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【番外編】窓の外の君 1
夜明けの白い光がカーテンの隙間から差しこんでいる。
僕はぬくもりの中で目覚めた。毛布のなめらかな感触を肌に味わいながら寝返りをうつ。とたんに背中があたたかい――ほとんど熱いくらいのぬくもりに触れる。すぐ隣でクルトが眠っているのだ。
僕はまた寝返りをうつ。クルトは仰向けのまま穏やかな寝息をたてている。閉じたまぶたがかすかにふるえる。夢をみているのだろうか。口もとがうっすらと微笑みのかたちを作るが、起きる気配はない。
最近の僕は格段に寝起きがよくなった。今だって、せっかくすっきり目が覚めたのだからさっさと起き上がればいい。一日は短いのだ。でも毛布の外側は冬の冷気に覆われているし、規則正しいクルトの呼吸は僕を誘惑する。まだ夜明けだ。もう少しだけ――
そう思ったとたんクルトが寝返りをうった。腕が僕の肩に回り、薄い肌着一枚の胸元に抱き寄せられる。髪を撫でられ、耳の裏をまさぐられ、足を絡められた。おたがいの朝の緊張を押しつけあうようになって、僕はたまらず腰を揺らす。ふいに麝香のような香りがたち、顎をもちあげられる。みあげた僕はクルトの緑の眸に射すくめられた。
「おはよう、ソール」
「……おはよう」
急に恥ずかしくなった。僕は顔をそらそうとするが、クルトは許さない。そのまま唇を重ねられ、舌を絡められる。肌着の下に手がもぐりこみ、キスのかたわら僕を責めたてにかかる。
「クルト――もう朝……」
「仕掛けてきたのはソールだろう?」
「そんなつもり……」
「俺、今晩は帰れないから」
耳を舌でなぞられながらささやかれて、僕はあっけなく陥落した。
冬祭りが近づいているが、王都はまだ雪が降らない。ここ何日かはひどく乾燥し、底冷えする晴天が続いている。それでも僕とクルトが暮らしている城下の家は快適だった。カリーの店からも遠くない古い小さな町屋敷は昔ながらの路地と塀に囲まれ、冷たい風から遮られている。
今年の春から夏、秋と過ぎた季節はとても穏やかな日々の連続だった。昨年の夏から僕の身に起きた激動を考えると、いまだに信じられないような気分になる。
もちろん毎日をすごしていくなかで、ちょっとしたいさかいも含めて、小さな事件はいくつもあった。でも今の僕は冬祭りの準備で街の人々が浮足立つ様子を眺めながら、ふつうの生活が送れる幸福にひっそりと浸っている。
だいたい、僕が王都の冬祭り――一年の終わりを前に城下の住民が羽目をはずす三日間――をこれほど楽しみに感じるのは、いったい何年ぶりのことだろう? ランダウを亡くしてから長いあいだ、王都の冬祭りは僕にとって苦痛でしかなかった。人々が浮かれる喧騒のなかで、孤独とむなしさをかかえたまま取り残される行事だった。
でも今は取り残されることはない。ここにはクルトがいる。
「ソール、今日は?」
「図書室の日だから、学院へ行く」
そのクルトはあわただしく朝食を食べて、大急ぎで支度をしている。夜明けに眼をさました僕らはあのあともう一度眠ってしまったから、いまさら慌てているわけだ。僕はクルトとちがってのんびりしたものだった。カリーの店はクリストフが見てくれることになっていた。
いつもならクルトも一緒に学院へ行っただろう。春以来、彼はアダマール師の指導助手に任命され、学生に精霊魔術を教えていた。だが今日のクルトは森の施療院へ行くことになっていた。すこし前に西で流行り病がおきた影響で治療師が足りておらず、臨時で数日入ってくれと要請されたらしい。
そう、僕にとっては安寧な日々でも、世界のすべてが平穏なわけではない。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
クルトを見送ってまもなく、僕も支度をして街に出た。
澄んだ冬の光に照らされ、石畳がぴかぴかと輝いている。王都の住人は街路や窓を磨いたり、冬祭りに備えて飾りつけをするのに忙しそうだ。大通りの商店は回路魔術を使って、陳列棚に通行人が足をとめるような仕掛けをほどこしているし、路上の屋台は香りのいい常緑樹を飾っている。それにいまの僕には回路をめぐる〈力のみち〉もうっすらと感じとれた。
昔持っていたほどではなくとも、ひとなみの魔力を取り戻したおかげで、王都はどの季節も以前とはちがってみえた。春も夏も秋も、そしていまも、僕は道を歩きながら新しい発見に眼をみひらく。街を歩くために特別な眼鏡をかけたり、喧騒に圧倒されたりすることがなくなったから、というのもあるだろう。わき見をしたときふいに眼に入るもの――路地に射す光や、石壁の上に枯れた蔦がつくる模様、そんなささいなものにもはっとさせられることがある。
王立学院の門の向こうでも同じような発見がいくつもあった。学生のころ慣れ親しんだ石の壁や寄木細工の床、窓枠の模様に気づくと、懐かしさがこみあげるのと同時に、いまはじめてみるもののような驚きも感じる。時には、理由もわからず胸をぎゅっとしめつけられるような気分になることもあった。
