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【第2部 星々の網目にて】22.始原星
「〈本〉つまり『力の書』の由来は古代の海上浮遊都市だと伝えられている。なぜ古代都市が消滅したのか。通説は海底火山の噴火やその他の災害によるもの、という。だが都市を支えていた魔術それ自体が原因だと唱える学者もいた」
ソールは淡々と話をつづけた。
「その見解があまり取りざたされなかったのは、古代に使われていた魔術の詳細が失われたせいもある。現代的な見解では、海上の浮遊都市そのものもただの寓意、壮大さを表現するためのレトリックだという意見も多い。今の僕らからすれば、古代に使われていた魔術がどのようなものであったとしても、ひとの魔力で都市を動かすほどのことができるとは考えにくい。何といっても回路魔術が発明されるまで、生まれ持った魔力をなにがしかの用途に使えるのは一握りの人間にすぎなかった。しかしそう考えない者たちはいて、果ての塔のレイコフはそのひとりだ。僕はレイコフの著作を読み、彼の魔術機械をみた」
「それはどんなものなんだ? レイコフ自身の魔力を増幅するのか? モードはとても警戒しているようだ」
クルトの問いかけに、ソールは苦しそうに眉をひそめる。
「いや。あの機械は……僕らの精霊魔術や回路魔術とはちがう。人の魔力を吸い上げてまとめ、得た力をシンボルで操るんだ……レイコフは『力の書』が作られるまで、古代の魔術は奴隷を犠牲にしたと考えている。実際いまの彼のもとで動く魔術機械はそういったもので、だからモードたちは反逆している。あれはひとを生贄にする」
ソールは勇気を呼びおこそうとでもするかのように、すっと息を吸った。
「レイコフは僕に封印を解かせ、〈本〉に由来する無限の力を手に入れようとしている。彼は何もかも手に入れたいんだ、知識も、人を思うままにする力も。たとえ『力の書』自体が邪悪なものでないとしても、彼のような人間に利用させるわけにはいかない。だが封印を解いたあと〈本〉を破壊することに失敗したら、僕はいったいどうなるか、自信がない」
思わず言葉をはさもうとしたが、ソールはぎゅっと手首をつかんでくる。いったんはそらされた眸がまたクルトをみつめる。噛んで含めるようにゆっくりと言葉をつむぐ。
「僕が失敗したとしても、この体が消えれば〈本〉は行き場を失う。学院で燃えてしまうまで、〈本〉は紙という媒体を使ったシンボルの集合体だった。今は僕の体が紙の役割を果たしていて、僕の精神は……さしずめインクか何かだろう。僕が死ねば僕の中のシンボルも消滅するはずだ。もちろん僕が作り上げたランダウの人形も。これがとんでもない頼みなのはわかってる。でも、お願いできるのはきみだけだ。きみの力ならできる。僕が王国や――みんなにとって重荷となるまえにやってしまえる。だから……」
クルトは無言でソールの背中をかき抱いた。ふたつの考えが争っていた。たとえ何が起きようとそんなことは許されないと拒否する衝動的な思考と、もしソールの頼みを断ったらどうするのか、どうなるのか? という思考がせめぎあっていたのだ。
ソールの肌から不安が伝わってくる。こんなことじゃだめだ、とクルトは思う。俺はソールの守護者じゃなかったのか。
(勝利というものは、代償を払うとか、払わせるなどと考えなくてすむ状態へ、常に自分を置いておくことだ。逆に敗北とは、無茶な選択をせざるをえない事態そのものをさす)
ふいに脳裏に浮かんだのはアピアンの言葉だった。そうだ。こう考えていること自体が間違いだ。ソールはけっして譲らないだろう。一度思い決めたら最後、彼がどれだけ頑固になれるかクルトはよく知っている。
でも俺は負ける道を選ばない。
「わかった。失敗しなければいいんだな?」
