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【終章 果ての塔から響く歌】1.力の歌
まさしく間一髪だった。
クルトは天井の崩落で降りそそいだ石材をソールもろとも避けた。幸運に感謝しながら腕の中の体を抱き起こす。まだはっきり目覚めていない様子だが、その顔は見慣れた恋人のもので、レイコフが呼び出した『ランダウ』――ソールの友人のものではなかった。
とはいえたったいま、クルトもソールの精神で『ランダウ』と〈本〉が消え去る瞬間に立ち会ったのだが、そこで目撃した事柄を本当の意味で理解できた――とは、今はいえなかった。しかしひとつだけ確実なことがある。〈本〉を消滅させたとき、ソールは尋常でない魔力を消耗したはずだ。
案の定、クルトが支えてもソールはぼうっとした様子で、足取りもおぼつかない。しかし今の彼の体はクルトの魔力を受け入れるだろう。何しろクルトはソールと一緒に『歌った』のだから。
他人に魔力を補給する方法はいくつかあるが、いまのクルトは手っ取り早く効果的なやり方をとった。砂色の髪を抱き寄せて口づけしたのである。
舌がふれると年上の男はびくりとし、いやいやをするようにもがいたが、クルトは手加減しなかった。〈力のみち〉が相手の体内に通り、自分の魔力を受け入れたのを確認してやっと唇を離す。ソールは抗議するように眉をあげてクルトをみた。
「クルト、きみ――」
「もう大丈夫だろう? 行こう」
クルトは無邪気に笑いかけ、先に立って階段を駆け下りる。ソールはすぐにクルトに追いついた。クルトの魔力は賦活剤としてうまく働いているようだ。ほっとしたのもつかの間、今度は階下から足音が響いてくる。
クルトはソールの手を引くと壁沿いに立った。足元に人影が見えると同時に叫ぶ。
「止まれ! 味方だ!」
大柄な影が呼ばわった。
「何者だ」
「モードに保護された者だ」
のしのしと数人の男があらわれる。クルトには既知の気配であり、正体はわかっていた。先頭のひとりがクルトをみて警戒を解く。モードと一緒にいた大男だ。
「あんたらか。ここで何してる。上は――」
「レイコフは死んだ」クルトは早口でいった。
「魔術機械も壊れて、そのせいかこの建物も危ない」
「モードのいったとおりか。時が来た、というわけだな」
大男は背後の男たちを手招きした。
「死んだのならなおさらだ。進むぞ。死体を拾ってこなくてはならん」
「気をつけろ、上は崩れ――」
また背後で崩落の音が響いた。大男はにやっと笑った。
「自分も死体になっちゃ元も子もないな。ほんとに塔主は死んだのか?」
「ああ。他にも」
大男は先までいわせずに階段を駆けのぼり、他の者があとにつづく。
「ちょっと待て!」ふと思い出して、クルトは声を張り上げた。
「なんだ?」
「必要なら使ってくれ」
叫ぶと同時にふところから取り出したものを放り投げる。足元に落ちた鍵束を男は指先でつまみあげた。
「どこで手に入れた」
「牢を破ったとき、レイコフの配下から奪った。助けるゆとりはなかったが、人がまだ……」
「わかってる」大男は表情を変えなかった。「ありがとよ」
クルトはソールを促してさらに階段を降りた。突然ソールが「こっちだ」といった。来たときには気づかなかった、横へのびる通路の入口がある。
「この先に何があるんだ?」
「図書室だ」
問い返す余裕をあたえず、ソールは素早く先へと駆けだし、クルトはあわてて後を追った。彼と出会って何年もたつのに、こんな風に全力で走る姿は初めてだ。ソールはどんどん廊下を進んでいき、迷わず大きな扉をひらく。クルトはあわてて止めようとした。扉のむこうに人が――
「行きましょう、司書殿。レイコフは死にました」
扉の向こうにいた人は開口一番そう告げたソールを正面からみつめ、首をふった。白髪を頭の上で髷にまとめた女だった。
「私は書物を守らなければいけませんから」
ソールは首を振る。
「司書殿。モードは書物を焼いたりしませんよ。それより、塔が崩れました。レイコフの魔術ももうない。危険ですから、避難を」
「モード。彼女なら知っています。でも――」女性は首を傾けた。「それならなおさら、ここにあるものがどんな種類の宝なのか、説明できる人間がいなければなりません」
彼女の背後に広がる書架の列にクルトは眼をみはった。学院の蔵書にも匹敵しそうだ。ソールは顔をしかめている。
「でも、今は……」
女はまた首を振った。
「私はここにいなければなりません。私の仕事ですから。あなたは行ってください。気にかけてくれてありがとう」
言葉の背後に断固とした決意がほのみえた。ソールはあきらめた表情になった。
「いえ、僕こそ……ありがとう」
