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幕・28 帰さない、ぜったい

(…いや、まあいい、それはそれで) ヒューゴは開き直った。 別に彼は、世界征服したいわけではないのだ。 そんな方向に頑張ることは難しい。 持っている野心と言えば、一つだけ。 ―――――地獄に帰って、もう寝よう。 巣穴に潜り込んで、ゆっくり休みたい。考えるだけで幸せだ。 荒く鼻息を吐きだし、ヒューゴはつい、空へ向かって叫んだ。 『俺はっ、自由だぁ!』 とたん、びりびりっと結界が振動。 もう彼を束縛するものはないのだ。躍り出したい。 先ほどから我慢できず、翼がぴくぴくしている。 ―――――ああ思い切り、この翼を広げ、あの空を飛びたい。 すぐさま、地上に顔を向けた。 下手をすれば攻撃になるような大声は出さず、 『世話になったな、あばよっ』 こうなれば、契約なんて、知ったことではない。紙切れ同然だ。 でもずっと会えないのは寂しいから、たまには会いに来よう。捕まらないように、こっそりと。 スキップしたい気持ちのままに、とにかくここから立ち去るべくヒューゴは方向転換しようとした。 さてどうやって、あの結界を壊さないように開くことができるだろう。 考えさした、刹那。 ―――――ぎ、ち…ぃっ。 『…え…?』 気付けば首に、ひかるものが絡みついていた。 同時に、ぐん、と首を引っ張られる。 たちまちのうちに、真っ直ぐ、竜体が地上目掛けて墜落する。 見る者が見ればわかったろう。その首に、神聖力輝く鎖が伸びていることに。直後。 二階建ての建物なみの、竜の巨躯が、地上に触れる。そこで、なぜか。 竜の翼が、ぱたぱたっと小さくはためく。ヒューゴは、顎をできるだけ逸らし、なにか、耐える風情。刹那。 その巨体が倒れたにしては、とてもかわいい音があがる。 ペチン。 なんだか、頬を軽く引っ叩かれたような音。 実際、魔竜は頬から地面に突っ伏していた。 「あんっ」 という、妙にかわいらしい音があがる。いや、声、だ。男の。 ―――――緊張に満たされるどころか、地上の人間たちの間には、奇妙に気の抜けた空気が漂った。 帝国将軍は、…なんとなく、状況を察した。 魔竜があの位置から墜落し、思い切り倒れては、周囲の者は無事では済まない。 ゆえに彼は、頑張って踏ん張った。 できうる限り、周囲に衝撃が起きないように。 その結果としての、『ペチン』。 周囲に被害が起きなくて気が抜けた結果の、『あんっ』。 ―――――間が抜けているのに、妙に愛らしい。 幾人かが反射で笑いかけ、しかしすぐさま、そばにいる皇帝の表情が無そのものであることに気付き、しかつめらしい態度を保つのに苦労していた。 当の魔竜―――――ヒューゴはと言えば。 何が起こったの? という表情で固まっていた。やたらと無垢な表情。かと思えば。 …また、自身が捕まったと理解したのだろう。 顔がくしゃっと歪む。 その表情がかなしみだということは、すぐ分かった。 相手は竜で、本来表情など分かるわけもないのに。戸惑う合間にも、その全身が、ぷるぷる震えた。刹那。 みるみる潤んだ濃紺の両眼から、ぽろり、大粒の涙がこぼれ落ちる。 それは地面に落ちるなり、ぼちゃっと音を立てて水たまりとなった。 地上に腹ばいになって伸びる竜の鼻先に、オリエス皇帝が立ち止まる。 その手が竜へ伸びるのに、 「触るな」 思わぬほど厳しいヒューゴの声がリヒトを制した。 先ほど、空中で放った咆哮とは全く違う、きちんと人間の声で、言葉で。 ―――――あぁ、この竜は、本当にヒューゴなのだ。 リヒトは動きを止めた。 その時点で、ようやく周囲の目にも異常がはっきり見え始める。 ヒューゴの身体が触れた大地が、ぶすぶすと奇妙な煙を上げ出していた。 …聞いた話を思い出し、リカルドは手ぶりで騎士たちを魔竜から引き離すべく指示を飛ばす。 悪魔の身体は、毒。 だがなぜか、涙は違うようだ。 ぼちゃん、ぼちゃん。 こぼれ落ちる大きな雫は、不思議なことに、悪魔の身体に毒された大地を浄化しているようだ。 「…どうしてこんなことすんだ?」 かと思えば、情けないような泣き声で、魔竜は囁くように問いかけた。リヒトに。 その間にも、魔竜を縛る神聖力の鎖は数を増していく。 ―――――シャラ、チャリ。 見える者には見える。 見えない者には見えない。 リカルドは、見える方だった。リヒトと過ごした時間が長いせいだろうか。 リヒトは真顔で答えた。 「…逃げようとするから」 強いようで、どこか、傷だらけの声音。 一瞬、落ちる、沈黙。 ヒューゴが納得した様子はない。 それでも、彼がリヒトを傷つける気配はなく。ただ、グッと一度、目を閉じて。 「~~~チクショウ―――――っ!」 がばり、身を起こす。 ぎょっとなった騎士たちが、さらに距離を取るのを尻目に、魔竜は。 駆け出した。 直立し、後ろ足で。 尻尾を重そうに引きずりながら。 どすどす、地面が揺れるのに、慌てるより先に、見送る全員が、唖然。 彼らの眼差しは、魔竜の背中に生えた翼に集中。 ―――――飛ばねえの?  といった衝撃が素直に顔に現れている。 