65 / 72

エピローグ 波の歌

「必要なのは『精緻』と『慰め』。ほかには? なんだね?」 「あ、いえ。あなたが店主なんですか? カリーの店の……」 「まさか。ソールさんは奥だ。今は忙しくてね」  階段の一番下へついたとき、表の方からそんな話し声が聞こえてきた。僕はあわてて歩いていき、片手をひらひらさせて店番の注意を引く。指についたインクの染みが目立つかもしれない。もともと手を洗うために降りてきたのだ。 「クリス、僕なら大丈夫だ。何?」 「ソールさん」  店番のクリストフが僕の方をふりむき、彼の前に立った学生も僕をみた。店内には他にも学生服を着た若者がちらほらいるようだ。 「あなたがその……?」 「ソール・カリーだ。相談でも?」 「あ、いえ、そんなわけじゃ……」  どういうわけか学生は口ごもった。 「一度お顔を拝見したかったので……あ、できれば今度相談したいことも。その……」 「もし店にいなかったら、学院の図書室で聞いてみてくれ。週に一度は行っているから」 「は、はい。最初はそちらでお見かけしたんです。顧問をされているとかで……」 「そんな大げさなものじゃない。手伝っているだけだ。精緻と慰めか。精霊魔術の基本だから、まずはこれをしっかりやることだよ」 「はいっ」  今度の返事は元気がよく、僕はクリストフにうなずいて手を洗いに奥へ行った。店の表にもどってくると、さっきの学生は友人らしき別の学生と連れ立って店を出るところだった。ちらっと視線が僕の方へ流れ、眼が合うと小さく会釈した。 「あいかわらずですね」  クリストフがやれやれ、といった口調でいう。 「何が?」 「毎日どれだけの学生が、店主はいるかと俺に聞いてくるか知らないんですか? 連中、本を買う気がなくても店主を確認したいんだ」  僕は意味がわからずに聞き返した。 「なぜ?」 「なぜってそりゃ、カリーの店とその店主が学院では伝説だからですよ。今からこの調子じゃ、秋の試験前はもっと学生がくるでしょうね」 「というと?」 「験かつぎですよ。ソールさんは精霊魔術の学生にとって幸運のお守りみたいになってるんです。知らないんですか?」 「知るわけないよ」  僕は吹き出した。たしかに王立学院の学生にとってカリーの店は昔から伝説的な場所ではある。先代のカリーの頃からそうだった。にしても、僕が試験のお守りとはずいぶんな持ち上げようだ。ヴェイユが聞いたら眉をひそめるにちがいない。 「今日はずっと店にいますか?」 「ああ。上にいる。何かあったら声をかけてくれ」  僕はまた階段をあがった。仕事机は大きな窓の横にあって、反対側には書類がぎっしりつまった書棚が控えている。座って路地を見下ろすと、街並みを彩る新緑がまぶしい。どこかで鳩が鳴いている。  果ての塔から王都へ戻ってきたとき、春はまだ遠かった。季節が過ぎ去る速さに僕はふと心を打たれた。  カリーの店の階上を僕の仕事部屋として改装したのはついこの前のことである。窓際にあった小さな寝台は運び出し、かわりにこの大きな机をクルトがどこかで買いこんできた。彼は同時に小さな町屋敷を借り、僕らはいまそこで暮らしている。  カリーの店と隣国の二号店はあいかわらずレナードとの共同経営だが、僕はやはり「カリーの店主」だった。ただし春からはアダマール師の推薦で学院の図書室の相談役を引き受けて、週に一度は学院へ通っている。クルトもあいかわらず治療師の灰色のローブを着ているが、春から教師の指導助手の仕事に就き、また学院へ通いはじめた。  何色のローブを着ていようが、クルトはやはり人気者のようだ。 「指導助手は師ほど恐ろしくないからな。話しやすいんだろう」  クルトはそんな風にいうが、たまに学院の中庭で学生と談笑している様子をみると、それだけとも思えない。  もっともカリーの店の周りにいる人々には、僕らの生活はたいして変わりなく感じられているかもしれない。僕にとって世界がひっくり返るような変化があったことなど、ごく親しい人々をのぞいて誰も知らないからだ。  カリーの店の二階に置いた大きな机は使い勝手がよく、僕はいつのまにか書き物に夢中になっている。突然伝声管からクリストフの声が流れた。 「ソールさん、クルトさんが来ましたよ」  僕はペンを置き、凝った腕と肩をのばした。