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【終章 果ての塔から響く歌】5.草の歌

 花こそ供えられていなかったが、石の墓標はきれいに磨かれていた。ソールは父親の墓の前で頭を垂れている。あまりにも長いあいだじっとしているので、いささか心配になったクルトはその背に触れる。伝わってくる感情が悲嘆でないことにまず安堵する。  ソールは思い出していたのだった。父と自分のあいだにあったことを、静かに、淡々と。 「ライリーがいったことなんて気にしなくていいのに」  ソールの故郷の村は冬の閑散期だった。父親の墓参りへ行く前にソールは従妹夫婦の家を訪ねたのだ。夫のライリーこそ不在だったが、ネッタは多忙でもなく、驚きはしても穏やかにふたりを迎えてくれた。村は静かで、ソールの父が亡くなった時の不穏さもなかった。  とはいえネッタはソールの求める書類を前に困惑した表情だった。自分の名義になっている祖父の家をネッタに譲ろうとソールが伝えても、なかなか首を縦に振らない。 「いや、あの家はきみのものになった方がいい」ソールは淡々と話した。 「名目上の管理者になっている母の気苦労も減るし、今後はネッタが好きに使えばいい」 「でも、ソール。あそこがなくなったら……」  あなたは二度とここには戻ってこないんじゃないの? というネッタの心の声は、ソールと父親のいきさつを知っていればクルトでなくても予想できたにちがいない。しかしソールは微笑んで首を振った。 「心配いらないよ。母もいるし、きみを訪ねてまた来る」 「ほんとに? 十何年も帰らなかったのに?」 「……ごめん」  ソールはきまり悪そうにうつむいた。ふたりはしばらく黙っていたが、最初に微笑んだのはネッタの方だった。 「わかった。ソールはなんだか、前に会った時とはちがうみたいだから、信じるわ。それから次に帰ってきた時はシェリーのところか、うちに泊まること」  ソールはうなずいた。 「ああ。約束するよ」  景色は冬枯れているものの、ソールの故郷の川では青い水が悠々と流れている。村で一泊した翌朝、街道沿いの町へ行く乗合馬車を使っているのはクルトとソールだけだ。馬の蹄は軽やかな音を立てているが、乗り心地は良いとはいえない。 「まっすぐに王都へ戻ろうか?」  クルトの声にソールは一度うなずいたが、返事を迷っているのがわかった。 「実はもう一か所――行きたい場所がある。遠回りになるが……」  どこへとソールはいわなかったが、クルトは気にしなかった。遠回りはむしろ歓迎だ。王都にはどうせ戻るのだし、そうしたら何かと忙しくなるに決まっている。ソールは体調を崩す様子もなかったし、ふたりで移動するだけの旅の時間はゆったりと落ち着いていた。これがもう少し長くなったところで、クルトに不満は何もない。 「かまわないさ。ゆっくり戻ろう」  その日は街道沿いに村や町をたどり、西方への分岐点で宿をとった。町は賑やかで、大通りの脇には出店がたくさん並んでいる。クルトは屋台を適当に冷やかして歩いたが、ソールはそわそわと落ちつかない様子だし、道もろくに見ていない。魔力が回復したせいか、彼は以前のように人混みにおびえないし、つまづくこともほとんどない。  とはいえ考え事に気をとられている姿はやや危なっかしく、初めて訪れた町なのも手伝って、街路を歩きながらクルトは恋人の手を握ったが、ソールは気にもとめていない。逆にクルトの手のひらを握り返してくる。  意外な喜びと驚きにクルトの胸は跳ねたが、ソールが無意識にこうしているのなら余計なことはいわないに限る。そのまま手をつないで歩いていると、ソールの向こうの屋台から野太い男の声がかかった。 「そこの兄さん、あんた」  クルトは声の方に眼をやり、先を行こうとするソールをひきとめる。 「何?」 「ちょっと見ていこう」  つないだ手を引いて屋台に向き直ったとき、ソールは初めて気がついたような顔でそっとクルトの手を離した。板の上に見慣れない形のガラスランプがずらりとならび、上からは色とりどりの組みひもがぶら下がっている。屋台の男は大柄の髭面だが、年はクルトと変わらないくらいのようだ。気のいい笑顔を浮かべてソールの髪を指さしている。 「兄さん、旅の人? そんな味気ない皮ひもじゃもったいない。せっかくなんだ、見ていかない?」  男の髪は黒く長く、朱と緑の組みひもで結わえられていた。 「俺がつけてるこいつは商売繁盛と安全祈願。西の方では古くからのお守りですよ。こっちは恋人を呼ぶお守りで、こっちは……」 「その青いのは?」  クルトは眼に入った一本を指さした。男はうなずいて取り出してくれた。濃い青に黄緑の細い筋が入っている。 「平安と幸福。はずれがないやつ」 「これにしよう。ソール、失くした髪留めの代わりだ」  屋台の男はクルトの言葉にうんうんと首をふった。 「そうか、失くしたんだな。