魔竜の足は、意外と、速かった。 宮殿から…いや、人間たちから、一定の距離を取ったところで。 バッと強靭な翼が、月光の下、華麗に打ち広がった。…先ほどの悪魔など比ではない。 ―――――それは思わず目を奪われずにはおれないほど、雄々しくも優美な光景で。 翼が真横に広がり、羽ばたいた、刹那。 衝撃波に似た突風が、周囲を薙ぎ払った。 鍛錬された騎士でなければ、吹き飛ばされていたかもしれない。 実際、その時魔竜のそばにあった木々は、根から倒れていた。 騎士たちが耐えきった、直後に顔を上げた時には。 魔竜の姿は、天空高く舞い上がっていた。 幻のような、刹那の飛翔。 だが魔竜の存在が幻でなかったのを示す、尻尾が作った轍が生々しく地上に残っている。 嵐のように去った魔竜の行動の意味が、そこでようやく理解できた。 つまり、魔竜が両足で駆け去った理由は。 近くに人間がいるときに飛翔の体勢に入れば、騎士たちが無事に済まないと知っていたからこその、気遣いだったわけだ。 魔竜の姿であったとしても、ヒューゴはヒューゴ。 …そのことが。 リカルドから見れば、なんだかやりきれない気分にもなる。 悪魔らしく、自分勝手で傲慢で、周囲など知ったことではないという存在だったなら。 ―――――もっと簡単に、見捨てられるのに。 リカルドは首を横に振り、毒された大地に手をかざしたリヒトに顔を向ける。 「陛下。ヒューゴは」 「部屋に戻っただけだ」 その掌に、浄化のための濃厚な神聖力が宿るのを感じながら、リカルドは頭を下げた。 「…涙は、毒ではないのですな」 視線を、清いとも見える涙の水たまりに向け、リカルド。 応じるリヒトは、淡々。 「ああ。どころか、竜の涙には強い魔素が宿っているようだ。ちなみに、地獄でのヒューゴの住処の周辺には涙で湖ができていて」 湖。 リカルドは咳払いをしながら言葉を選んだ。 「………………ヒューゴはその、泣き虫、なのですかな」 「あれは、よく泣く。それでその湖には、強い魔素から精霊が生まれてな」 「―――――…………今話しているのは、地獄の話、と思っていたのですが」 地獄に精霊など、御伽噺にも聞いたことがない。 違いましたかな、と首を傾げたリカルドに、リヒトは口を噤む。 微妙な沈黙が二人の間に落ちた時。 「…さっきのが、ヒューゴ? 話には聞いてたけど…」 そこにおそるおそる寄ってきた小柄な影は、リュクスだ。 ようやく日常に戻ってきた心地がして、リカルドは穏やかに彼に話しかけた。 「宰相閣下は、見るのは初めてでしたかな」 「ぼくは戦場に出てないから。…にしたって、リヒト…いや、陛下」 悪魔の毒が一瞬で神聖力に浄化されるのを尻目に、リュクスは声を潜めた。 「なにも縛り付けなくても、ヒューゴは戻ってくるんじゃないの?」 「それで?」 リヒトは目も向けず、すげなく応じる。 「そんな人間もいたな、と時折思い出される程度の存在になるのか?」 その一言で、続く言葉は封じられた。 先ほどの姿を見ることで、ヒューゴが人智を超えた存在だと言うことは、嫌になるほど理解している。 存在も。 寿命も。 いっさいが。 ―――――人間とは、違うのだ。ヒューゴは。 つまりは、一人の人間など、彼の記憶から簡単に押し流されてしまう存在に過ぎない。 「一応、箝口令は敷くけど」 リュクスは首を横に振り、リヒトの顔を覗き込んだ。 「真面目な話、ヒューゴが魔竜だって明らかになった以上、余計、神殿からの口出しが強くなる可能性が高いよ。戦争中のことはグダグダになって誤魔化せたけど。へたすると―――――御使いが出てくる」 リヒトはリュクスを一瞥。冷たい無表情で、一言。 「魔塔もだ」 「…あっちは、それほどでもないんじゃない?」 「―――――では、お前は?」 いきなり話を投げられ、リュクスは目を瞬かせた。 今の話の流れが、どうリュクスと関わってくるのか。 「ぼくが一体なんだって言うのさ」 リヒトは黄金の目を細める。 「魔竜。その存在を、一瞬でも」 一度言葉を切り、冷え切った声で言葉を継いだ。 「―――――『資源』と考えなかった、と言えるか」 リュクスは真顔で口を閉ざす。彼には何も言えない。 魔竜を見たなら、誰もが一度はソレを考えるだろう。為政者であればなおさら。 だがリヒトを前に、そんな発言は死期を早めるだけだ。 一方で、リカルドは納得した。 それを考えれば、確かに、神殿よりも魔塔が危険と言える。 「では、僕はフィオナとディランの様子を見て戻る。後は頼んだ」 煽っておきながら、何事もなかったかのように、リヒトは踵を返した。 「戻るって…ヒューゴのところ?」 彼の背中に、リュクスは声をかけたが、返事は返らない。 聞いたリュクスもばかばかしくなるほど当たり前の話だったが、 「いいけど…今、ヒューゴと顔を合わせて、大喧嘩なんかしないでよね…」 宰相の独り言に、将軍は冷や汗をかいた。 二人の言葉など、リヒトの耳にはもう届かない。 彼は、フィオナのいる宮殿へ足を向けながら、暗い声で呟く。 「帰すつもりはない。…あの女のところになど」

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