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最終話
「井領陽介さん、君を愛しています。どうかもう一度、私と結婚してくれませんか」
その衝撃的な発言とともに、陽介の前で膝をついた修一は小さな赤い箱を開けた。中には小さな窪みがふたつあり、ひとつは空であったがもうひとつの窪みには銀色に輝く指輪が収まっていた。
その指輪のデザインは、かつて二人が揃いでつけていたものに似ている。
「え、……あ、の……。…………え?」
陽介の思考が停止する。現状が信じられなくて、修一の顔と指輪を何度も交互に見やる。
ーーこれは、なんだ。まさか…………プロポーズ? 自分は今、修一にプロポーズをされたのか? 破局寸前だと思っていた今、この状況で?
それとも、たちの悪い悪戯か、ドッキリか。そんな最悪の想像がよぎる。そんなことをされたら、いくら心底愛している修一でも到底許せそうにない。その口を塞いで、縛り上げて閉じ込め、二度とふざけた真似ができないように厳しく教え込むくらいには怒り狂うだろう。
しかし、修一の表情は真剣だった。跪いたままニコリともせず真っ直ぐに陽介を見つめている。修一は本気なのだ。
いつの間にか止まっていた涙が再び溢れ出す。涙腺が壊れたかのように、こぼれ落ちる涙は止まらなかった。
今すぐ返事をしたいのに、喉が震えて思うように声が出せない。いい大人がしゃくり上げながら号泣していた。
「……そんなに泣かないでくれ。喜んでるのか、悲しんでるのか分からないじゃないか」
どうなんだと、修一は答えをわかっているくせに困ったように陽介に返事を促す。
それとさ、と修一が続ける。
「子供もな、あんなにいらないって言ってたくせに、今では悪くないなって思うんだ。もういい年だし出来るかわからないけど。今更虫のいい話だと呆れられてもしょうがないんだが、お前となら作りたいなって思ってる……陽介はどう思う?」
「どっちでもいい。修がそばにいてくれるなら、他に何もいらないから。でも……俺とまた結婚してくれるって言うなら、もう二度と、わ、別れるなんて言わないで」
震える声でどうにか陽介は自分の気持ちを絞り出した。
「言わないよ」
「本当に? 絶対?」
「ああ、絶対」
次々と陽介の言葉を肯定してくれる修一に愛しさが溢れて、目の前の彼を強く抱きしめる。もう二度と逃さない、離れないとでも言うように、陽介は修一の体を抱きしめ続けた。
強く抱きしめられて苦しいはずなのに、修一はいつまでも抱擁をやめない陽介に何も言わず、抵抗もしなかった。ただ優しく抱きしめ返し、時折その背を撫でていた。
しばらくしてようやく満足した陽介が修一を解放する。
何かを確かめ合うかのように見つめ合った。
「はは、ひどい顔してるぞ。男前が台無しだ」
先に沈黙を破った修一が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている陽介の顔を揶揄う。
「……うるさい。誰のせいだと……っ」
「俺のせいだって? ごめんごめん。でも勝手に誤解したのは陽介だろう。大体、俺が不倫なんてするわけないだろうが。いったい人のことをなんだと思ってるんだ?」
口調は陽介を非難しているが本気ではないのだ。修一の顔は笑っている。しかし、「俺はそんなに信用がないのか」と付け加えるあたり修一は少し落ち込んでいるようだ。
幼い子供をあやすように、修一が優しく陽介の頬を撫でる。
「だって……いかにも夫婦って感じに見えたし。それに修はなかなか部屋に入れてくれなかったじゃないか。やっと入れてくれたと思ったら、部屋の中はガラガラで、いかにも遊び目的で借りてるカモフラージュ用のセカンドハウスって感じで……」
自分もかつての恋人たちを部屋に入れようとしなかったことを棚に上げ、陽介は修一を責めた。
「遊び目的のセカンドハウスって、ひどい言い草だな。……お前を呼ぶのに、必死で片付けたんだよ。そのおかげで少し待ってもらったわけだが……。前より狭い部屋になったから、持ち込んだ家具で部屋が埋まって足の踏み場もなかったんだ。だからある程度捨てる必要があったし、引越しのダンボールすらまともに開けてなかったから、さすがに片付けからじゃないと人を招ける状態じゃなくてな」
修一の言い訳を今なら素直に聞き入れることが出来る。
「事務所を立ち上げたばかりで引っ越してからしばらくは片付ける暇もなかった。どうにか今日間に合ってよかったよ」
それがこんな誤解されるなんて、と修一は笑った。
