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【第2部 星々の網目にて】26.星喰い

 この建物は世界から切り離されているようだ。奇怪な音を頼りに上層へと駆けあがるクルトの頭をそんな考えがよぎる。慎重にすこしだけ魔力を壁に反射させたのは、自分がいまどの高さにいるのか調べようと思ったからだ。建物を満たす不穏な響きに触れないよう、注意深く行わなければならなかった。しかし聞こえてくるのは不協和音だけで、クルトの感覚は乳白の霧にさえぎられてしまう。どうやらこの建物の内側にいると、外部を感知できないらしい。  それならば仕方ない。余計なことを考えるのをやめ、クルトはレイコフの魔術に集中した。機械の中枢がある場所、とサージュはいった。いい加減な説明だと聞いたときは思ったのだが、いつのまにかクルトは肌で理解していた。魔術機械のリズムに魔力を添わせれば、建物をうごめく流れがどう循環するのかがみえてくる。いまや眼を閉じてもわかる。この先だ。 「何者だ!」  その空間に駆けこんだとたん、誰何の声がクルトの耳を刺した。ほとんど無意識に飛ばした魔力の一撃で、次の瞬間気配はふっとぶ。扉を守る護衛だったのか。クルトは立ち止まり、息を整えながら前をみた。金属に反射する光が眼を射て、不快さに顔をしかめる。  光は空間をぐるぐると回転していた。クルトは眼を細め、それがガラスの箱におさめられた金属から放射されているのを知った。回転のたびにいたるところに影が落ちる。奇怪な音は回転に同期している。影は不思議な文字のかたちを描いている。  気を取られていたのもほんのわずかな時間にすぎなかっただろう。ついで眼に入ったのは血の赤色と、足元に転がる人の足だ。一瞬ソールかと錯覚しかけ、すぐにちがうのを悟った。そのとき声が聞こえた。 「あんたは誰だ」  ソールの声だった。しかしソールはこんな物言いはしない。クルトは眼を瞬かせ、恋人が車いすに座っているのを認める。いすの背を持つのは燃えるような赤毛の若い男だ。ソールの正面にもうひとり、ひざまずいている者がいる。肩幅は広く、壮年を超えていて、束ねられた銀髪の房が背中に垂れている。  ソールの顔は凍った仮面のようで、何の表情も浮かんでおらず、ただ男を凝視している。暗色の眸は拡大し、白目を覆わんとするほどに広がっている。ひざまずいた男の口から低い、よく響く声が発せられた。 「私はバトモア・レイコフ。そなたの解放を助ける者だ。ソール――いや、ランダウ」  ではこの男がレイコフなのか。しかし――ランダウ?  銀髪の男はクルトがこの場にいることに気づいているはずだ。なのにまったく気にしていない。ひざまずいたまま手をのばし、ソールの手首や足首に触れる。縛めを解いているのだ。恋人は微動だにしなかった。人形のようにされるがままになっている。  レイコフはソールの手をとると「立ちなさい」といった。ひどくぎくしゃくした動きでソールは椅子から立ち上がる。彼がまったくまばたきをしていないのにクルトは気づく。 「ランダウ。封印を解きなさい。そなたは方法を知っている」 「やめろ!」  ためらっている暇はなかった。クルトは手をあげると魔力の一撃を銀髪の男に向かって投げつけた。金色の塊がレイコフへ矢のように向かったが、届いたと思った瞬間にかき消えた。魔力の光輝がきらめくなか、銀髪の男がクルトに向き直った。 「ああ、間に合ったようだ。クルト・ハスケル」  こいつは自分を知っているのか。ちらりとそう考えはしたものの、不思議と意外には感じなかった。クルトはまた手のひらに魔力を集めた。 「おまえがレイコフか。ソールを迎えにきた。返してもらう」  車いすの背後に立つ赤毛の若い男がわずかに動いた。しかし銀髪の男は視線で彼を制した。 「それはどうかな。ソール・カリーはよく知っているかもしれないが、ランダウは初対面だろう」  不自然なほど穏やかな口調だった。レイコフはソールの手を取ったまま、肩に手をまわし、自らの方へと向けさせる。ソールはまったく抵抗しない。銀髪の男が砂色の髪を撫でる仕草にクルトの心が激しくよじれる。 「ソール、いま――」 「気づいていないとはいわせない。彼は『ランダウ』だ」  レイコフの声が傲岸不遜に響きわたった。  青い眸が冷たくクルトを見据えている。自分の手のひらにふたたび魔力が集中するのをクルトは感じた。金色が渦をまき、爆発しそうな勢いを内側にこめたまま輝く宝珠をかたちづくる。  ところが銀髪の男は、それが面白い見世物でもあるかのように唇の端をあげただけだ。 「体はたしかに思い人かもしれないが、ソールはいま『ランダウ』がいた場所にいるはずだ。もちろん私は彼を気に入っていた。彼こそが『力の書』を生きている体のなかで保つという偉業を成し遂げたのだから。ところが彼はこれをなかなか解放してくれない。私は辛抱強いたちなのだが、今は多少急を要する」 「おまえは――」 「その手の光はとても興味深い」  レイコフはクルトの右手にむかってあごをしゃくった。 「あとでじっくり見せてもらいたい。しかしその程度の力は、解放された〈本〉とは比べ物にならない上に、それでいったい何をしようというんだね? 私を撃つのかね? しかしそうしたら最後、何が起きるかはあきらかだ」  レイコフはソールの背にぴったり寄り添うように彼を抱いた。胸の前に腕をまわし、細い顎に指をかけてクルトの方を向かせる。