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【番外編】蜜を残すな
校舎の中に一歩入るとニスと塗料の匂いが鼻についた。開け放たれた窓からは潮の香りではなく樹皮と草の匂いが入ってくる。
「立派なものだ」
ソールが嬉しそうに蜜色に光る机を撫でた。クルトは恋人がそうやって喜んでいるのが嬉しくて、思わず笑みをうかべた。
真夏の昼下がりである。クルトとソールが久しぶりに訪れた海辺の村には以前と変わらないゆったりした時間が流れている。だが村の風景は多少変わった。村役場を囲んでいた共有地が整備され、道も広くなったせいである。きれいになった広場に沿って建てられたこの校舎は夏の初めにできあがったばかりだ。まはクルトとソールのふたりしかいない。鍵を開けてくれた村役場の助役は、呼び出しがかかったとかで途中で消えてしまった。
「これなら机や椅子の取り合いも起きないな。アルベルト師のごり押しもたまにはいい結果になる」
クルトがため息まじりにそういうと、ソールが小さく肩をゆらした。
「かなり騒がしい日もあったからね」
クルトとソールがこの村で暮らしていた頃、集まってくる子供たちにソールが読み書きを教えていた場所は、ふたりが暮らしていた別荘の階下だった。最初は数人だった生徒の数が増えれば、予期せぬ出来事やトラブルが起きることもあって、施療院から帰宅したクルトをソールがくたびれた表情で迎えることもあった。机と椅子が足りなくなり、小さな厨房の腰かけを使った日も、いまでは懐かしい思い出になっている。
もっとも村にこうして校舎が建てられる運びになったのは、教室の広さのためではない。ソールが王都に戻ったあとでこの村の教師をひきついだのは、岬に住む老学者のアルベルトだった。彼を説得したのはハミルトン――カリーの店の共同経営者でもある貴族、レナードの家令――だったが、アルベルトはこの機会を逃さず、あれこれ要求を出したという――十分な広さの教室を作ることから、自分の研究に必要な助手を確保することまで。
「アルベルト師は今日も岬に?」
「いや、数日前から留守にしているらしい。この校舎が使われるのは夏の終わりだろう」
ソールは窓を閉めて出入口へ足を向けた。「アルベルトが教えるようになってからも、生徒の数は増えているそうだ。なんだか、嬉しいよ」
村役場へ寄って鍵を返すと、ふたりはかつて暮らしていた建物へと歩きはじめた。凪いだ海は静かで、波の音もほとんど聞こえない。
「別荘の方は片付いているのか?」
「いや……」クルトの問いにソールは心もとない返事をする。
「……何しろアルベルト師が使っていたわけだし」
「寝泊まりしていたわけじゃないんだろう?」
「ああ、村にいるときは村長の家で寝起きしていたらしいが、あのアルベルト師のことだ。採集した資料や観測記録を貯めこんでいても僕は驚かない」
「そういえば生徒から弟子を取ったって?」
「アナばかりひいきしないように、サンダーみたいにこき使わないように、一度釘はさしたんだ」
ソールはお気に入りだった村長の娘と、何年もアルベルトの雑用を手伝っている村人の名前を出した。
「もちろんアルベルト師にも彼なりの気遣いはあるのはわかっているが、そしたら優秀な助手がどうとか――」
そういって別荘の扉を引いたとたん、向こう側で何かが崩れ落ちるような音が響く。
「クルト、いま……何が落ちたと思う?」
眉をひそめた恋人にかわって扉を大きくひらきながら、クルトは思わずつぶやいた。
「――たしかに、ソールの予想は当たったな」
玄関とその先の廊下は積みあげられた木箱でいっぱいだったのだ。
『滞在しているあいだ、暇だったら観測記録の清書をすすめておいてくれ』
あいもかわらず人使いの荒い老学者は、ソールにあててそんな書き置きを残していた。おまけに別荘の階下はすっかりアルベルトの研究分室と化している。つまり、廊下にはアルベルトが整理中の資料がずらりと並べられ、暖炉の横には校正刷りの束が積み重ねられ、書き物机は清書途中の用紙に覆われているといった具合である。
さいわいアルベルトが使っていたのは階下だけで、寝室は無事なようだ。クルトが窓をあけて空気を入れ替えていると、厨房の方から声が響いてきた。
「これを僕に?」
「はい。ソル先生が来たら渡すようにと先生に頼まれていました」
この村の人々はソールを「ソル先生」と呼ぶ。きっとアルベルトの生徒にちがいない。
クルトは階段を降りていったが、厨房をのぞこうとしたとたんその少年はクルトをみて「アッ」と叫んだ。
「きみ、名前は――」
ソールが続けた言葉に答えようともせずにパッと身をひるがえし、入ってきたとおぼしき通用口から駆け出していく。
「え? ちょっと待って」
ソールは通用口から身を乗り出し、クルトもそのうしろから覗いたが、すでに少年の姿は影も形もなかった。
「クルト、僕は何か……怖がらせるようなことをした?」
