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【第2部 星々の網目にて】23.閃光星
僕は真っ白のなめらかな物体に締め上げられ、虚空へ宙づりにされていた。眼も口も白い伸び縮みする物体に覆われ、呼吸はできても頭は混乱に陥っている。回復したはずの魔力もすっかり役立たずで、外界の様子がわからない。パニックが忍び寄るのがわかる。また――と僕は思う、またあの状態に戻るのか。輝きも色彩もない灰色の世界に。恐怖が腹の底をよじのぼる。頭が足の上にあるのか下にあるのかもわからない、ふりまわされるような感覚が僕を襲う。
唐突に視界がひらけた。
不透明な白に眩しすぎる光がとってかわる。極彩色の斑点が瞬く。ずきずきと後頭部が痛む。斑点が次第にうすれ、ひとの顔になった。鮮烈な赤い髪、青い眼。ブラウだ。相手を認識できることに僕はほっとする。
「黙っていなくならないでください。探しましたよ」
ブラウは僕をしげしげとみつめたが、品物でも点検しているような眼つきだった。僕は自分が椅子に腰かけているのに気づいた。手はひじかけに固定されているし、足の底は地面にくっついているかのようだ。口に吸い口が突っ込まれ、甘い液体が喉に流れこむ。抵抗する間もなく僕は飲み干してしまう。
「ずいぶん時間を無駄にしてしまいました。レイコフ様がお待ちです。行きましょう」
ブラウが歩き出すと僕は椅子ごと敷物の上をすすむ。車いすだった。手と足だけでなく腰回りも固定されていた。どのくらい時間が経ったのだろう。クルトはどうなったのだろう。モードたちと一緒にいるのか。
館全体に魔術機械の不穏な唸りと和音が鳴り響いていた。館の外へ感覚をのばそうとしても、不快な障壁に阻まれてうまくいかない。昇降機に乗せられたとき、椅子を押している男がみえた。顔をみたことのある護衛だ。彼の心を探れないだろうか。
昇降機が止まり、僕は見覚えのある場所へと運ばれた。例の措置を受けた部屋だとすぐにわかったが、白い繭の寝椅子はみあたらず、繊細な彫刻をほどこしたテーブルセットが置かれていた。奥に据えられた魔術機械では金属の立方体がやすみなく動きつづけている。
テーブルのむこうでレイコフが立ち上がった。僕は体を揺らそうとするが、動かせたのは首と肩のあたりだけだった。しかも動かした拍子に頭がふわりとかしいでしまう。酔っているような感覚だった。
「今日の船で着いたものだ。あいにく物騒な虫がついていたが、良いものもたくさんある」
レイコフはたった今まで僕と話をしていたかのような口ぶりでそういった。僕が逃亡していたことも、車いすに縛られていることも、何の意味もなさないといわんばかりだ。
「ワインと果物。菓子もある。どうかね? ああ、給仕を呼んだ方がいいな」
僕は何かいおうとしたが、言葉が出てこない。ブラウが飲ませた液体のせいだ。どこからか濃い茶と白の服装の男があらわれる。椅子を押していた護衛の男は入口の脇に立って、ブラウが僕をテーブルまで運ぶ。レイコフはカットグラスのデカンタからワインをふたつの杯にそそぎ、蔦の模様で飾られた陶器の鉢を指さす。
「この果物は皮を剥いてすぐに食べなければ味がおちる。現地では礼儀作法など無視して、手を使うのが正しいとされているらしい」
給仕がすべるように動き、鉢から濃い紫色の外皮に覆われた実をとりあげた。テーブルの端で銀色のナイフが光った。レイコフは杯を僕の前に置く。ブラウが杯をとって僕の顔に近づけた。良い香りのするワインだが、僕は首をふる。
レイコフは給仕が切り分けた果物をつまんだ。紫の外皮の下は鮮血のような赤肉だ。
「むかし北は貧しかった。今はそうでもないが、貧しさの記憶は残っていて、南方に憧れを抱いているのだ。とはいえ真実をいわせてもらえば、物資の豊かさなどどうでもいいことだ。本当の豊かさは知そのものに存在する。もっともそれがわからない者たちにとって、こういった品物はいい餌になる」
給仕は赤い果肉を小さな銀の皿へ移し、僕のほうへかがみこんだ。艶やかな赤と鼻先にただよう香りに僕の喉が勝手に鳴る。スプーンにのせて差し出された果実を僕は不本意にも咀嚼し、飲みこんでしまう。甘く爽やかで、一口食べるともっと欲しくなる。
「一度食べればもっと欲しくなるものだ」
見透かしたようにレイコフがいった。
「人間の真実を拒む必要はない。とはいえ、食物や性のような身体の快楽にはすぐに限界がやってくる。知の快楽はちがう。これは永遠のものだ。そなたもそれを知っているだろう」
「あなたは……」
僕の喉からかすれた音が出る。果物のおかげだろうか、視界はいまだに酔ったようにふわふわしているが、口はすこし動くようになったらしい。
「あなたのせいでこの島の人々は……めちゃくちゃです」
