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【第2部 星々の網目にて】27.天の宿

(古代語ってほんと厄介だよ、ソール。文字と文法はわかるが、とても話せない) (今では使われない音というのが大変だね。喉を開いて歌うようにするとうまくいくって話) (歌。それがまた困る) (そうだな、ランダウは歌、苦手だし。でも僕だって得意じゃない) (苦手なんてもんじゃない。自分の名前も調子外れになってしまうんだぜ? 音痴もいいところだ)  だからきみは呼べと頼んだのか。記憶のなかの友人に思いをはせながら僕は口をひらき、歌った。凍った海の一部が溶け、僕の魔力の一部は地熱のように砂浜を浸していく。レイコフが無理に飲ませた薬のために僕の魔力が増幅され、源から力を引き出しているのだ。  ついさっきまで、この増幅された力は僕ではなく、僕の眼の前にいるランダウの人形が吸い上げていた。レイコフが自分の魔力を彼に分け与えたから、ランダウの人形は凍った浜辺に根のように手足をのばして僕の力を奪い、水中へ沈めようとした。しかしレイコフが浜辺から消えた今、僕は『ランダウ』を払いのけ、こうして彼の名を呼んでいる。  金色の光が上空から射した。凍った海を明るく照らし、また氷の一部が溶ける。歌声がきこえる。僕に続いてクルトが歌っているのだ。彼の声は楽音の響きをもち、なめらかで輝かしく、僕のかすれて伸びない声を補ってくれる。クルトは耳も頭もいい。いくらか教えてもらっただけで古代語を歌えるなんて、彼の才能はおそるべきものだ。おまけに僕の言葉を信じてくれた。  そのことで胸がいっぱいになりながら、僕はランダウの歌をくりかえす。燃える炎の網がしずまり、熾火のように赤くなる。燃えかすが天から降ってくる。流星のように輝いている。空はもう凍っていない。漆黒のさなかに、太陽のように〈本〉が輝く。禍々しい輝きが僕を強くひきよせる。一瞬だけページがふわりと開き、別の世界へ通じる道が僕の眸を灼く。憧れが僕の全身を浸し、はちきれそうになる。でも肝心なのはこの先だ。  僕は心の深い層から記憶を呼び出す。必要なのはあのときの記憶、生身のランダウと学院へしのびこみ、〈本〉を読んだときの記憶だ。  古代文字は失われた音をさししめす。これを逆順に歌うなんて、歌の才能のない僕には簡単ではない。でも手がかりはランダウがくれたのだ。僕は夢で聞いた彼の言葉を思い浮かべる。時を巻き戻せば星も消える、そう彼はいったのだった。  こんな話を唐突にはじめるランダウが好きだった。なんの役に立たなくてもよかった。僕らはどれほどあの寄宿舎で、こんな思いつきを話し合っては、おたがい笑いあったことだろう?  文字は音をさししめし、同時に意味を語る。あの〈本〉の言葉は、意味が力をなす失われた呪文の魔術だ。レイコフの魔術機械が行うことに似ているが、肝心なところが違っている。いまの僕はそれを理解している。〈本〉を構成する言語には、もうひとつ何よりも重要なものがある。それは時という要素だ。  僕は記憶の中のページをみつめ、意味が逆になるように文字を並びかえ、並びかえながら歌った。クルトが僕のあとに続いて歌うのが聞こえる。しっかり歌え、と僕は自分を叱咤する。クルトが僕のあとを追っているのだ。正確に、自信をもって歌え。  僕らの声は輪唱のように空間に響いた。歌が宙で燃え上がる書物に届くと、どこからか三日月のような細い銀の刃が生まれた。刃は書物の背を切り裂き、ページを一枚一枚切り取っていく。  僕は歌いつづけるが、そのあいだも渾身の魔力をふりしぼって、この歌を制御しなければならない。思いがけないことにレイコフの薬が好都合に働く。クルトが手伝ってくれるとはいえ、僕自身の力が増強されていなければ、こんなに長く歌を制御できるか怪しいものだ。  そのクルトはこの浜辺の上空にいて、金色に光り輝いている。〈本〉の禍々しい炎とはまったくちがう、美しい光だ。光はだんだん僕に近づいて、クルトは歌いながら浜辺に舞い降りる。緑の眸が僕をみつめる。こんな状況だというのに、彼の視線にこめられた愛情に僕はどうしようもない幸福を感じる。クルトは僕の横にならぶ。僕らは歌いつづけている。  歌がつづくうちに、昇る陽のように高い位置で輝いていた〈本〉は、今度は夕暮れを思わせる速度で浜辺へと降りてきていた。ばらばらになったページが抜けかわった鳥の羽のように散らばって、一枚一枚から文字がゆっくり消えていく。宙を漂いながら白紙が縮み、くしゃくしゃの繊維になり、しまいに純白の塵となって砂浜に小さな山をつくる。僕は記憶の中の最後の文字を歌いおわり、クルトの声があとに続く。  遠くで鈍い、大きな音が響いた。  クルトの腕が僕の背中を守るように抱いた。でも僕は、小さな白い塵の山になった〈本〉と――その前に立っているランダウをみつめていた。 「ランダウ」  震える声で僕は呼んだ。歌うのではなく、昔のように。  ランダウは僕をみて微笑した。記憶にあるのとおなじ笑顔、昔と同じように若いままだ。僕がつくったできそこないの人形ではない。僕の眼から勝手に涙があふれだす。ランダウは困ったような顔になった。ふいに膝を曲げ、しゃがんで、両手で本の塵をすくった。  宙で燃えていた時はあんなに巨大にみえた〈本〉は、塵になるとランダウの手のひらにすっぽりとおさまった。彼は浜で遊ぶ子供のような姿勢で僕を見上げた。 「ランダウ――僕は……僕は……」  涙のせいか、声は喉でつまったまま、まともな言葉にならなかった。ランダウは穏やかにいった。 「ソール、きみは僕を解放してくれた。ありがとう」 「あれはもともと僕が――」 「ちがうんだ、ソール。あの過ちは僕らふたりのものだった。それももう、終わりだ」  ランダウは立ち上がった。彼の手のひらから塵が風のなかへと舞い上がる。その先の海はもう凍っておらず、水色の波が寄せては引き、そのたびに砂浜を洗っている。白い塵は波のうえに降り、そのまま海へと還っていく。 「きみにお別れをいいたかった。だから僕はうれしい」 「ランダウ、待って!」  叫んだ声が宙に消えた。  砂浜はからっぽだった。ランダウはどこにもいない。〈本〉もない。ただ声だけが僕の中に響く。底まで深く、つらぬくように。 『さようなら、ソール』  ドーンと鈍い大きな音がすぐ近くで響いた。大きな衝撃が世界そのものをゆらし、海も空も砂浜も、すべてが混沌の渦に巻きこまれた。つんざくような音が僕を襲っている。体をえぐるような、耳が壊れるような音だ。それが急にやむと今度はガラスが砕ける音が響き、ついでばらばらと何かが降ってくる。  僕は眼をあけ、頭をもたげる。周囲を見回す。金属とガラス片がちらばっている。ぼやけた僕の眼は金色と銀色のあいだをいったりきたりし、ようやくこれらがレイコフの魔術機械――その壊れた部品だと気づく。いったい何が起きているのか? 「ソール、伏せろ!」  ぐいっと背中を抱かれ、クルトの声と体温が僕の上に覆いかぶさった。雷と地鳴りをあわせたような不気味な轟音が響きわたる。

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