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【終章 果ての塔から響く歌】2.船の歌

 船が島を離れるにつれて空気がどんどん冷たくなった。日も落ちたいまは吐く息が白く凍る。  真冬に雪も降らないような気候になったのはレイコフが領主になってからだ、と島の者はいった。彼が死に、あの魔術機械もなくなって、これから島はどうなるのだろう。  いま思い返してみると、この島とレイコフの館にはさまざまな驚異があった。怖れや緊張や孤独のために、僕はほとんど観察することもできなかったが。  甲板に吹きつける風もつめたいが、僕の体は暖かかった。すぐ隣にクルトがいるからだ。僕は穏やかな海面をみつめる。何事もなかったようにみえる海だが、『はぐれ星』が島を出るときはレイコフの残党が海上にあらわれてひと悶着あった。僕とクルトはたまたま操舵室で船長と一緒だった。モードはすぐに手勢を出したが、船長は眉をあげもせずに船を操り、悠然と彼らのあいだを抜けた。 「残党には本国の連中が送りこんだ一派も混じっているはずだ。本国は本国で、先代女王の派閥と現女王の派閥と臣民議会でいろいろあるからな。モードも当分、舵取りに気が抜けん」  話している内容とは真逆の呑気な口調で、船長はそんなことをいう。 「そんな時に島を離れてよかったのか?」  僕がたずねると「そりゃそうさ。大事な荷物があるからな」といって僕とクルトを眺め、からからと笑った。 「この船は大きな流れからつねにはぐれる。だからこそ『はぐれ星』だ」  今の僕は『はぐれ星』にめぐらされた回路魔術をぼんやりと感じることができた。前にこの船に乗った時はまったくわからなかったから、自慢げに説明する船長をがっかりさせたものだ。『力のみち』は船の要所で心地よい歌をうたっている。甲板を踏むブーツの踵にもその歌をかすかに感じられた。  館でほんの一時戻った、何もかもを見通せそうな魔力はいまの僕にはない。〈本〉を時の彼方に還したときに使い果たしてしまったのかもしれない。クルトと念話で話すこともできないだろう。それでも別にかまわないと思うのはなぜだろうか。少なくとも一度はそれが叶ったせいか。 「ソール、髪留めは?」  クルトが僕の耳元でささやいた。指先が首筋をなで、髪を結んだ紐をいじる。クルトがくれた緑と青の髪留めはレイコフの館を脱出するときに失くしてしまったらしい。 「どこかに落としたみたいだ」  気づかれた、と僕は内心がっかりしながら答えた。 「ごめん、せっかくここまで……」  クルトの指が僕の唇を縦にふさぐ。 「気にしないで。またソールに似合うものを探す」  指が離れ、唇にとってかわる。触れあった舌からクルトの魔力が流れこむ。甲板にいる人の気配が気になるのに、クルトと『力のみち』がつながると、僕はたまらずむさぼってしまう。それをいいことにクルトはひとめを盗んではこうして唇を重ねてくる。そして、レイコフの薬の副作用で僕の魔力が不均衡だから、補給するのだとしれっという。  ひらけた船上でこんなことをするなんて、正直いってけしからんことだ――と僕の理性は文句をいうが、僕の感情は喜んで受け入れている。今になって気づいたことがある。クルトと出会ってからずっと、彼が僕にあけっぴろげな愛情をしめしてくれるたび、僕はうしろめたいような気持ちをどこかで感じていたのだ。クルトが僕に触れるときも、自分にはとても返せないほど大きなものを受け取っているような気がしていた。  どういうわけか今の僕はそう思わない。だからなおさら、クルトがキスしてくると、けしからんという理性の声はあっけなく消えてしまう。 「寒いな」  そうつぶやいたクルトの息も白かった。 「中に入ろう」 『はぐれ星』が最初に寄った北方連合王国の港で、僕らは商業ギルドをたずねた。船長に船代を支払うため、クルトが為替を受け取ったのである。思いがけない人に出会ったのはそのときだ。 「アルベルト師!」  雑踏のなかにひょっこり伸びた白髪。僕は大きな声をあげていた。アルベルトは僕に向かって相好を崩す。