学院にはお気に入りの場所もあった。一年中どこかで花が咲いている庭園で、一方は学院の建物に、残りの三方は塀に囲まれている。冬でも花が咲くのは精霊魔術の修業もかねて学生が交代で世話をしているからだ。
魔力を使って植物の成長を助け、花を咲かせるには〈力のみち〉の感受性を十分に鍛えなければならないし、繊細な技術も必要となる。担当する学生は競って大輪の花を咲かせようとするが、教師は庭全体の均衡を考えるようにしつこく諭すのが常だった。
晴れた日の休憩や仕事の終わり、僕はよくこの庭に立ち寄った。今日も午後の休憩に寄ってみると、先週は蕾だった薔薇のしげみが満開となり、甘い香りを漂わせている。僕は慎重に草花のあいだの小道をたどる。建物の壁には大きなアーチ型の窓があり、鉄の枠がはめこまれていた。透明なガラスの向こうに人が座っている。あそこは教室なのだ。昔、僕も座っていた。
僕は薔薇のあいだに立ち止まり、ぼうっとして窓をみていた。学生はみんな前を向いている。まだ授業が続いているのだろう。教師の姿はこの位置からはみえない。
(きみがいなくなっても教室はそこにある)
何年も前にクルトに告げた言葉をふいに僕は思い出した。
けれど僕は今また、ここにいる。
この学院を去り、何者でも――学生でも教師でも学者でも――なくなったはずなのに、僕はまたこうして教室と、その中に座る人々をみていた。
奇妙な身軽さを感じて、僕は不思議な気持ちでぼうっと窓をみつめていた。僕はもう彼らを羨ましいとも、寂しいとも感じていなかった。不思議な気分だった。彼らには彼らの未来があり、僕には僕の未来がある、そんなことを考えただけだった。
どのくらいそうやってその窓をみつめていたのだろう。ガラスのすぐそばで人影が動いた。鉄の枠のあいだに顔がのぞく。丸い眼、くるりと巻いた短い髪。もちろん知らない顔だ。視線は明らかに僕をみている。
しまった。邪魔したにちがいない。僕はあわてて窓から視線をそらした。薔薇のしげみを踏まないように気をつけながら、急いで庭から立ち去った。
ところが、その教室にいた学生はあとで僕を追ってきた。声をかけられたのは一日の仕事を終わり、図書室を出たときのことだ。
「ソール先生!」
「あいにく僕は教師じゃない」
僕はそういいながらふりむき、記憶にある顔を見てぎょっとした。学院の制服を着て、斜めから鞄をさげている。
「きみは――あの教室の」
「はい。テッドといいます」
「今日は……すまない。邪魔だっただろう」
「まさか。とんでもない」
テッドという学生は他の学生よりかなり年かさのようだった。クルトと同じくらいの年齢にみえる。あの教室で学ぶのは初学年のはずだが――そう思った僕の疑問を理解したように(実際理解したのかもしれない、あの教室にいるのは魔術師の卵なのだ)テッドは笑って続けた。
「僕は他のみんなとは年がかなり離れているんですよ。それにもともと精霊魔術師になれるような素質はないんです。田舎の施療院で雑用をやっていたんですが、もう少し魔力を使えるようになりたくて、科目履修生として来たんです」
「ああ、そうなのか。大変だね」
「たまに図書室でおみかけしていたんですが、よくその……あの窓でも見るので」
つい話しかけたくなってしまって、とテッドはいった。秋から庭の担当にもなったらしく、いろいろと苦戦しているらしい。
「図書室で植物のための魔術についてもっと勉強したいと思っているんですが、どこから手をつければいいのかわからないんです」
「ああ、だったら――」
僕は生育に関連した魔力制御の概説書を二冊、それに基本技術を反復練習するための手引きと、それぞれの題名をあげた。テッドは驚いた顔をしたが、即座にノートを取り出して書きとった。僕の記憶力が健在なのはありがたい話だ。これがあるから図書室でも役に立つし、カリーの店の評判も維持できる。
「ありがとうございます! もうお帰りですか?」
「今日はね」
「もう少し話を聞かせてもらってもいいですか」
僕らは並んで学院の門に向かって歩き、外に出てからも歩きながら話をした。科目履修生のテッドは寄宿舎住まいではなく、城下に下宿を借りているという。よくよく話を聞くと、故郷の施療院では単なる雑用にとどまらず、物資仕入れや運営にも関わっていたらしい。道理でふつうの学生とはくらべものにならないくらい世知に長け、商売の実情に通じているわけだ。
「魔力がほどほどだから治療師になるのは無理だといわれましたけどね」
とテッドはいった。さばさばした口調だった。
「僕は業者と仕入れ値でやりあったりするのが楽しいから、このくらいでよかったと思ってますよ。ただもう少し、この『ほどほどの魔力』をうまく使えないかといわれまして」
そんな風に割り切れるのならいいものだ。僕はすこしだけこの男を羨ましく思った。
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