ふたりのうしろで扉が閉まった。ソールは建物の構造をきちんと把握しているらしく、迷わずクルトを先導した。途中で空気の匂いが変わり、ついに外に出たとき、遠くから歌声が聞こえてきた。ひとりの声ではなかった。何人もの人――いや、何百人もの人々が歌っているのだ。
「製紙所の歌だ」
ソールがつぶやいた。
「行こう。モードがいるはずだ」
あとになって情報を整理すると、モードの率いる者たちが製紙所の仲間と共に叛乱の声をあげたのは、クルトが牢を抜け出して間もなくだったようだ。モードは周到に準備をしていた。蜂起は複数の場所で同時に行われた。不意打ちの優勢からはじまって、五分五分にまで押されたのち、魔術機械の崩壊で一気に優勢へ盛りかえしたのである。塔主の死がモードによって宣言されると、島のあちこちにいたレイコフの配下は一気に崩れた。
「モード、あなたはレイコフの死を予見していたのか?」
ソールがいった。高い天井にざわめきがこだまする。さまざまな身なりの男女が大股に歩き、そのあいだを子供が走っていく。水路から潮の香りが漂ってくる。この島の港は巨大な洞窟の中にあるのだ。クルトとソール、それにモードは樽を切って作られた即席のテーブルを囲んでいた。
「予見ね」モードは腕を組み、不敵に笑った。
「塔主の死は我々がもたらすのではない――というのなら。そして正しい時を待たなければならないことはね。そうしないと我々は、先代女王の気まぐれでレイコフに与えられた権利を超えた『正統な島の継承者』になれない。もちろん実際はもっと話は複雑だし、漁夫の利を狙う輩にかっさらわれる前に我々はすべてを既成事実にしなくてはならない。でもソール、あんたは私の未来にはっきり見えていたわけじゃない。レイコフはあんたが殺したのか?」
「いや。ちがう。殺した人間の死体はレイコフのそばにあっただろう?」
モードはきょとんとした。
「いや? ブラウの死体だけだ。あとは館で働いていた者で、お仕着せで分かった。館には家族を人質にとられていやいや従っていた者もたくさんいたからな」
クルトは眉をひそめた。ではサージュはどうなったのか? 彼はまさか――死んでいなかった?
ソールも同じことを考えたのだろう。しかしふたりとも口には出さなかった。一方モードにはまだ質問があったようだ。
「あんたが持っていた『鍵』は?」
ソールは静かに答えた。
「レイコフが死んだいま、僕ら全員にとって意味はなくなった」
「では私の交渉カードにもならないか」
ソールは慎重に間をおいた。
「あなたが我々の王国と取引したいなら直接やるべきだ。でも僕はもう何者でもない。ただの書店主にすぎない」
「ただの書店主ね」モードは吹き出した。
「まあ、そういうことにしておこう。使えないカードを置いておく余裕はうちにはない。それにしても書店主か。私には無縁だな。この島には商店すらないのに」
ソールは肩をすくめた。
「縁ができたついでに、ひとつお願いがあるんだ」
「ほう?」
「館の図書室に集められた書物を……捨てないでほしい。あの蔵書には世界中から盗まれ、集められた書物も含まれている。レイコフの著作もある。彼は――邪悪な人間だった。でも書物は失われるべきじゃない」
「書物は財産だ」モードは鼻を鳴らした。
「いくら私でもそのくらいは知ってる。燃やしはしない」
「僕の店ならあの図書室の本はなんだろうと高値で買い取る。僕とクルトが……帰りつくことができれば。資金に困ることがあったらいつでも声をかけてくれ」
ふうん、とモードはつぶやくと腕を組みなおした。
「店の名は?」
「カリーの店」
あんたは初登場にくらべて少しくすんだ色になってるが、その程度の方がいい。人間に見える。別れ際、クルトに向かってモードはそんなことをいった。
魔力の話をしているのだった。モード自身は魔術師ではないのだが、彼女は他人の魔力がいかなるものかを|測《・》|る《・》能力を備えているらしい。それはクルトの故国で王族にときたまあらわれる能力でもある。
クルトはいささか困惑したが、考えるのは後回しにした。ソールがこの島へ連れ去られてからというもの、自分が魔力を使って、かつてできなかったことをやり遂げた――ときにやりすぎた――のは自覚していた。とはいえ、自分の能力の詳細を自分自身で把握できるとは限らない。
ソールについても同じことがいえた。一時はクルトと念話ができるほど魔力が回復したソールだが、〈本〉が消滅したあとは常人と変わらないようにみえる。おまけにレイコフが無理に飲ませた薬の副作用が出ていた。時々様子がおかしくなるのだ。サージュの症状に似ているが、あそこまでひどくはない。
どこからか歌が流れてくる。港に続く造船所で働く者がうたっているのだ。
「よう、先生。久しぶりだな」
すこし離れたところから青い眼の男が手を振った。
「はぐれ星が出るぞ。乗るなら早く乗れ」
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