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【番外編】窓の外の君 2

「テッド?」  反射的にききかえしながらクルトは真紅の林檎にナイフを入れた。  割れた果実の中心には蜜がぎっしり詰まっている。施療院を出るときに院長のカルタンが林檎の籠をくれたのだ。  わざわざ来てもらった礼だといわれたが、籠には片手で持てないほど林檎が詰められていて、どうみてもひとり分には多すぎた。クルトをねぎらうだけでなくソールにあてた贈り物でもあるのだろう。カルタンは長年ソールの秘密を知っていた友人で、主治医でもあった。 「ああ。科目履修生だそうだ。知っているか?」  クルトのすぐうしろで、椅子に座ったままソールがもう一度たずねた。彼が学生の名前を口にするなどめずらしいこともあるものだ。 「名前は聞いたことがある。顔をみたことはないと思う」  クルトはふたつに割った林檎の半分をソールに渡した。自分は横に立ったまま、もう半分に歯を立てる。爽やかな歯ざわりに蜜の甘味がまざりあう。部屋は十分に暖められ、外の寒気から守られていた。暗い夜でも、恋人と閉じこもって林檎を齧るには嬉しい季節だ。 「どうしてまた?」  今度はクルトがききかえすと、ソールは林檎を齧るのを中断した。 「学院で会ったんだ。庭園の植物に苦戦していると聞いたから、植物育成について何冊か紹介した」 「庭で手こずる学生は多いぞ。司書に聞けばすぐわかるのに」 「図書室じゃない。その庭園で会ったのさ」 「庭で?」  意外な返事にクルトは眉をあげる。クルトにとって、庭園は昔も今も気にかけるような対象ではなかった。何しろクルトは植物育成に手こずったことなどなかったし(だから学年最速で実習を終わらせた)おまけにクルトの魔力は動物と相性がよく、動物避けを張りめぐらせた庭はどちらかといえばあまり面白くない場所なのである。ところがソールはクルトが思ってもみなかった言葉を続けた。 「あの庭、好きなんだ。晴れた日はよく行くんだが、教室の窓に面しているだろう? たまたまテッドと眼があってね」 「そうなのか。知らなかった」  ソールは砂色の巻き毛をゆらし、はにかんだように小さく笑った。 「いちいち話すようなことじゃない」  たしかにそうかもしれない。しかしクルトは不満を感じた。もちろんソールに対して感じたのではなく、ソールが好きなものを知らなかった自分を歯がゆく思ったのである。王立学院はソールと自分双方にとって、故郷のような意味をもっている。それなのに恋人が好きな場所も知らなかったとは。 「で、そのテッドは?」  あらためてたずねるとソールはこともなげに答えた。 「すこし話したんだが、ふつうの学生よりずっと上でね。きみとおなじくらいらしい。出身地の施療院で雑用をしていたというが、きちんとした印象だったから、きみも知ってるかと思っただけだ。運営や仕入れに詳しいようだった」  なるほど。クルトのなかで何かが符合する。自分とおなじくらいの年齢で、長く働いていて、実際的な人間ということか。王立学院のほとんどの学生はもっと若く、世間を全く知らない者も多いから、テッドという男はその中では目立つにちがいない。  いやまて。落ちつけ。  クルトの頭はさらに高速回転した。ソールに近づく男すべてにくだらない嫉妬を感じる必要はない。とにかく今の問題は、俺がソールの好きな場所を知らなかったことだ。 「それで科目履修生に?」  クルトは何事もない口ぶりでいった。 「治療師の基準には魔力が足りないらしい。基本的な訓練の方法を学びにきているみたいだ。そういう学生を時々受け入れるという話なら、ヴェイユに聞いたよ」 「ああ、それは知ってる。テッドに会ったことはないが、俺の担当とは分野がちがうんじゃないか」 「そうだろうな。それにクルトは庭の実習、あっさり片付けたんだろう?」  ソールはクルトの内心には気づかなかったようだ。指についた林檎の汁を舐めながら上目にクルトをみあげ、話題を変えた。  さてそんな出来事があったとなると、次にソールが学院へ行く日、自分も庭園へ行こうとクルトが考えたのはごく自然な成り行きだった。昼の休憩か学課の合間に行こうときめたのである。  生真面目なソールのことだ、きっと休憩時間や仕事終わりに立ち寄って息抜きをしているのだろう。クルトだって学院へ遊びに行っているわけではないが、ばったりソールと会えると思うと浮き浮きした気分になった。もっとも今のクルトにはソールの居場所を特定するのはしごく簡単なことだったし、これだけ見当をつけておきながら「ばったり」というのもおかしい。  しかし思い返してみると、ソールに出会って恋心を自覚した当時のクルトは彼と「ばったり」出会えないかとしょっちゅう夢想したものだった。あのころソールは審判の塔の書庫へ通っていたから、最終学年だったクルトは学課がほとんど残っていないのを幸い、ソールを探しに王城をうろついていたこともある。