できるだけ平然とした声でクルトはいった。
「大丈夫だ。ソールは失敗しない。俺が協力するから」
「クルト?」
「破壊する方法の見当はついたといっただろう? 教えてくれ。ソールに魔力が戻っているなら『探査』の要領で俺を受け入れられるはずだ。封印を解く場に俺も立ち会える」
ソールの顔が青ざめた。
「クルト、危険だ。きみにもしものことがあったら……」
「同じことだ。俺の力ならできるといったのはソールだろう。気づいているか? 俺の魔力も精霊魔術の技量も、最近また強力になった。ソールのおかげでたがが外れたらしい」
クルトはもう一度ソールを抱きしめ、あたりに散らばった服をさぐった。部屋の外からぴりぴりした気配が伝わってきたせいもあった。モードはふたりに時間をくれたが、永遠というわけではない。
「前から思っていたけど、ソールは時々馬鹿だ。わかってない」
クルトはシャツのボタンを留めながらつぶやいた。即座に抗議するような声があがる。
「なんだって?」
「俺が楽観的で脳天気な馬鹿だってことがわかってないといってる。ソール、俺はね、絶対に負けない」
恋人の頭がうつむき、砂色の髪が小刻みに揺れた。
「ソール?」
糸を引かれるように顔があがる。クルトをみつめる眸は濡れていて、くしゃくしゃにゆがんでいた。泣き笑いのようだった。
「クルト、きみはまったく……」
クルトは微笑んだ。「何?」
ソールは困ったような顔をして首をふる。
「何でもない」
「そう?」
「時間がない。〈本〉の封印の話をしよう」
「ランダウの名前が鍵なのはずっと前からわかっていた気がする。僕はずっと彼のことだけは何ひとつ思い出せなかった。今は何もかも思い出せる。僕はあの事故のとき、無意識のうちに彼の名前を鎖のようにして〈本〉の力と結びつけたんだ。僕の中に棲む『ランダウ』は解放されたがっているが、僕の表層意識が消えた時にしかあらわれないから、僕は彼と夢の中で話した。彼は答えを知っていたよ。僕が名前を呼べばいい。ただし古代語の正しい発音で……」
ソールは身支度をしながら部屋の外を気にしている。モードと仲間の気配はもうあまり感じない。クルトは慎重に感覚を拡げ、岩盤に作られた反逆者たちの拠点をさっとかすめて、恋人に注意を戻す。
「周知のように古代語というのは単に失われた言葉というだけでなく、今の人間には発声できない音を使うものだ。再現しようとするとそれは僕らにとって『話す』より『歌う』方がより近いかもしれない。むかし僕はかなり練習したが、あまりうまくはなら――」
ソールは学院の教師のような口調で話していたが、ふいに黙った。
「クルトはさすがに古代語の講義をとったことはないだろうな。普通の学生には不要なものだし……」
「講義はとってない。でも古代語の話は最近聞いた。たしかに喋るというよりも歌う感じだ。『海のことは海に問え』」
古代語のことわざを口ずさむとソールはぎょっとした顔で彼をみる。
「きみはいったい」
「ここに来る途中で、アルベルト師の草稿をもとにサージュに教えてもらった」
「きみは……はかり知れない男だな。おまけにサージュだって? そういえばここへ来るのに彼に手を借りたといったな。今はどこに?」
「あ――」
クルトは答えるのをためらった。今の今までサージュのことは完全に頭から抜け落ちていたのだ。
「死んでいなければ捕まったはずだ。俺と一緒に船倉にいた」
「なんだって?」
「騎士団が動くのを待っていられなくてサージュに案内させたんだ。モードが船を襲った後、やってきた連中と戦っているあいだに行方がわからなくなって、俺はここの連中へ海へ投げこまれて、それっきりだ」
ソールは頭をかかえ、髪をくしゃくしゃにする。
「生きているのなら助けないと」
「ソール?」