「いや、たぶん俺のせいだ」
困惑して眉をひそめたソールにクルトはあわてて答えた。
「俺をみたとたんに走り出したから、きっと魔力を感じとったんだろう」
「きみの? だが……怖がられるなんて珍しい」ソールはますます途惑った表情になった。
「それは……そうだな」
たしかに、魔力が多いからといって避けられる理由にはならない。むしろクルトは見知らぬ人間にも慕われる経験の方が多かった。それにクルトの精霊魔術の技量は以前ここで暮らしていたときよりずっと高くなっていて、今は自分の力を表に出さないすべに長けている。
つまりクルトの抑えている魔力を感じとれるということは、あの子供自身にも相当な精霊魔術の素質があるということだ。
「何か誤解したのかもしれない」
そういいながらクルトは通用口を閉めた。ソールはテーブルの前で、子供が渡した包みの固い結び目をほどくのに苦戦している。
「誤解って?」
「もしかしたら、俺にどこかへ連れていかれると思ったのかも。一瞬だけだが、彼の思考が視えたような気がするんだ。魔術師に弟子入りするか、学校に行くよう勧められているのかもしれないな」
「なるほど、それで驚いて……おっと」
やっと包みをひらいたソールの眸がびっくりしたように見開かれた。花の蜜の甘い香りがあたりに漂う。
「クルト、蜂蜜――いや、蜂の巣だよ」
包みの中のひらたい器におさめられているのは輪切りにされた蜂の巣だった。金色の蜜に満たされて窓から差し込む午後の日差しに輝いている。ソールは慎重に包み紙を剥がした。ふちまでいっぱいに入れられた蜜がとろりとあふれて白い指にかかる。
「おっと」
ソールはあわてて蜜にまみれた指を口に運び、舐めた。
「蜂の巣なんてぜいたくなものを。どうしたんだろう。アルベルト師にしては珍しい」
不思議そうにつぶやいた恋人にクルトもうなずいた。
「たしかに」
岬の老学者は清貧というわけでもないが、衣食住全般に興味がない。ソールのように遠慮がちになるわけでもなく、単に興味がないのだ。
「でもせっかくだから、すこし……」とソールがいい、クルトはうなずいた。
「そうだな。おかみさんにもらったパンがある。温めようか」
温めたパンの上にスプーンで掬った蜂の巣をのせ、薄く切った白いチーズをそえる。小さな六角形の巣を形づくる蜜蝋が溶けて金色が流れ出す。小腹のをみたす昼下がりのおやつとしてはたしかにぜいたくなものである。蜂蜜は王都でも簡単に手に入るが、蜂の巣が城下に出回ることはまずない。蜜蝋は貴重なので、こんな風に無造作に食べたりはしない。
甘い蜜の垂れるパンはあっというまに二人の腹におさまった。外からは波の音が小さく聞こえてくる。
「この紙は?」クルトはテーブルの隅にいつのまにか置かれていた紙の束に気づいた。
「ああ、一緒に渡されたんだ。自分で描いたそうだ」
ソールはまた指についた蜂蜜を舐めている。いつもの彼の食事の作法は完璧なのだが、ときおりみせるこんな仕草がクルトには逆に魅力的だった。今もその指をとってキスをしたくなるところをこらえ、クルトはソールが広げた紙片をながめた。
「巧いものだな」
この蜂の巣を採ったときの様子なのだろうか。紙片に描かれていたのは覆いをかけた姿で蜂の巣を採っている男のスケッチだ。クルトも見守るなか、ソールは一枚一枚紙片をめくっていった。最後の二枚には女王蜂や働き蜂、蜂の巣の構造が描かれている。実物にみまごうほど緻密な描きかれようで、断面図と立体図には計測数値も付け加えられていた。
「これほどスケッチの才能、アルベルト師は手放したがらないだろう。どれだけ魔力があっても……」
ソールが紙片を重ねながらつぶやく。そのとたんクルトは合点した。
「そうか、だから……」
「だから?」ソールは怪訝な表情でクルトをみた。
「俺をみて逃げた理由さ。魔力の訓練なんかしないで、このまま絵を描いていたいんだろう」
たちまちソールも、クルトのいわんとしたことを理解したようだった。
「つまりアルベルト師も……?」
「書き置きにはあの子について触れていなかったか? あの人のことだから何か画策していそうな気はするが。俺とソールに、親を説得させるとか」
ソールは眉をしかめた。彼は一度読んだものを決して忘れない。
「いや、書き置きには何も」
そういったものの、クルトをちらりとかすめたまなざしには思い当たることがあるようだ。クルトはそっと手をのばしてソールの指に触れた。しっとりした皮膚をなぞりながら蜂蜜に濡れた指を舐める自分を一瞬だけ想像し、不埒だと本人に怒られるまえに意識の表面から隠す。
「あとで村長にあの子の話を聞きにいこう。まったく、アルベルト師ときたら……」
ソールはクルトに手を握られたまま独り言のようにつぶやいている。
「優秀な助手がみつかったというのは、この話か」
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