それなら新しいのがいるね」勝手に合点し、自分の頭を指さして結び目をしめす。「青はあんたの髪色に合う」  クルトはもう財布を取り出していた。たまに、ソールに身につけるものを与えたくてたまらない時がある。ソールは受け取ってくれるが、高価なものはめったに身につけずにしまいこんでしまう。  自分はソールにしるしをつけたいのかもしれない。自分と繋がっているというしるし。そんなものはなくても大丈夫だとクルトの理性は口を出すが、ついつい欲しくなるのだった。ソールはクルトをいささか呆れたような眼で見たが、結局組みひもを受け取った。 「やっぱり、似合いますよ」  屋台の男は笑顔をみせ、クルトは形ばかりの値切り交渉をして代金を払った。視野の端を警備隊の制服が横切る。ヴェイユは盗賊団に気をつけろといったが、これまでの道中、クルトの感覚に胡乱な思考の持ち主がひっかかったことはない。とはいえ、小銭をやりとりしながらあたりを観察するくらいの注意なら、クルトはつねに怠らなかった。  ときおりソールが不用心に感じられるせいもあったのだろう。商売人としての経歴ならソールの方がクルトよりはるかに長いのだが。それとも、貴族の生まれであるにもかかわらず、クルトが市井で何年か治療師の仕事を経験したためだろうか。  唐突にアピアン殿下の書簡をクルトは思い出した。そこには『治療師の眼力は信頼に足る。王国に戻ったら話を聞かせてくれ』と書かれていたのだった。そういうものだろうか。 「西方のお守りね」  ソールは結んだ組みひもが気になるらしい。宿へと歩く最中も、首のあたりに垂れた紐の先端に触れている。 「寄りたい場所というのは、西?」  クルトはたずねた。 「ああ……そうだな……ランダウの故郷が西にあるんだ。でも僕は……一度も行ったことがない。出身地の話は昔よく聞いた」 「家族がいるだろう。会いに行こう」  ソールは迷っているようだった。 「行けばきっと――墓標はある。でも遺骨はない。すべて燃えてしまったから。〈本〉は何一つ残さなかった。ただ、僕はむかし……休暇にたずねると約束した」 「それならなおさらだ。明日出発しよう。王都へ戻るのはそのあとだ」  気軽に答えたクルトの言葉はソールにどう働いたのだろう。そっと手を握ると恋人は手を握り返し、今度は離さなかった。 〈本〉を消滅させたとき、ソールに一時的に戻った強大な魔力は、今の彼にはほとんど残されていなかった。それでもかつてソールの精神を覆っていた強固な防壁がなくなった今、彼はクルトの魔力を受け入れることができるし、常人なみか、あるいはちょっと多いくらいの魔力はある。  クルトが抱きしめてキスをするとき、それが一番はっきりする。宿屋の狭い一室でも、ふたりきりになれば好機だ。おまけにソールは明らかに前より敏感に反応する。レイコフの薬によってもたらされた不均衡を治すため、クルトがせっせと魔力を注いだせいか。  というわけで、新しい楽しみができたとばかり、クルトは恋人の体をさぐっている。ソールが顔を上気させ、唇を噛んで声を殺していると、喜びがぞくぞくと背筋をかけあがる。これは子供っぽい独占欲じゃないはずだ。汗ばんだ肌を抱きながらクルトは思う。たとえ念話で通じあえなくても、体を重ねているあいだずっと、言葉にならないソールの声が聞こえてくる。 「――ごめん」  衝動にかられてクルトはつぶやいた。 「ん?」  ソールは裸で敷布の上にうつ伏せになり、クルトの肩のくぼみにひたいをつけている。その髪を指で梳きながらクルトはぼそぼそと告白した。 「俺はずっといろんな男に嫉妬してた」 「え?」 「その……レナードとか」  それにサージュやランダウに。だが彼らの名前は口に出さない。 「何をいってるんだ」  クルトの肌に、ソールの笑い声が小さな振動となって響く。 「そんなことあるはずないだろう。嫉妬なんて…それなら」ソールは顔をあげて何かいいかけたのに、急にやめた。 「それなら何?」  クルトは気になってつっこんだが、ソールは恥ずかしそうに眼を伏せてしまう。 「……なんでもない」 「教えてくれ」 「なんでもないんだ。西に行っても今は何もないな。夏は草が茂って、羊を放し飼いにするらしいが……」 「ソール、ごまかさないで」 「いいたくない」  ソールはもぞもぞと動いて顔をそらしたが、クルトは逃すまいとつかまえる。ソールが嫉妬する隙など作るつもりはまったくないのに、彼のこの表情は見たかった。やはりただの独占欲かもしれなかった。  買ったばかりの青い組みひもは枕の端で丸まっている。あれでソールの手首を結んで――縛ってみたい誘惑にかられる。 「クルト?」  ソールは怪訝な眼つきだ。クルトは微笑んだ。 「なんでもない。今度ね」 「何が?」 「なんでもないって」  不満な顔を無視して口づけを落とすと、巻きついてくる腕に心が安らいだ。

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