「それで、陽介。俺はまだプロポーズの返事を貰ってないんだけど?」
既に答えを確信している修一が、少し意地悪そうに微笑みながら陽介に返事を求めた。
そんな修一は格好良くて、可愛くて、愛しくて、陽介の心を強く昂らせる。
ーーそうだった。あまりにも衝撃的で、幸せのあまりエンドルフィンが出過ぎて、肝心の返事を忘れていた。
修一の手にはまだあの小さな箱が載っている。
「もう一度言うよ、陽介。また俺と、結婚してくれるか」
「はい……はい、もちろん」
再び涙がこぼれそうになる。
嬉しそうに修一が笑った。
修一は陽介の左手を取り、箱から取り出した指輪をそっと、陽介の左手の薬指に嵌める。
「よかった。指輪のサイズ、変わってないな。」
「修、この指輪……!」
あることに気がついて指輪から視線を外して修一を見る。
「気づいたか? 前に俺が使ってたやつだよ。お前のサイズ直したんだ。絶対に今日渡したくて、そのせいでちょっと時間がかかった」
かつて結婚していた6年間、ずっと修一がその左手につけていたものだ。それが今は、陽介の左手に嵌っている。
「ありがとう…………ありがとう、修……」
「喜んでもらえたなら嬉しい。……陽介。これからも、よろしく」
激し愛しさが込み上げる。陽介が疑心暗鬼に陥っている傍で、修一はこんなサプライズを用意してくれていたのだ。
料理だって好きではないのに、陽介のためにーー。
「そうだ、ご飯……!」
「ああ、もう冷めてるかな。よかったら温め直すけど。あまり美味くないと思うが、食べてくれるか」
「もちろん食べるよ! 俺も手伝うから、一緒に食べよう」
「ああ、そうだな」
食事を温め直し、二人して食卓についた。
またこんな日が来ることを、ずっと願っていた。
こんな幸せがあっていいのか。つい数時間前までは疑心暗鬼に囚われて不幸のどん底にいたのに、今や幸福の絶頂だ。
浮かれに浮かれている陽介に修一はさらに追い討ちをかける。
「そういえば今日、なんの日か覚えてるか?」
「今日? 何かあったっけ?」
「おいおい、俺のことあんなに怒ったくせに、自分は忘れたのか? 結婚記念日だろうが」
前のな、と修一が苦々しく笑った。
「……っ! そうだ。そういえば、今日だったね……」
まさか自分が忘れるとは。去年までは毎年のように思い出し、その甘い記憶に浸っていたというのに。
そんな陽介に修一は微笑みかける。
「前は、お前にひどいことをしたよな。本当に悪かった。……仕事、仕事ってそればっかり夢中になって、お前のことを蔑ろにしてた」
修一は沈痛そうな面持ちで眉をひそめ、視線を落とす。
「前の事務所は辞めたんだ。陽介を失ったら、出世なんてどうでもよくなった。今の事務所は以前みたいに忙しくない。お前と同じくらいには帰れないかもしれないけど、夜9時には上がれるし、土日だって休める」
それに今の事務所での仕事も楽しいと、修一は語った。
あの別れに苦しんでいたのは陽介だけではなかったのだ。修一もまた苦しみ、彼の考えやライフスタイルに変化を与えた。
「……子供、出来ると思うか」
ぽつりと、修一が呟く。
「きっと出来るよ。でも、できなくてもいい。修一といられればいいんだ」
子供はあくまで、修一の関係を強固にするための手段に過ぎない。存在したならば、心から愛するだろうが、今の二人の関係において必須とは思えなかった。
「そうか……ありがとう」
修一は静かに呟くと、食事を再開する。
修一の料理は想像した通り、諸手を上げて美味いと言える味ではなかったが、陽介にとってはこの世で最も素晴らしい御馳走だった。
こういう食卓を、これからも修一と囲もう。二人で料理を作ってゆっくりと味わう。
陽介はこれから訪れるであろう幸福な未来を思い浮かべた。
そういえばと、陽介はふと思いつく。
「修、俺たちまた一緒に住むよね? 修の部屋、今でもずっと空けてあるんだ。家具だって何にも変えてない。……修さえよければ、すぐにでも引っ越して来られるけど……どうする?」
恐る恐る聞く。プロポーズまでしてくれたのだ。まさかここで断られることはないと思うが、なんとなく陽介は修一の顔色を窺うように聞いてしまった。
「そうだな、近いうちに引っ越そうか」
「うん……俺、手伝うよ」
「ありがとう。……早く帰りたいな、俺たちの家に」
「うん……!」
かつての家で暮らす未来の生活に、陽介と修一は思いを馳せた。
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