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【番外編】薔薇の切っ先
王宮の中庭はゆったりとして優雅だった。植物は王立学院の庭のようにびっしり植えられているのではなく、青い芝生が広がるなかに薔薇の花壇が点々と散らばっている。中央のあずまやにからみついた茉莉花の白い花が甘く匂う。あちこちからかすかな魔力の共鳴を感じるのは、防備の回路魔術のせいだ。
僕はあたりをきょろきょろ眺めないように努力する。不審者に見えないように――というよりも、こんな場所に慣れない者のやぼったさを出さないために。でも隣を歩く薄灰のローブ姿のクルトは平然としたものだ。貴族の彼は宮廷に慣れている。最初に王族へ拝謁したのは十歳にもならない頃だときいたこともある。
とはいえ僕も、王宮に足を踏み入れるのがはじめてというわけではない。ここへ来るまでのあいだ視界に入った風景には、以前訪れたときの記憶と重なる部分もあった。
中庭は王宮のなかほどにある。ここからさらに奥は王族の私的な空間だが、王太子のアピアン殿下はこの中庭によく人を招く――と、これはクルトの説明だ。城下に店をかまえる靴職人や市井の回路魔術師も呼ばれると聞いても、僕の緊張は解けない。ただ、殿下に拝謁するのははじめてではない。というのも殿下は一度、お忍びでカリーの店にあらわれたからだ。
僕は不覚にも知らなかったのだが、アピアン殿下は神出鬼没の人として、昔から城下では有名らしい。まあ、僕はしょせんただの本の虫だから、実際に世の中で起きていることについては若い頃から疎かった。何しろ田舎から王都へやってきて、学院の事故のあとはカリーの店に閉じこもっていたのだから。
クルトはこんな僕とは正反対だ。治療師の彼を人々は頼り、自分の心配事から街の噂までさまざまなことをうちあける。つい最近、クルトはアピアン殿下に時々協力している、と教えてくれた。学院や城下で噂にのぼる事柄について、殿下の耳目になっているという。
そんな風に殿下と関わるようになったきっかけは、僕のなかにあった〈本〉とランダウの事件のせいじゃないのか? ――ということを僕はもちろん考えたが、クルトには訊ねなかった。
薔薇のあいだを歩くクルトの足取りに迷いはないが、庭園に招いた本人はどこにもみあたらない。いったいどこに――と思った時、姿がみえた。アピアン殿下はあずまやの手前で腰をかがめていた。まだ花が咲かない薔薇のつぼみをみつめている。
「この薔薇は『王女の薔薇』と呼ばれるものでね」
僕とクルトが近づくと気楽な口調でいった。
「アルティン王の第一王女――のちの女王が大切にしていた薔薇の子孫だ。枯らしたり、花が咲かないと陛下のご機嫌が悪くなる」
腰をのばして僕を正面からみる。痩せぎすで、背は僕とクルトより少し高い。
「ソール・カリー。来てくれて嬉しい」
「お招きいただきまして、大変光栄です」
「不躾に『カリーの店』を訪ねたのは私の方なのに?」アピアン殿下はにやっと笑った。「あの時は悪かったね。セルダンには止められたんだが、好奇心を抑えられなかった」
顔が赤くなったのがわかった。アピアン殿下がカリーの店にあらわれた日、僕はあまりに驚いてしまい、ほとんどまともに応対できなかったのだ。クリストフの方がましだったくらいで、あとで彼には「ソールさん、緊張しすぎですよ。高位の貴族と応対しても平気なのにどうしてです?」と不思議がられた。
殿下はあずまやに顔を向ける。
「あそこに座って話してもいいが、そうだな。王宮で見たい場所はあるかね?」
「見たい場所……というと」
「いや、クルトはよくここへきているが、きみと二人そろってというのははじめてだ。この際だから見たい場所があるなら案内しよう」
僕はあわてていった。
「めっそうもない。殿下にお目通りできるだけで十分なのに、そんな……」
「ソール・カリー」殿下がぴしゃりといった。
「きみは王国随一の才能の持ち主だ。腰を低くするな。私が禁じる」
僕は気圧されて黙った。王子はさらに続けた。
「〈本〉に関する一件はきみの能力があったからだ。きみは自分を過小評価しすぎるとクルトがいったのは真実だな」
僕は姿勢を正した。
「殿下。〈本〉については僕ひとりの力には負っていません。僕はずっとランダウとふたりでした。気づいていませんでしたが、彼の影というべきものを……この身に記憶していたので」
アピアン殿下は真顔で僕をみつめ、うなずいた。
「そうだな。ランダウ――親友だったとアダマール師に聞いたよ。ところで、いいかげん立ち話はやめよう。本当に見物したいものはないのか、ソール・カリー?」