その後ろからこれまた見覚えのある顔がのぞく。 「これはこれは。こんなところで追いつくとは。いや、無事に脱出できればギルドの情報でたどれると思ってはいましたが、こんなに早いとは」  レナードの家令、ハミルトンだった。たしかにクルトは王国の国境までこのふたりに同行したと話したが、どうして国境を越えているのだろう。 「ソール殿、ご無事でなによりです」 「こんなところで何をしているんです?」 「何って、それはもちろん……」ハミルトンは周囲にちらりと視線を走らせる。「仕事ですよ。主人がただいまこの国との外交で忙しいもので。静かなところで話をしませんか? というより、あなた方はどうやってここに来て、この先はどうするんです?」 「船で内海を抜けて、河口までいく」  そう答えたクルトは僕の腕を手のひらでしっかりつかんでいた。ハミルトンがじろじろみるので僕はきまり悪くなったが、クルトは気づいてもいないらしい。 「その先は川ぞいに陸路を行くつもりだった」 「なるほど。その船に我々も乗れるとありがたいんですが。何しろ果ての塔の領主が死んだとか、叛乱軍だか自治軍だかが登場したとかで、商船が大混乱でしてね」 「船長に頼もう」僕は港の方をふりかえる。 「船代はかなり高いが」 「ご老体と私と多少の荷物を乗せてくれればいいんです。あ、アルベルト師! ひょこひょこいなくならないでください!」  ハミルトンはアルベルトの外套をつかむ。そうしながら僕とクルトを順にみた。 「ところでもうひとり――いませんでしたか」  クルトは彼をみつめ、首をふった。 「サージュの死体がみつからなかったのは、見落としか、誰かが嘘をついたか、代わって持ち去ったか――」 「あるいは生きていたか」  ハミルトンの言葉をひきうけるようにアルベルトが続けた。 「サージュは例の薬物を摂ったといったな」 「まさか?」  クルトの声にアルベルトは肩をすくめた。 「すまない。いってみただけだ。何しろ私も現物を分析したことがない。真実はただの見落とし、あるいは誰かが死体を隠したか、だろうな。そのモードとやらは、レイコフを実際に殺した者を表に出したくなくて嘘をついたんじゃないか」 「そちらの方がありそうです」ハミルトンが同意する。  僕は黙って聞いていた。クルトが僕をちらりとみた。気の進まない様子でためらいがちに続けたのは、僕が彼に頼んだせいだろうか。サージュを助けてくれと。 「俺が最後にみたとき、彼の背中には翼のように――暗黒が広がっていたんです。たぶんただの幻ですが……それに俺は何度も彼を治療したから、あの体がどれだけ壊れていたのかはよく知っています」 「あの男はしぶとい」  アルベルトはなだめるような声でそういったが、クルトは首をわずかに振る。 「彼がいなかったら、俺たちは〈本〉を破壊できませんでした。それは確かです」  聞いたとたん、白髪の老学者は眉をつりあげた。「なに?」  僕はあわててつけくわえる。 「ええ。僕とクルトで〈本〉は破壊しました。あれは……消滅して、この世にありません」 「そうか!」アルベルトは手を打った。 「ではソール、おまえはやりとげたのだな。なぜそれを先にいわない。まったく……」  アルベルトがサージュの話を打ち切ったのは彼が薄情だからではない。僕にはわかっていた。質問に答えて〈本〉とランダウの話をしながら、心の片隅で、サージュがどこかで生きていればいいと願った。どんな姿でもかまわない。僕がこんなことを思っていると知ったら、サージュは甘すぎると笑うだろう。唇をゆがめて、皮肉な眼つきで僕をみるだろう。 「それでは本当にその――例のブツは消滅したと? それどころか果ての塔の崩壊もそれが原因だと?」  僕の話を聞き終えたハミルトンがつぶやく。焦ったように視線がひょこひょこと左右へ動く。 「これは大変だ。早く報告――いやいやそれだけじゃない、クルトさん。精霊魔術でさっさと学院に知らせてください。何しろいまの王宮は、アピアン殿下による棚卸しの真っ最中でしてね」

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