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幕・27 魔竜

そうだ、ヒューゴはこの程度で無様に墜落したりはしない。 強者ひしめく地獄でも、最高位の序列に君臨するのは、伊達ではないのだ。 周囲に揺蕩う風の感覚。 精霊たちの気配。 じゃれ合うようにそれらを掌握しながら、空中に停止したヒューゴは、うっそりと頭をもたげた。 鎖で縛った悪魔を見上げる。 相手と目が合った。刹那。 『うそだ…』 悪魔としてのヒューゴの姿を視界に収めた相手は、硬直しながら半狂乱で叫んだ。 『嘘だうそだウソだ…っ』 声には、隠すこともできない怯えが滲んでいた。 その時になって、ヒューゴは自覚。悪魔の言葉が分かる。 先ほどまでは巨大な咆哮としか認識できなかったが、今ははっきりと識別できた。 人間の耳と悪魔の耳では、やはり、構造が少し違うようだ。 そう。 今、ヒューゴの肉体は。 悪魔の形態をとっている。ヒューゴ自身が意識して変わったわけではない。それは即ち。 ―――――神聖力の鎖が、外れたということ。 (リヒトが外したってことだけど) ヒューゴは、宮殿の上へ視線を流した。もうそこに、リヒトはいない。 どこへ移動したのか。 彼の居場所を感覚で掴みながら、ヒューゴは首をひねる。 (あぁ、悪魔の火炎で全身やかれたら俺が死ぬと思ったかな) だから、ヒューゴの本性を解放、した? そんなことは、過去、一度しかなかったことだ。意外な心地になる。 しかし、そんな思いはあまりに爽快な解放感にかき消されていった。 身体が軽い。 物騒な鉤爪が標準装備の手を、わきわき握り締めてみる。 (これだよ、これ) 束縛がひとつもないなど、いったい、どれくらいぶりの感覚だろうか。ああ。 爽やかだ。 『神聖力で拘束された間抜けが』 感動を噛み締めるヒューゴの耳に、怯え切った悪魔の声が届いた。 『魔竜だなんてっ!!!』 お? と、ヒューゴは改めて相手を見上げる。 刹那、相手は分かりやすく怯えた。 そう言う反応は、悪魔のヒューゴにとって、とても退屈でつまらない。 噛みつかれた方がどれほど楽しめるか。 かかってこいやとばかりに挑発。 『なんだ、俺のこと知ってんのかよ、雑魚』 悪魔たちの間で、ヒューゴは確かにそう呼ばれていた。 魔竜。 それは。 ―――――竜を食らった悪魔の呼称。とはいえ。 世界の、長い歴史の中でも、そんな悪魔はたった一体しかいない。 二千年程前だったろうか。 ある日突然、地上で黒竜と呼ばれていた存在が、地獄へやってきた。 …まあ、一言で言えば竜が地獄に来た、で済む話だが、実はこれはとんでもないことだった。 その黒竜は、術式など使わず、地上と地獄を繋ぐトンネルを作ってやってきたのだ。 その道こそ、のちにヒューゴがリヒトを連れて帰った道なのだが、地上にとっても地獄にとっても、その黒竜の行為は、有難迷惑だった。 なぜ、黒竜が猛烈な迷惑を周囲に振り撒きつつ突貫工事を強行し、地獄にやってきたかというと。 黒竜の力があまりに強かったため、地上では相手になるものがおらず、なら地獄にだったら対等に喧嘩できるやつもいるだろう、という勝手な想像から地獄に訪れたらしい。 意味が分からない。 だが基本、脳筋の悪魔たちは受けて立った。 とはいえ、相手は竜。しかも、現在は絶滅した、…というか、姿を見なくなった太古の竜である。 格が違った。 いい勝負になるどころか、皆、ぎったんぎったんにされ、殺されまくった。 それはそれは、とにかく一方的で、気分が悪くなるような血の饗宴だった。 ちなみに、現在地上をさまよっているのは、その血を継いだ竜であり、往時の力は既にない。それはさておき。 その間、ヒューゴが何をしていたかというと。 寝ていた。 表に出ていれば変に絡まれる。それが心底面倒だったからだ。 ヒューゴは、自分の前世を思い出した頃から、ずっと地獄の底で惰眠をむさぼっていた。 血沸き肉躍る戦闘など、これっぽっちも興味がなかった。 彼の興味を引いたのは。 地獄にも、可愛い生き物がいる。 