ソールの瞳孔はあいかわらず広がったままで、何の感情もあらわさない。 「たとえランダウがクルト・ハスケルを知らないとしても、この体はソール・カリーのものだ。自分の力で思い人を傷つけたくはないだろう。そこで見ているがいい。なに、すぐに完了する。終わってしまえば悪い話にもなるまい。私の配下でいれば、たまには恋人にも会えるかもしれないぞ。もちろん『ランダウ』がそれを許せばだが」  腹の中で怒りが渦をまいた。魔力が暴走しそうになるのをクルトはこらえる。 「馬鹿な。俺がそんな取引に同意すると思ったか」 「そうかね――」  その時だった。ソールの体が突然生気を取り戻し、唇がひらいて自身の顎を支えるレイコフの指を噛んだ。まぎれもない恋人の声がその口から飛び出す。 「クルト! 約束しただろう!」  レイコフは血のにじんだ指を無表情にみつめ、もがくソールの肘をひねった。恋人の顔が苦痛に歪む。 「そなたは意外に強いな。ソール・カリー」 「クルト、今がそのときだ。僕を殺せ」 「ランダウ」レイコフはソールを無視した。 「封印を解きなさい。みずからを呼ぶのだ」  クルトは息をのみ、そのあいだにもソールの表情が硬直し、白目が黒で覆われていくのをみた。『ランダウ』はレイコフの声を理解しているのかいないのか、無言でクルトをみつめている。まるで言葉を知らないかのようだ。クルトの手のひらの魔力が急激に衰えていく。いったいどうすればいいのか。意思が迷路をさまようあいだに魔力の源から急速に熱が冷め、手のひらの黄金がしぼんでいく。 「それでいい」  レイコフが満足げにいった、その時だった。  黒い風がクルトをかすめて空間をつらぬいた。横からレイコフへ突進したのは漆黒の魔力で、剣のように鋭く尖った先端が銀髪の男の脇腹をつらぬく。ソールの体が前に倒れ、クルトは反射的に前方へ飛び出して恋人を受けとめた。  床に倒れたレイコフの顔が苦痛にゆがんでいる。のしかかる男の眼は魔力と同様漆黒に塗りつぶされていて、白目がなかった。  サージュ! クルトは唇を動かしたが、声が出なかった。サージュは武器を持っていなかった。しかしはじめて感じる漆黒の魔力がまぎれもなく彼自身からあふれ、どろりとした液体のようにもがくレイコフの上に広がり、眼球や耳の穴から体内へ浸透していく。空間に響く和音がしだいに変調し、風が奇妙に動いた。熱気がどこからか立ち上っている。金属がカチカチカチカチと打ち合わされ、ガラスをひっかくような、たまらなく不快な音が混じった。 「返してもらったぞ」  サージュがいった。はじめて聞く声だった。なめらかでしわがれていない声。サージュの下にいるレイコフはもがくのをやめている。漆黒のマントに覆われたようにみえる。サージュの唇の端がゆっくりとあがる。黒で染められた眸をかこむ瞼がつりあがる。笑っているのだ。クルトは腕に恋人の体を抱きしめたままみつめていた。漆黒の魔力がサージュの背中に黒い翼となって広がっていく。暗闇を背景に光の点がまたたき、夜空の幻影が展開される。  と、そこへ真紅の矢が跳びかかった。  赤毛の男がサージュに体当たりしたのだ。レイコフから突き飛ばされたサージュは、襲ってくる相手へと魔力の黒い翼を広げたものの、緩慢にふりむいた動作はのろかった。相手にまるで興味を持っていないようだ。しかし赤毛の男は叫んだ。 「レイコフ様を――!」  素早く繰り出されたその片足から履物が飛ぶ。銀色の鋭い先端がサージュの背中に埋まる。サージュの首がコキリと鳴った。ありえない方向で曲がり、赤毛の男をみる。ぞっとするような微笑が浮かぶ。 「おまえが今のあいつの犬か」  漆黒の魔力が赤毛を包んだ。それ自体が生き物のように伸び、男の体に巻きついていく。みるまに銀色の足――それが義足だとクルトはようやく理解した――の先端まで達して、ぽきんと折ったとたんに動きをとめる。床を血の筋が這っていた。眼でたどった先には、動かなくなったサージュがいる。  クルトは腕にソールを抱きしめたまま天井をふりあおいだ。制御を失った力の渦が空間を駆け巡るのを感じる。その力はレイコフの魔術機械から壁を伝い、みしみしとあたりを揺らしている。 「ソール、しっかりしろ!」  恋人の体は冷たかった。片方の手首をつかんで自分の手首を重ね合わせ、もう片方の手で頬をさする。 「起きてくれ、ソール」  ふいに機械仕掛けのような動きでソールの眼がひらいた。感情のこもらない平坦な声がクルトの頭の中に響く。 『クルト・ハスケル。』  念話の衝撃にはっとしたとき、恋人が眼をまたたかせた。潮が引くように白目を覆っていた黒色が消えていく。ひたいが苦しそうにゆがむ。かすれた声がささやく。 「クルト。僕に続いて歌ってくれ」  突然、意識が宙に投げ出されたように感じた。  クルトは白と灰色と水色に塗られた空間を急降下していた。まるで芝居の背景のように動きをとめた海と空が足元に広がる。たいへんな高所から落ちているにもかかわらず、砂色の髪が炎に覆われた何かに相対するのがわかった。  ソール! あわててひねった体はくるりと宙返りし、今度は恋人の方へと一直線に向かう。ソールは燃える生き物の正面に立っている。その生き物の真上には、同じように炎の輝きをまとった書物が浮かんでいる。 『』  ソールが歌った。

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