「レイコフは以前……サージュに無慈悲なことをしたようだ。彼がなんであれ、このまま放っておいては……」
「あいつのせいでソールはここにいるんだぞ?」
思わず呆れたような声を出してしまったのは否めない。しかし恋人は苦しそうに首を横にふる。
「それでも僕は彼を理解できるんだ。クルト、ひとの生は些細な選択で変わってしまう。僕は故郷で父に疎まれていて、学院へ行けたのはたまたまにすぎない。欲望だけを抱えて故郷でくすぶっていたとしたら、レイコフのような者に魅了されない自信はまったくない。僕は〈本〉のおかげでこんなことになるかわり、サージュになっていたかもしれない」
クルトとしては、ソールの共感は過剰にすぎるものだといいたかった。たとえどんな状況においてもひとがとらざるをえない選択はあり、サージュの選択にソールがつきあう必要はない。
とはいえクルトは治療師であり、サージュは自分の患者だった。どさくさの事態に乗じて患者を放置するのは気が咎める。
「わかった。サージュは俺が〈視て〉探す。封印を解くのはこの島でなくてもいいんだろう? まずはここを脱出して、安全な場所へ行く。とにかくモードに話そう」
クルトはソールの肩をもう一度抱きしめた。
「大丈夫だ。うまくいくさ」
並んで扉をあけて薄暗い通路を見渡した、まさにその時だった。全身を殴られるような感覚がクルトを襲った。
それが音だと気づくのに一瞬の間が必要だった。まるで痛みに等しい不協和音が響き渡る。ざらざらと体をそぎ落とすような音程と音色の衝撃のあとに、強力な魔力がその場に渦巻く。
「やつらが来た!」
通路のどこかで誰かが叫んでいる。押し寄せる力は竜巻のような空気の圧となってクルトを包んだ。思わず固く眼をつぶったが、本能は自身の魔力の源を動かし、自分を押しつぶそうとする力を跳ね返す。
魔力の網がぱっと広がり、激しい閃光がひらめいた。そばにいたはずのソールがみえない。彼はどこだ?
力の網目の隙間から恋人の魔力、透明な青がちらりと瞬く。そちらへ近寄ろうとしたのに、奇妙な空気の圧がクルトを阻んだ。それだけでなく霧のように魔力の視界を白くふさぐ。クルトの頭を困惑がよぎった。この妙な力は何なんだ? 魔力の触手を伸ばして力の来る場所をさぐろうとする。生身の人間が発するものならそいつを止めればいいだけだ。――なのに、この力の向こうには誰の気配もなかった。ただ膨大な虚無があり、その内部でカチカチと時計の針のようなリズムが響く。渾身の力をこめて伸ばした触手は行き場を失い、支えを外されたように戻ってくると、クルト自身が作った遮蔽に衝突する。
岩盤が崩れる恐ろしい音が鳴り響いた。
『クルト、危ないっ』
『どこだ、ソール』
たしかに念話を受け取ったのに、みえなかった。突然クルトを包む力の圧がゆるみ、視界を覆う霧が薄くなる。ソールの足が吊り下げられてでもいるようにぶらぶらと揺れている。そちらへ走り寄ろうとしたとき、足元から跳ね上がってくるような力を受けてクルトは後方へ跳ね飛ばされた。痛みと衝撃でぼうっとした頭の上に何かが振ってくる。かろうじて首を丸め、降ってくるものを避けた直後、今度は横から焼けるような痛みに薙ぎ払われた。
「そいつも連れていく。かなりの使い手だ。レイコフ様は喜ぶだろう」
動けずにいるクルトの上で誰かが喋っているが、よく見えない。そいつをつきとばしたいのにクルトの魔力の源はいうことをきかず、傷ついた自分の体を勝手に癒そうとしている。それじゃだめだ、とクルトは思う。俺よりもソールが先だ。なのにあの妙な力がまたクルトを包み、息が止まりそうなほどしめつけてきた。幕が下りたようにあたりが暗くなり、静かになった。
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