背後で足音が聞こえる。温かい手のひらが僕の肩をつかみ、ゆるくもみほぐす。じんわりと伝わる心地よさに僕は眼を閉じる。 「ときどき休憩しろっていっただろ?」  頭のうしろで呆れたような声がいった。 「いま休憩してる」 「まったく、ソールはいつだって働きすぎるんだ。クリストフはもう店を閉めるぞ」 「そんな時間か?」僕は窓の外をみる。「気づかなかった」 「まったく、これだから」  ふりむくと緑色の眸が笑っている。 「ソールの働きすぎは永遠に治らないな」 「いずれきみが治してくれるさ」 「そう願う」  僕は作業を切り上げ、クルトと一緒に店を出た。並んで歩く商店街には美味しそうな匂いが漂い、僕ははじめて空腹に気づいた。クルトがそんな僕に「それみたことか」という顔をする。  ふたりで暮らす町屋敷はたいして広くもないのだが、僕はまだこの空間に慣れていない。とはいえ寝室にゆとりができたのはよかったと思っている。クルトと並んで寝台に寝そべっているときも、狭いのではないかと気に病むこともない。 「北方連合と隣国との交渉が成功したそうだ」  枕に頭をのせてクルトがいった。 「王国があいだに立ったのか?」と僕はたずねる。 「ああ。まだ秘密だが、いずれ正式な貿易協定を締結するらしい」  果ての塔へ僕が連れ去られた経緯には王国内部の裏切りもからんでいた。僕が〈本〉を破壊するのに成功しようが失敗しようが、ダーラム師の背反は王国の内紛にもつながりかねないものだった。王宮は慎重な舵取りを行ったが、世間にはすべての事情が明らかにされたわけではない。だがクルトは未公表の情報を僕にそっと話すことがある。彼はいま王宮のアピアン殿下と近いつながりを持っているらしい。  つい先日、お忍びで殿下が腹心の騎士――レムニスケート家のセルダン――とカリーの店を訪れたことがあって、僕は正直いって肝を冷やした。その時は貴族出身のクルトがその場にいて助かったと心の底から思ったものだ。彼の物怖じのなさは時にとてもありがたい。 「隣国か。海辺の村は――どうなっているだろう……」  僕はつぶやくが、あくびで言葉は曖昧になる。クルトの手が僕の前髪を撫でた。 「村の学校、アルベルト師が見てるって?」 「ああ。村人の相談役もね。今日アナから手紙をもらったよ」  僕は海辺の村の子どもたちの顔を思い浮かべる。 「ちょっと心配している。アルベルトの弟子になったというんだが」 「なるほど、見どころのある子どもを弟子兼使い走りにする代わりに学校もやるって話か。誰が説得したんだろう?」 「だいたい予想はつくが――」  僕はそういいかけたものの、眠気に負けて眼を閉じた。波の音を聴きたいとふと思った。寝台の横には、以前僕の個人的な興味で集めていた本がまだ整理されずに積んである。その中には波の力学について書かれた書物もあるはずだ。真夏の浜辺の夕暮れは美しい。水際に立つと、はだしの足をつつむ砂を波がゆっくり崩していく。 「夏の休暇はあの……村で過ごしたいな……」  眼を閉じたまま小さくつぶやくと、クルトの吐息がすぐ近くで「そうか?」とささやく。 「ああ。あの別荘――まだ使わせてもらえるなら……」 「大丈夫だろう。ほかには?」  クルトの問いに僕は眼をあける。彼の眸がすぐ近くにあって、唇も頬に触れそうな距離だ。 「ほかにって?」 「ほかに行きたいところは?」 「そうだな……」  行きたいところ。僕の頭の中をいくつかの風景が揺れる。書物でしか知らない、真夏でも雪に覆われた高山や熱帯の植物が育つ森、大洋を渡る大型船……そして昔ランダウが話してくれた西方の夏のこと。丈高く草が生い茂り、綿のような羊のあいだを犬が走って行く。 「ソールは行きたいところへいけるんだ」  クルトがまたささやく。僕はまた考えをめぐらそうとして、ふとあることを思いつく。 「クルト、きみが行きたいのは?」  クルトは眼を瞬いた。一瞬だけ間があいた。 「ソールが行きたいところ」 「そんな答え、反則だ」 「本当なんだから仕方ない」  頬に触れていた唇が唇にかさなり、僕らはながいキスをする。触れあったところから暖かい波のように、よせてはかえすものが伝わってくる。ながいながい歌の最後のリフレインのようだった。歌の波に抱かれながら、僕は遠くへと送りだされていく。

ともだちにシェアしよう!