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【第2部 星々の網目にて】25.銀の川

   *  は茶色の防水紙に包まれていた。十字にしっかりと紐がかけられている。大小取り混ぜた古書の束のあいだで、なぜかその包みだけが僕の眼を惹きつけた。  留守番してくれと告げて出かけたカリーは戻ってこない。入荷した書物の梱を確認するのは店主のカリーの役目だ。でも、学業のかたわらずっとここでアルバイトをしていた僕は、在庫の整理から帳簿づけ、時には簡単な修復作業も任されるようになっていた。茶色の紙包みを開けようと思ったのは自然な流れだったし、どういうわけかその時は、そうするのが正しいことのような気がしたのだ。  紐を解き、二重になった包み紙を開いていると、誘われるような、浮き立つような気分が僕を襲った。紙の隙間から見えた表紙の古代文字にはっとして、作業机の上にのせる。きっとものすごく貴重な書物だ。慎重に扱わないと。さらに紙を広げようとしたとき、裏口から物音がした。僕はふりむいた。 「お帰りなさい。遅かったですね」 「ああ、ちょっと長引いた」  カリーの店主は作業机をみた。 「それは?」 「あ……」僕は積まれた書物の梱に眼をやった。たった今の高揚感が消えて、なぜかうしろめたい気分だった。 「入荷がたくさんあるから、ひとつくらい開梱しようと思ったんです」 「ありがとう。すまんね。ただ、その本には触らないでくれ。特別な注意が必要な預かり物だ」  カリーはさっさと僕の横に来ると書物をまた紙で覆った。僕は名残惜しい気持ちでいっぱいだったが、店主の指示には従わざるをえなかった。 「ものすごく貴重な本のようだ」  寄宿舎の部屋でその話をすると、ランダウは「へえ」と眉をあげる。 「古いのか?」 「ああ。表紙をちらっとみただけだが、古代語だった。宇宙の理法についてとか、そんな題名みたいだ」 「写本?」 「だろうね。カリーの店主は触らせてくれなかったよ」  ランダウは顔をしかめて「どこかの貴族の持ち物かな」という。 「ただの道楽であんな書物を持ってるなんて、犯罪も同然だよ」  僕は冗談半分、本気半分でいった。 「カリーの店に持ち込まれるんだから、魔術書だろう? 学院の教師かもしれないぜ。ソールもさ、将来は同じように店主に修復を頼んだりするかも」  ランダウの言葉は僕を気恥しい気分にさせる。彼は学院を卒業したら治療師として故郷に戻る。それは入学当時から決めていたことで、変えるつもりはないらしい。対して故郷に居場所のない僕は、卒業後も学院に残るつもりだった。ランダウはもちろん、いずれは教師になって魔術研究にあけくれたいという僕の願望を知っている。だから時々こんなことをいう。 「学院を出たら古代語なんてまったく縁がなくなるだろうな。苦労して覚えたのに」  ランダウは寝台の上でのびをした。 「貴重な書物にじかに触れるなんてことも、もう絶対ないね」 「作業が終わったらちょっとくらいは見せてくれるかもしれない」と僕はいう。 「カリーの店でも古代語の魔術書はめったに出ないんだ。店主に頼んでみる」 「ソールは役得だな」  僕は笑った。「ラン、きみも一緒に来るんだ」  翌日カリーの店に行くと、店主は作業机に向かって昨日の書物を調べているようだった。僕は客の相手や表の書架の整理をしていたが、ずっとうしろが気になっていた。古代語を学んだから僕にもあれが読めるはずだ。そう思うとのぞいてみたくてたまらなかった。でもその日は来客も多くて、気がつくと店主の作業は終わっていた。数日後、机は片付けられていて、あの書物はどこかへ送られてしまったらしい。 「もう終わったんですか?」  店主にたずねると「ああ、学院に送った」と返事が戻ってきた。  学院だって? それなら図書室の本だろうか。 「――へえ、それで?」  ランダウが先をうながす。僕の隣で机に向かったまま、鉛筆を指のあいだでくるくる回している。 「それがさ、図書室にないんだ。閉架書庫にもない。なのに入荷数記録には最近一点だけ写本が入ったとされている。変じゃないか?」  ランダウは鉛筆を回す手を止め、机の前の窓枠へと手を伸ばした。寄宿舎を囲む木立の枝が窓ガラスのすぐそばまで迫っている。手の影に驚いたように小鳥が枝から飛び立つ。