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第895話◇

「あの……こんばんは」  とりあえず、挨拶を先にしてみる。オレを振り返って真正面に向かい合った女の人は――見れば見るほど玲央に、雰囲気がよく似ていた。  凛としてて、上品。身に着けているものは派手じゃないのに、目を惹く。髪も綺麗だし肌も透明感があって、とにかく全部、綺麗だった。    こんな時なのに。  絵、描きたい。  そんなことを思ってしまう自分に、すぐにちょっと呆れる。  挨拶したオレをじっと見つめ返す、多分玲央のお母さん、は、「こんばんは」と言った。  穏やかな、声。少しだけ、ほっとした。  そうだ、前に、玲央のライブに来たがってたっけ。  ライブに来ちゃうと、玲央の知り合い皆に挨拶して回っちゃうとか言ってたような気がする。来ると大変、とか玲央が言ってたけど――なんか、可愛いお母さんだなって思っていたけど、完全に、可愛いよりも綺麗よりの人だった。 「玲央の、お母さんですか……?」  そう言うと、その人は、その瞳を少し細めながら、「ええ」と、頷いた。  ああ、やっぱり、お母さん……! そう思うと、一気に焦った。 「あ、オレ、花宮ゆづ……っ」  途中まで言ったところで不意に、ぴーぴー! と炊飯器が音をたてた。  こ、こんなにこの音、大きかっただろうか。  玲央のお母さんとの間を、ばっさり引き裂かれた気分で、止まってしまった自己紹介に、オレは完全に固まった。 「え……っと」  声を無理矢理にでも出そうとした時、玲央のお母さんは、その指を口元にあてて、少しオレから目を逸らした。不思議に思ったその時、けほ、と少し咳払いをした。それから、ちらりとオレを見つめる。 「玲央は、居ないのかしら?」  そう言われて焦る。  玲央が居ないのに、オレが一人でいるって、やっぱり変だよね。  ……あれ、でも、お父さんには電話したって言ってたから、オレのことは聞いてる? オレのこと、どこまで話してるかも分かんないし。この反応ってちよっと怖い。……あんまり、笑ってくれないし。  ――玲央の友達に挨拶しまくるような人には、全然見えないけど。  はっ。もしかして、玲央に男の恋人がいて、一緒に暮らしたいなんて言い出したって、お父さんに聞いて、ここに来てるのかな?  だとしたら、挨拶しまくる「玲央の友達」よりも、ずっと|位《くらい》が低いってことだよね。って、位って何だよ。もう……わーん!! 意味が分かんなくなってきた……!  とにかく、なにか喋らなきゃと思うのだけれど、でも、頭の中が混乱中で、少しの間、何も言えなかった。  でも、はっと気を取り直して、なんとか、顔を上げた。 「あの――玲央は、今日、バンドの練習に行ってて、遅くなりそうって言ってました」  そう言いながら、自分のバカさ加減に気づく。  そう……そうなんだよ、バンドのあと、事務所に行くって言ってたんだから、ここに今いる訳ないのに、あんな風に、玲央に話しかけながらここに来ちゃって……。  もうオレのバカ。  なんかもうこのTシャツは可愛いけど、玲央のお母さんのこの綺麗すぎる感じと相対するには、ちょっときつかった。  髪の毛もまだほこほこしたままだし。玲央のおうちで緩み切ってる姿を、見せてしまった……。 「――待たせてもらっても、いいかしら」  そう言われて、余計に慌てる。  もちろんいいけど、それまでずっと一緒? ええ、どうしよう。と思いながらも。 「あ。はい。もちろん……! というか、オレのほうこそ、すみません……玲央が居ないのに」 「ねえ」  だんだん声が小さくなっていったオレに、玲央のお母さんが、声を重ねて遮った。 「カレーの匂いよね、これ」 「え……あ、はい」 「ご飯も炊けたところかしら?」 「はい、そう、ですけど……」  そうなのね、ふーん……という感じで、玲央のお母さんがキッチンの方を見ている。  ……んん? これは、もしかして……? 「あの。……食べます、か? オレの作ったものでよかったら」 「――」  ふ、と振り返られて、まっすぐ見つめられる。  って、食べないか。食べないよね。初対面のオレの作ったものなんて――。  そう思って、何かを慌てて言おうとした瞬間だった。 「いただくわ」 「――え」  自分で聞いたくせに、その答えにちょっと驚いたオレに、玲央のお母さんは、ふ、と目を細めた。 「今食べるか聞いてくれたわよね?」 「あ……はい。じゃ、用意するので……あ、好きなところに座っててください」  そう言うと、いつも玲央が座るところに座って、きょろ、とリビングを見回している。  オレはとりあえずカレーを温めてサラダを出して――急遽二人分。用意することになった。  うう。まだ事態がよく飲み込めないでいる。 (2026/2/10)

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