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第8話

「ただいま」  誰もいないとわかっていても、習慣でつい口をついて出てしまう言葉に返すものは誰もいない。  そもそも結婚していたときでさえ、同居人はいないことが多く、返事が帰ってくることは稀であった。  それでもつい言ってしまうあたり長年の習慣というのは変わらないようだ。  今日も代わり映えのしない、つまらない一日が終わる。  朝起きて軽く朝食を食べ出勤し、トラブルなく夕方には終わる。夕飯のための買い物をして帰ろうか迷ったが、止めた。  自分ひとりのために料理を作るなど面倒だ。テイクアウトかデリバリーで済まそうか。なんだかそれすら面倒で、近所のコンビニエンスストアで酒とつまみを適当に買って帰ることする。  酔うためだけの大して美味くもない酒と、腹を満たすためだけの軽食。  4年前まではこうではなかった。食生活には気を使っていたし料理も好きだった。  もしかしたら今日は家で食べるかなとか、彼が小腹が空いたときのために何か作っておこう、なんて考えて常に冷蔵庫には常備菜があったものだ。  だが今は安い酒と、すぐに食べられる冷凍食品やつまみくらいしかない。  修一が出ていったあの日から、陽介の人生は色褪せてしまった。  たいそう落ち込む陽介に父も心配していた。あんなに仲が良かったのに残念だ、と。父に多くは語らなかった。自分の中で消化しきれておらず誰にも話したくなかったのだ。いくら身内でも、あれやこれやと詮索されたくなかった。  またいい相手でも見つけて、そろそろ孫の顔を見せてくれと父は陽介の再婚を望んでいた。父の兄弟や同年代の友人らの中には、すでに孫を持つ者も少なくないようだ。また自慢されたよなどと、どことなく羨ましそうに、時折陽介に漏らしていた。  その父も、一年ほど前に不幸な事故で他界してしまったが。  いつまでも離婚から立ち直れない陽介に友人や親戚などの周囲は、もう終わってしまったことは忘れて新しい出会いを探せと言った。陽介ほどの男ならすぐに見つかるから、新しい恋人ができれば傷も癒えるからと。  最初は断っていたのだが、そういうものかもしれないと陽介はその言葉に従った。  セックスフレンドのような遊びの関係ではなく、真剣にと何人かと付き合ったりもした。ただ心にぽっかりと空いた穴を埋めたくて積極的に出会いを探した。  それなりに好ましい相手を見つけ交際を進める。だが問題はその後で、しばらく経つと必ず、陽介の家に行きたいと言われる。恋人なのだ、そう思うのも当然だろう。  本当はただ一人を除いて誰にも入ってほしくなかったが、そういうわけにも行かないとしぶしぶ招くのだが、そうするとさらに事は厄介になる。  陽介の家に私物を置き始めたり、空いている部屋があるのなら使っていいかと、暗に同棲をねだられる。  挙句の果てには、以前のパートナーと使っていたベッドは気分的に嫌だから捨ててくれ、などというのだ。これにはさすがの陽介もまいった。  たしかに恋人として、陽介には気遣いや配慮といった心配りが足りないのかもしれない。  それでも誰かをこの家に住まわせたり、かつて二人で使っていた家具を入れ替えるというのは嫌だった。  そうして徐々に家に招く機会が減り、それについて、家に呼ばないのは浮気しているからか、体だけの関係が目的なのかと非難される。  陽介にそんなつもりはないが相手からしたらそう思われても仕方のない態度だろう。  そうして陽介は恋人のことを好きではないのだと言われ、振られてしまう。  そういったことが続き陽介は誰かと付き合うということをやめた。  あれほど愛した人はいないし、万が一これからできたとしても、今はその時期ではないのだ。  以前のパートナーを忘れられないのに、他の誰かと付き合うなど相手に対して失礼で、止めるべきだ。  もっと早くそう決断すべきだったが、夜のどうしようもない孤独感や、ふと思い浮かぶかつての記憶を打ち消したくて、孤独を埋めてくれる誰かと一緒にいたかった。  だがそれももうやめるべきだ。しかし陽介がそう思うこととは裏腹に、周囲の人間は積極的に陽介にどこかの誰かとの交際を提案してくる。  ありがたいことに、陽介に会わせたい、紹介したい人がいると言ってくれる人は多い。  離婚に落ち込み立ち直れていないようだ、という話が周囲に出回ってからは特に。  その厚意には感謝したが、今は一人でいたかった。 過去の相手を吹っ切れていない以上、こんな状態では付き合う相手にも失礼だろうとその都度断っている。  誰とも付き合う気にはなれないが、それでも寂しさ、人恋しさは消えない。  仕事が終わった後の長い夜の時間を持て余し、最近では外に飲みに行くことも多くなった。数駅先の駅前にある雰囲気の良いバーは最近のお気に入りだ。うるさすぎず、静かすぎず、若者はあまり出入りしないミドル向けのバーだ。電車で帰るのが面倒であればタクシーでも遠くない距離といこともあり陽介は仕事帰りに週2回ほどのペース通うくらいには気に入っていた。  気がつけばすっかり常連扱いとなっていた陽介は、同じく常連の男と今日も他愛もない会話をしていた。  男は園田といい、メーカーにつとめる陽介より一回りほど年上の中年サラリーマンである。 「それで、先生はまだ恋人作らないのか。いい加減に前の相手は忘れて次に進もうや。お前さんの顔ならよりどりみどりだろう? それにお医者様ときた!」  勿体ない、まだ若いんだからと、しきりに残念がっている。  陽介のことをまだ若いなどと言うが、もう30代の半ばのいい大人だ。若者と呼ばれる年齢はとうに過ぎている。  陽介の年齢を園田は知っているが、若者扱いは変わらない。園田からしたら一回り年下の未婚の男は十分若造に思えるのだろう。 「本当に今はそんな気になれないんですって。それに大した顔なんてしてないですよ」  陽介が謙遜してみせると園田は「またまた」と言いながら肩を叩いてくる。  気さくないい男だが、酒が進むと大抵この話題になり少々辟易していた。  陽介を先生と呼ぶのは、偶然この店で合った患者に声をかけられた時に同席していたからだ。  プライベートで健康相談をされるのが面倒なので、自分から医師であると言うことはなかったが、職を知られて以降「先生」と呼ばれることになってしまった。  白衣を着ていないときに、年配の人間から「先生」などと畏まって呼ばれると恐縮するので止めてほしいといったのだが、この男の中ではいつの間にか定着してしまったようだ。  幸いこの店の常連たちは、プライベートな酒の場において、無料で診察を要求するのは無粋だとわかっているようでそのようなことは殆どない。世間一般の話題として、医療業界や自営業者としての話はするが、その程度のものだ。  スタッフも含めてそういった弁えている人間が多い。  よって陽介はこの店が気に入っていた。

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