「私はそうは思わない。大半の者は生まれてきた意味をしらず、ただ自身を生かすために力を消費し、何も残さず死んでいく。あとに残るのは力の燃えかすだ。灰から意味あるものを作りあげるまで、また時間と労力を費やさなければならない」
「意味のあるものとは、なんです」
「わからないふりをするつもりなのかね」
レイコフは杯をあおった。
「知こそが意味のあるものだ。知の探究に費やされた力は単に消費されるわけではない。だからこそ、それ以外のすべてはその目的に従わなければならない」
僕は首をふる。
「あなたは狂っている。ひとは誰かの目的のために生きているわけではない」
「では何のために?」
何のため? 僕はまた首をふった。
「ただそのひとときの……生がそこにあるからです。一瞬の閃光のような、僕らはそれを飲み干すだけ……」
「それなら私が差し出すものを飲みなさい。封印を解く準備は整ったのだろう。そなたは力そのものとなれるのだ」
「嫌だ」
レイコフの眉が動いたが、その心からは何の感情も響いてこない。魔術師の例にもれず厚い遮蔽で覆い隠しているのだ。指に残った果物の汁が血のように手の甲へと垂れている。
「面白いな。どうして拒否する。そなたは知の探究の結果いまここにいるのだ。私には手に取るようにわかる。子供のころからずっと疑問に思っていたはずだ。どうして自分のまわりの人間たちはこんなにも事象を理解しないのか? 何ひとつ考えもせず、ただ身体の欲求にしたがって盲目的に動き回るのか? ほとんどの人間は探求すべき対象を見つけ出すことすらできない。生来の魔力の影響もあって、そなたの孤独は深かっただろう。どうだね?」
僕は父親の視線を思い出した。何か奇妙で恐ろしい生き物を見るような眼つきだ。僕の成長とともにあきらめと無関心に取って代わった、あの眼。しかし父のひそやかな感情はふとしたはずみで僕を撃ちぬいたものだった。僕にとって恐ろしいのはむしろ父の方だった。僕らはついにわかりあえなかった。
「〈本〉をその身に宿しているのはそなたの卓越さの証明だ。なのにそなたは、あの小さな王国に長いあいだ閉じこめられてきた。理不尽だと思わなかったかね? しかし私のもとで〈本〉の封印を解けば、すべてが変わる」
背後にいたブラウの気配が部屋の一方の角へ移動し、かわって護衛の男が僕のうしろに来た。いつのまにか退いた給仕は入口の脇の壁に沿って直立している。
「なぜこの場所が果ての塔と呼ばれているかわかるかね。ここは知の極北、終着にしてはじまりだからだ。ここで円環が閉じられる。そなたの〈本〉がそれを可能にする」
僕はレイコフをみつめたまま、細く細くのばした魔力をかすみ網のように織り上げた。かつて学院で読みふけった書物の記憶や、学生には禁じられた技をランダウと試したときの記憶を呼びおこしながら、その網を給仕と護衛に投げかける。
彼らの心は無防備だった。その表面はレイコフに対する恐怖や諦めに覆われ、ところどころに彼がもたらす報酬への欲望がちらついている。僕の網はその上にひそかに浸透し、べつの意思を刻みこむ。
僕の背後で護衛が身じろぎ、給仕は眼をあげて困惑した表情になった。その一瞬、僕の網は彼らの筋肉を把握する。もっとも僕の心の奥底はそのことに驚いている。ランダウと実験したときだって、こんなことは不可能だった。
しかし驚いている暇はない。僕の魔力の網は最初護衛に働きかけるが、いまだ酔ったような感覚が残っているせいか、うしろに数歩下がらせるだけで精いっぱいだ。彼をその場に留めたまま、僕は今度は給仕を試そうとする。その時レイコフが給仕に手を振った。
「あれを」
僕は反射的に魔力の網をひっこめ、給仕は黙って壁際のキャビネットを開けた。手のひらの真ん中に収まるほどの青い細長い瓶を盆に載せる。レイコフが命令した。
「そなたには最後の準備をしてもらう。飲みなさい」
給仕は盆を持って僕のそばにくる。僕は魔力の網をふたたび彼に投げかけるが、手を止めさせるには間に合わない。給仕は青い小さな瓶を僕の唇に含ませる。刺すような味が舌に広がるが、僕の魔力の網はまた彼を覆いつくす。
給仕の手から瓶がころがりおちた。その場で飛び上がるように背筋をのばし、盆を盾のように構えるとテーブルのナイフをつかむ。
舌に落ちた薬のためか、僕の視界には夜のようなとばりが降りてあたりがよくみえない。しかし魔力の網でとらえた給仕の体の感覚ならこの手にあり、僕は彼をレイコフめざして突進させる。この男は見た目より頑健で敏捷だ。テーブルに片手をついてばねのように体をひるがえし、レイコフに向かってナイフを突き出す。
横から赤いものが飛び出してきた。ブラウ。蹴りだされた義足が給仕の腹に食いこむ。給仕――そして僕の意識も跳ね飛ばされる。舌の上を刺していた味はもうほとんど感じられない。
僕は虚空を墜ちていた。はるか下に凍った浜辺と、燃える〈本〉がみえた。
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