総じて力は弱いが、見た目がかなり癒しの、ふわふわの生き物たちが。 下級の者は自我などほとんど持たないが、上級になってくると会話も可能になってくる。 懐いてくれたりしたら最高にかわいい。 ヒューゴはそんな弱い者たちを自分の領域に入れてやり、上級になるまで面倒を見たりしていた。 ヒューゴのすべての興味を攫っていたのは、彼らの成長だけだった。 まさに、ウチの子一番の親ばかである。 そんなヒューゴが、まさか黒竜に挑むわけがない。…はず、だったのだが。 ―――――原因は、黒竜と悪魔たちの戦いの余波だった。 一瞬だった。 一瞬で、―――――守り、大切に育てていた一族が、…灰になった。 刹那に、ヒューゴの思考も灰になった。 衝撃のあまり、丸一日、騒動の端っこで硬直していた記憶がある。 そんな中、小石が、ぽこん、とヒューゴの頭に当たった。瞬間。 我に返ったヒューゴは怒髪天を衝き。 ―――――強敵に、泣きながら食いついて行く悪魔なんて、オレはじめて見たわ…。 のちに悪友は呆れた口調で語った。 簡単には死ねない、力の強い悪魔たちが倒れ、動けず、固唾をのんで見守る中で、まだまだ余裕たっぷりの黒竜相手に、ヒューゴは真正面からがっぷり組み付いた。 そこからは、もう他が立ち入る隙もない壮絶な戦いだったそうだが、当事者の一人であるヒューゴにとってはそうたいしたものではなかった。 大したものではない、という意味は、余裕だったというわけではなく、そう、格好いいもんじゃないという意味である。 ヒューゴががむしゃらに黒竜に立ち向かった理由は、子供が癇癪を起したようなものだったからだ。 流れた涙と鼻水と涎で汚れた姿は、心底格好悪かったはずだ。 死闘は、七日七夜。 黒竜が、強敵を讃える言葉を聞いて、ヒューゴはようやく我に返った。 無茶苦茶だったが、相手は確かに、誇り高く気高い、高潔な竜だったのだ。 (でも弱い生き物に配慮しないのはいけない) 戦いで生き残りはしたものの、弱り切っていたのはヒューゴも同じで、地獄でこんな状態のまま襲われるつもりもなく、―――――ヒューゴはまだ息のあった竜を食い始めた。 …野蛮で醜い悪魔なのだ、ヒューゴは。 放っておいても他に食われたろう。 そうなる前に、ヒューゴは竜を自身の糧にした。骨まで。 結果、ヒューゴの外見は、変わった。 竜体となったのだ。同時に、悪魔でもある。 ―――――これが、魔竜の誕生だ。 …話が長くなった。 とにかく、状況を、より面白くしようとするのは、悪魔の悪癖である。 ヒューゴは、悪魔を束縛する鎖を一瞥。 とたん、鎖がひかりの粒となって消えた。 解放された悪魔は、一目散に飛び去ろうと翼で空を打った。 結界から逃れられないとしても、せめて、魔竜から距離を取るべく。 『逃げんのか? つまんねーの。つまんねーからぁ』 ヒューゴは拳を握った。強く。硬く。 『お仕置き、な』 遠く離れていく悪魔目掛け、ヒューゴは拳をふるう。刹那。 ―――――ボッ、ボッ、ボ、ボボッ!! 魔竜から逃げる悪魔との間に、幾重もの魔法陣が生じる。 緻密な光の魔法陣が、いくつもいくつも、夜闇に浮き上がった。 その光景は、美しく壮麗。 そんな魔法陣の中心を、ヒューゴが拳をふるうことで生じた衝撃波が真っ直ぐ、矢のように走る。 魔法陣を作ったのはヒューゴだ。 猛烈な衝撃波の影響を、周囲に及ぼさないために。 上手に被害を出さずに衝撃波は、対象物へ到達。刹那。 『…あれ?』 ―――――ジュッ。 悪魔は、蒸発した。 灰一つ残さず。 悲鳴を上げる間もなく。 無言で自分の拳を見下ろすヒューゴ。 人間だったなら、だらだら冷や汗を流しているところだ。 (こんなつもりじゃなかったのに) ちょっと全身の骨が砕けるくらい、を考えた拳だった。なのに。 ―――――やばい。 ヒューゴは内心、青ざめた。 (危険なくらい、強くなってる、よな) それもそのはず。ヒューゴは毎日、リヒトの神聖力を精気として食っているのだ。 強くなっていない方がおかしい。

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