがいにちがいない。なのにクルトはここにいる。 「ソール、まずこの島を離れよう。急いで」とクルトがいう。 「ふたりならどこにでも行ける。大陸に渡ってもいい。ソールが行きたかったところに行く。俺とふたりで。だから……」  クルトの声は甘かった。蜜よりも甘く、とほうもなく魅力的だった。彼と一緒にどこまでも行けたら、と思うと胸の奥がぎゅっと詰まった。書物でしか知らない世界の果てまで行けたら、どんなに素晴らしいだろう。〈本〉のこともランダウのことも王国のことも忘れて、好奇心のおもむくままに旅をして、どこかで暮らす。 「クルト」  僕は涙がせりあがってきそうなのをこらえ、彼に向き直る。 「それではだめだ」 「ソール?」 「それでは同じことのくりかえしだ。それに……」 「ソール、でも――」  クルトの眉がいぶかしげに寄せられる。ああ、僕はきみに大変なことを頼もうとしている、と僕は思う。きみはきいてくれるだろうか? それとも今度こそ僕に愛想をつかすだろうか? 「クルト。僕は〈本〉を破壊する」 「ソール……」  僕の腰を抱いていた腕が一度ほどかれ、また引き寄せられた。 「レイコフは僕の防壁を破壊した。同時に魔力も戻ってきて、僕は〈本〉を開いたときに亡くした友人のことを思い出した。彼はいま僕の中に棲んでいる。閉じられたままの〈本〉を持って」  クルトはうなずいた。冷えてきた背中を毛布の感触が覆った。 「でも僕のなかにいる友人――〈ランダウ〉は偽者なんだ。僕があの事故の時、死んだ友を生かしたい一心で自分の魔力を注いでつくった人形にすぎない。生きてもいないし、ほんとうのランダウですらない。僕はそんなものを作り、結果として自分を守った。友人を冒涜したようなものだ」 「ソール。そんなことは……」  クルトはそういったが、僕は首を振る。 「けれどその〈ランダウ〉は僕と〈本〉の狭間に立っている。僕が知るランダウの記憶を持ったまま、〈本〉から僕を隔てている。そして〈本〉は……」 「この世界の外にある、力の源への通路となる」  またクルトがいった。 「知っていたのか? 前に話した――?」  驚いた僕の髪をなだめるように、そっと暖かい手が撫でる。 「ヴェイユ師の仮説だ」 「ああ。レイコフも同じ結論だった。でも〈本〉はまだ閉じられていて、通路はふさがったままだ。レイコフは防壁さえなくなれば封印が勝手に解けると思っていたようだが、そんなことはなかった。特殊な手順が必要で――今の僕はその答えを知っていると思う。ただ封印を解くと僕は……」  クルトは静かに僕の眼をみていた。先をうながすように小首をかしげる。その仕草に勇気づけられて、僕は話を続ける。 「僕は、僕のなかの〈ランダウ〉に自分を奪われてしまうかもしれない。。そうなると僕は……きっと何か恐ろしいものになる。僕の中の〈ランダウ〉は張りぼてだ。生身の人間でもなければ中身もない。そんな存在がこの世の外にある力の源に触れたら、どうなると思う? だから僕は〈本〉を破壊しなければならない。僕の中にあるものを。たとえ無事にこの島を離れられたとしても、そうしなければ僕はいつか――いつか、きみを後悔させる。僕に……出会うのではなかったと」  クルトは黙っていた。僕の背中にかかる毛布を握りしめていた手が緩み、僕の背中にあてられる。僕は先を続けるのをためらったが、また口をひらいた。一度はじめた話をやめるわけにはいかない。 「封印を解く方法と同時に、破壊する方法の見当はつけてある。でもそのためには一度は封印を解かなければならない。だからクルト、きみに頼みがある」 「頼み?」  クルトがささやいた。優しい声だ。僕は眼を閉じた。 「僕が失敗したときは、僕を殺してくれ」

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