机にほうり出された鉛筆が音を立てながらコロコロと転がった。 「リストには題名も書かれていないのか? だったら禁止区画に入れられたのかもしれない。ほら、学生には入れないところがあるだろう」 「奥の鍵がかかったところだな。そうか……」  僕は凝った首筋をのばしながらため息をつく。 「もっとちゃんと見ておけばよかった。せめて表紙を開くくらい。すぐ禁書区画行きになるってことは、アダマール師が教えてくれない術にきっと関係がある……」 「ソールはいずれ閲覧許可をもらうさ」ランダウは笑った。 「偉い教師になって、禁書だろうがなんだろうが読み放題だ」 「きみにも見せたかった」  僕は肩をすくめた。 「あの本にはなんだか……呼ばれているような気がしたんだ。残念だ。それにきみ、最終試験が終わったらほとんど時間がないだろう。治療師が進路の学生はみんな忙しい」 「お楽しみは終わりの年頃なんだ」ランダウは軽い口調でいう。 「来年の休暇はうちへ来いよ。ヴェイユも一緒に」 「ああ。そうだな」  僕らはすこしのあいだ黙っている。ランダウの魔力にのって、ぼんやりした思考が伝わってくる。僕らはほぼ同時に口をあける。 「禁書の部屋の鍵って……」  そして顔を見合わせて笑った。    *  記憶のなかのランダウの笑顔が、凍った浜辺の風景の中、墜落する凧のように僕の前に落ちてくる。グロテスクに引き伸ばされた眼尻や唇がくしゃくしゃに崩れ、僕は思わず悲鳴をあげそうになった。この浜辺は以前の夢でもこんなふうに巨大なものだったか。  砂粒がごろごろと靴の裏を刺激する。足元をみると踏んでいる砂粒がみるまに大きく成長し、僕の足を浜辺に埋めようとしている。いや、変わっているのは砂だけではない。砂に混じる小石も貝殻も、すべてのものが巨大化し、膨張する。僕は焦って周囲を見回し、はたと気づく。浜辺が巨大になっているのではない。僕が小さくなっているのだ。  僕は天をふりあおぎ、空中にまたランダウの顔をみる。無表情な眼が僕を見下ろしている。それがだんだんひきつれるような笑顔に変わり、その眼と眉が吊り上がって怒りをあらわしたと思うと、ひたいに皺が寄って苦悶へと変わった。焦げるような匂いが僕の鼻をつく。炎の細かい網が彼を縛るように覆っている。僕はさらに上へと首をのばす。炎の網は組み紐のように空へと続き、その先に〈本〉があった。 『辛いだろう』  突然背後から声が聞こえた。僕はふりむいた。浜辺に人の影がある。レイコフだとわかって、驚愕で心臓がはねた。  しかしレイコフは気にしていない。それともこんなに縮んだ僕など眼に入らないのか。たちまち僕を追い越してランダウに近づく。 『早く解放されたいのではないかね』  僕はレイコフに向かって「あなたには従わない」と叫んだ。だが浜辺が広大すぎて、僕の声はたちまちかき消えてしまう。レイコフは完全に僕を無視しているが、僕は懸命に走り、彼に追いつこうとした。まるで小さな子供になったようで、走っても走っても届かず、もどかしい。一方でレイコフの声だけは、天から降ってくるようにはっきりと聞こえる。 『感じないか? 今のそなたは力が増している。こちらへ来なさい。私のもとへ』 「聞くな! 聞いちゃだめだ、ラン!」  僕は叫んだ。そのときランダウの眼がぞっとするような白い光を発した。体がぐいっと樹脂のように伸び、白い眼が僕の方を睥睨する。蛇のように伸びた指先がぞろぞろと浜辺を這ってくる。  僕は反射的にあとずさったが、指は僕を追いかけてくる。走っても走っても振り切れず、足首にからみつき、浜辺に僕を押し倒す。僕はランダウにのしかかられている。押さえつけられて声も出ない。ひたひたと背中が水に浸される。海の中に沈められようとしているのだ。  はっとして眼を開けると、レイコフの顔がすぐ前にあった。夢の中と同様に僕はぴくりとも動けなかった。視界が奇妙に揺れていた。浅い海の底から透かしみているように、視界がゆらゆらと二重写しになっている。  レイコフの唇が動いた。 「起きなさい」  僕はまったく動けなかった。なのに僕の口は勝手に動き、がレイコフに答えた。 「」  レイコフは満足げに微笑んだ。 「私はバトモア・レイコフ。そなたの解放を助ける者だ。ソール――いや、ランダウ」

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