迷路のような地下書庫で砂色の髪をみつけると、文字どおり心が躍りだすように感じたものだ。クルトはくすぐったい思い出にうっとりする。  ところが昼の休憩は学生の質問に時間をとられ、庭園へ向かうことができなかった。クルトはソールの午後の休憩にあわせて行ってみることにした。ちょうどよく空き時間である。  庭園に入るのはひさしぶりだった。何年もまえ、はじめてソールに会った頃もクルトはほとんどこの庭に来なかった。たまに教室の窓から眺めていたくらいだろう。一年中花が咲いているとはいえ、冬のいまは散策する人も少ないだろうから、短い時間でも恋人とふたりきりになれないか――というクルトの想定は、庭園に入るまえからさっそく外れた。まだ誰の姿もみえないうちから、クルトの感覚にはソールの他にもうひとりの人物が感じとれた。 「さっそく勧めていただいた本を読んでいます。もっと早く質問するべきでした」  すぐに陽気な男の声がきこえた。こたえるソールの声はもっと小さい。 「庭園に手こずる学生は多いらしい。教師にもっと事細かに聞いていいんだ」 「そうですね。でもあなたに会いましたから」  ソールは窓のそばに立っていた。その横にいるのが話に出たテッドだろう。上背のある男で、制服が窮屈そうだった。きつく巻いた髪の毛を短く切っている。たしかにクルトとおなじくらいの年格好だ。ソールのすぐそばに立って片手に広げた本をのせている。  クルトは内心苛立った。ソールは一度読んだ書物の内容を忘れないから、そんな風に見せる必要などない。もっとも苛立った理由はそこにはなく、書物の幅ひとつへだてたくらいの距離にテッドがいるのが気に入らないというだけである。  ソールは書物について訊ねてくる相手にはあっさり心をゆるし、無防備になる傾向がある。それを悪いとはもちろん思わないが――クルトはふたりの方へ歩きながら思った。この場合はすこし気になる。いや、かなり気になる。ソールは例によって何も気づいていないが、このテッドという男、あきらかにソールに気があるじゃないか。クルトが意識して魔力をつかうまでもなく、ソールに向かっていく心の声が駄々洩れだ。  こうなるとクルトに迷いは何ひとつ生まれなかった。 「ソール、ここにいたのか」  堂々と割って入るとテッドがはっとクルトをみて、わずかに体をひいた。気配を消したわけでもないのだが、自分が近づくのにまったく気づかなかったのか。 「クルト先生」 「やあ、はじめまして」クルトはにこやかにいった。  テッドは意外そうな顔つきになった。クルトが自分を知っているとは思っていなかったのだ。 「ソールから話を聞いたよ。苦戦しているんだって?」 「ええ、はい」 「こういった魔術は個人の魔力量で可能な範囲が異なってくる。自分に可能な領域を理解したら、あとは数をこなして練習するのが大事だ。暇なときは俺も練習の相手ができるから、声をかけてくれ」 「はい――」  テッドはますます意外な顔つきになったが、ソールが微笑みながら「ひとりで練習するのは案外難しいからね」というと合点がいったようだった。 「僕は手伝いたくてもできないからな」 「いや、とんでもない。あの……」さっきまでの歯切れよい話し方からテッドの口調は一転している。「ここにいない日は書店にいらっしゃるんですか?」  ソールは気安く答えた。 「僕? ああ、いつもは店の奥か上で作業をしているが、用があれば呼んでくれればいい。僕が店頭にいるときもあるよ。カリーの店には図書室にない本もあるし、ちょっと面白いものも見せられる」  そのとき鐘が鳴りはじめた。次の学課がはじまる時間だ。テッドはちらっと窓の向こうの教室をみた。 「今度うかがいます。クルト先生もありがとうございます」  向き直ってそういい、丁寧に会釈すると急ぎ足で校舎へ向かう。 「きみはいいのか?」ソールがいった。 「今は空いてるんだ。ソールは?」 「僕は戻らないと。それにしても――」  ソールは言葉を切った。クルトが腕に手をかけたせいだろう。外へ通じる庭園の小道はふたりで並ぶにはぎりぎりの幅だ。体をぴったり寄せあわなければとても通れないのをいいことに、クルトはソールに腕を絡めて歩きはじめた。ソールは嫌がらずに歩調をあわせてくる。 「なんだ?」とクルトは聞く。 「学生を怯えさせるなよ」  クルトはきょとんとした。 「そうか? 俺は親切にしたつもりなんだが。それにテッドは怯えてなんかいないさ」 「そう――かな」 「ああ」  クルトは断言する。テッドがクルトの登場に驚いたのはたしかだろうし、いくらか気圧されていたかもしれない。でもけっして臆してはいない。クルトには明らかだった。ソールはうっすらと笑った。 「きみがそういうなら、そうなんだろう」 「ああ。なかなか度胸がありそうだ」  クルトはソールと腕を組んだまま薔薇のしげみを通りぬけた。別れるとき、花びらをかすったソールの袖から甘い香りが漂った。

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