もう一度たずねられて、僕はすこし考えた――というより、考えるふりをした。僕の心を感じとれるクルトにはとっくにわかっていたのではないだろうか。この庭に足を踏み入れてからずっと、僕はずっと、空の一角を気にしていたのだから。
「あそこへ……登ってみたいのですが」
おそるおそるそういって王宮の上をさすと、アピアン殿下は一瞬目を丸くしたが、すぐに得心したように微笑んだ。
「塔か」
「実は王立学院にいたころ一度、入らせていただいたことがあります。何しろ王城と城下を俯瞰できる唯一の場所なので、友人が……ヴェイユが許可をとりました」
王太子はうなずき、王宮の方へ手をふった。
「ああ、魔術師や学生にはときどき許可を出す。今でもね。喜んで案内しよう――こちらへ来なさい。クルトも嬉しそうだな。登ったことは?」
「俺は一度もありません、殿下」
「王国一の魔力を持つ魔術師が? それは片手落ちというものだよ」
歩きながらアピアン王子はちらっと左右へ視線を走らせる。
「そういえば最近は私も行ってないな。セルダン?」
「殿下」
音もなく影が僕を追い越し、殿下に並んだ。僕はラジアンに似た体格の大柄な男を見上げた。襟に騎士団の徽章はないが、ぴしりと身に着けた騎士服、伸ばした背筋に顔つき、それに短く刈った髪も、どうみても騎士以外の何物でもない。セルダン・レムニスケートだ。レムニスケート当主代理で、アピアン殿下の右腕。
殿下は愉快そうな目つきでレムニスケートをみた。
「セルダン、おまえまで登ると塔が壊れる、なんてことはないな?」
「いつもご冗談がお好きですね、殿下」
「おいおい、私はいつも真面目だよ」
「それこそご冗談でしょう」
言葉遣いこそ主君と臣下のものだが、ふたりの視線は親密に絡み、僕は思わずはっとした。クルトが黙ったまま僕の隣にならぶ。アピアン殿下は先に立って進んだ。
「そうそう、知っているか? 私も若い頃学院でアダマール師に教わった」
僕が想像していたよりもアピアン殿下はよく話す方だった。そういえばカリーの店を訪問されたときも殿下は質問をやつぎばやにくれ、おかげで僕はさらに緊張したのだ。
僕らはいま尖塔の石段を登っている。僕の足はだるくなってきたが、僕より年上のアピアン殿下は元気なものだ。セルダン・レムニスケートはもちろん、クルトはいうに及ばずである。きっと頂上へついたときへとへとになっているのは僕だけだろう。
それでもアダマール師の名前を聞くと黙っておれず、僕は反射的に答えている。
「殿下がアダマール師に?」
「私も十五歳から三年間、王立学院へ通った。精霊魔術というものを|王族《われわれ》は理解しなくてはならないと陛下に命じられてね。アダマール師はたいそう辛辣だったよ。私も当時は鬱屈していたし、なかなかつらかった」
僕は返事に迷った。
「当時のアダマール師はいったいどんな……?」
「今の師の能力と教養はそのままに性格を千倍尖らせてみたまえ。あのころは髪がいまのような白髪ではなくて……そうそう、眉毛だが」
アピアン殿下は階段の途中で急に立ちどまり、こちらを振り向く。
「白くはないが形は同じだ。眉毛とはそういうものらしい」
僕はムク犬を連想させる師の眉毛を思い浮かべ、吹き出しそうになった。
やっとたどりついた尖塔の天辺は首のあたりまで壁に守られた円い部屋のような形だった。頭上は中央に立てられた柱で丸い小さな屋根を支えているだけだ。屋根は雨風をしのぐものではなく、斜めに床へ落ちた影は薔薇の蕾を思わせる曲線を描いている。
屋根を支える柱にも足掛かりが刻まれていたが、登れば屋根の上へ出られるということか。あそこに座るなんて誰が考えるのだろう、僕なら目がくらみそうだ。壁には点々と物見の穴があけられていた。
この高さだと地上では感じなかった風も吹きつける。クルトがさりげなく僕の肩に腕を回した。ここからの景色は僕の記憶にある通り、圧巻だった。
真下に王宮の層になった屋根がある。城壁は王宮を薔薇の花びらのように囲みながらすこしずつ開き、しまいに一個の街のように広がる王城全体をぐるりと取り囲む。その先に広がる城下は箱庭のようだ。さらに目をあげると濃い緑の森となだらかな丘陵、そして地平線。
僕は目をすがめた。いまみつめている地上の景色に、ずっと昔みた地上の像が重なり合う。学生の頃のランダウとヴェイユが僕のすぐ隣に立っている。
(あれが回路魔術師団の塔だ)
ランダウがいった。
(王立学院はこっち)
僕は反対側を指さす。
(ヴェイユ、鴉は光るものが好きなんだよ、気をつけろ!)
ランダウが笑う。ヴェイユは上空を舞う鳥を気にしている。
「ソール・カリー? どうした?」
アピアン殿下の声が聞こえ、僕は我に返ってまばたきをした。クルトが僕の肩を引き寄せ、かわりに答えた。
「ソールは大丈夫です。今そこにランダウがいたんです」
「んん?」
アピアン殿下は眉をひそめたが、クルトは落ち着き払って続ける。
「ソールの記憶です。とても若いヴェイユ師もいました」
殿下は目を見開き、得心したようにうなずいた。
「そうか、きみにはわかるんだな」
そうだ、クルトは僕の心をよぎる像を視ることができる――僕は突然それに思い至った。クルトには僕の記憶が視えるのだ。僕が嫌だといえばそんなことはしないだろう。でも、望んだなら……。
僕はクルトの腕をほどこうとしたが、彼はちっとも離してくれなかった。あきらめて力を抜くとクルトは僕の肩を解放し、今度は手を握ってきた。
「隣国と争っていた頃、この場所には物見がいた」
遠くの地平線をみつめながら殿下がいった。
「レムニスケートの指揮下、兵士が交代で詰めていた。ゼルテンが回路魔術で最初の防備を作ったあとこの役目は不要になった。次にここに見張りが立ったのは疫病が流行ったころだ。陛下が即位する前のことだな。精霊魔術師と治療師が次々に亡くなり、施療院と念話がかわせなくなった。回路魔術師がここに立ち、観測用の回路を使って物見をやったという」
「その後は?」
好奇心にかられた口調でクルトがたずねた。
「幸いにして、危急の用には使われていない」
アピアン殿下は尖塔の屋根を見上げた。
「たまに回路魔術師が防備の魔術を確認に来る。あとは私とセルダンが暇つぶしに時々登るくらいだ」
「殿下」
ずっと黙っていたセルダン・レムニスケートがぼそりとつぶやいた。彼は大きな影のようにアピアン殿下のすぐ隣に立っている。ただ呼ばれただけなのに、王太子はセルダンに目線を流して首をすくめ、微笑んだ。声を出さずに言葉をかわしているようだと僕は思った。精霊魔術師でもないのに。
「正確には、私が暇つぶしに登るとセルダンがついてくる。ここは考え事をするのによい場所でね。地上は遠く、残るは風と鴉の声。そうだろう?」
呼ばれたように鴉の羽音が響き、黒い姿が屋根の下をくぐりぬけた。クルトが僕とつないでいない方の手を上に伸ばした。鴉はクルトの手に誘われるように壁にとまり、漆黒の目で僕らを見回しておもむろに羽づくろいをはじめる。セルダン・レムニスケートが呆れたような目つきで鴉とクルトを眺めた。
「これだから精霊魔術師というのは」
アピアン殿下が快活な笑いをあげ、クルトは緑の眸をきらめかせる。
「彼らは王城が好きなんですよ。今や彼らが王城の物見です」
「そうか。なるほど」
また風が吹いた。流れる雲の影が屋根の影に重なり、僕は記憶の中でかつてここにいた人の姿をみる。つないだままのクルトの手に力がこもる。羽づくろいを終えた鴉がものいいたげに僕らを見回し、首をぶるっとふるわせると一声鳴いた。
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