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幕・31 巣穴

オリエス皇宮への侵入は簡単だった。 ハディス王家の王子として、堂々と真正面から門を潜れば、なんの問題もなかった。 おそらくこれにはハディスの王女の意向が強く作用している。 彼女は身内へ疑いの目を向けることを嫌った。ましてや肉親ともなればなおさらのこと。 …今後は否応なく変化するだろうが、それはもう、悪魔には関係のない話だ。 悪魔は、逃れられた核の部分だけ、地獄に戻れたらいい。 ―――――そのためには。 必死だった。 必死で、…においを辿った。 ―――――魔竜の。 魔竜の噂なら、地獄で嫌というほど耳にしている。 とにかく、変わり者で有名だ。 変人、ゲテモノ食い、寝坊助。 だがどういう性格であれ、魔竜が強者である事実に揺るぎはない。 悪魔たちが魔竜を畏怖する理由は、その一点に尽きた。 ただやはり、魔竜のやることなすこと、変わっている上に、妙な結果になることが多い。 たとえば。 その昔、魔竜はとある一族を自らの領域に入れ、守護した。 その一族は、当時、力を重視する悪魔という種族の中で、最弱の一族だった。 即ち、悪魔が蔑視する弱い生き物たち。苛立ちをぶつける生贄にしか過ぎなかった役立たずども。 彼らを、どういうわけか、魔竜は根気よく保護し続けたという。 その上、知恵を授け、鍛えた。 酔狂な、と誰もが鼻で笑ったらしい。ただし。 …かの一族は。 ―――――現在、悪魔たちの中でも、無視できないほど強力な一族として地獄で名を馳せている。 個として強いわけではない。 だが、一族として、…人間のように群れることで、強い力を手に入れた。 無論、知恵のみで生き残ることができるほど地獄は甘くない。強い力が必要だ。 だが、その問題を、当時の悪魔たちにとってはあり得ない方法で、彼らは解決した。 不足していた力に関する問題は、知能はないが強い力を持っている悪魔を、彼らのみに服従するペットにすることで、かの一族は解消したのだ。 聞いた話では、その知恵を出したのも魔竜だと言う。 アレ、家畜化できるんじゃないの。知能のない悪魔を示して魔竜が言った、この何気ない一言が、一族の命運を変えた。 なんにせよ、魔竜は、弱い一族を懐に入れた結果、地獄の勢力図を塗り替えたのだ。心の底から、誰もが思った。 あり得ない。 悪魔たちから見て、魔竜はまったくもって意味が分からない生き物だ。 守護を受けた悪魔たちもまた、少し変わっていた。 普通の悪魔なら、力を持てばさらなる高みを目指し、力による挑戦を続けるものだが、彼らは魔竜の元へとどまり、魔竜を、人間が神を崇めるように崇拝している。 だが、ある日。 ―――――魔竜は地獄から姿を消した。 居る、それだけで強大な威圧感を放つ存在の喪失に、地獄は荒れた。 いや、もともとの形に戻った、それだけだ。 かの一族は、不気味な沈黙を保ち、今なお強力な力を持つ魔竜の結界の中へ閉じこもったきり、滅多に姿を見せないと言う。 なぜ、魔竜は地獄から去り、地上になどいるのか。 益体もない考えに、悪魔は我に返った。 いや、魔竜がどういうつもりで、何を思って、行動したかはどうでもいい。 とにかく、魔竜は強い力を持つ悪魔だ。 そんな悪魔が、弱者を破壊の対象とせず、守護したという点が、今の悪魔にとっては重要だった。 核がむき出しの今の悪魔にとっては、…このままでは消滅を待つだけだ。 ならば、魔竜の存在に賭けてみよう。 都合のいい話かもしれないが、―――――助けてもらえるかもしれなかった。 アメーバのような、スライムのような軟体生物の姿で、悪魔は進む。 …たどり着いたのは、薄暗い小さな部屋だった。 ここに、魔竜の気配、においが濃厚に残っている。ここが、巣穴。 這う這うの体で辿りついた、刹那。 ―――――バンッ! 乱暴に、ドアが開かれた。 そこから転がり込むようにして現れたのは。 「…あぁっ、くそ…!」 汗に濡れた褐色の額に、乱れた黒髪をはりつかせた魔竜。 何を好き好んでか、人間の姿をしている。わざわざ弱者の姿を取るあたり、やはり変わり者だ。 どこか飄々とした印象の強い表情からは、今や余裕が消え、険しい。 彼が乱暴に手の甲で口元を拭うのに、何かと思えば。 (…血…?) 悪魔の視界は、闇でもよく見える。 そして、強い力を持った血液の匂いに、悪魔が気付かないわけがない。 魔竜の手の甲についたものをつい、凝視した刹那。 「…おい、なんだ?」 獣の本性が隠せていない視線が悪魔を貫いた。…―――――と思う間もなく。 魔竜の指が、悪魔の身体を摘まみ上げる。 「へえ!」 悪魔を見るなり、険しさが消える。 彼の濃紺の瞳が、楽し気な光をひらめかせ、間近で見上げてきた。 「生きてたのか、すごいな、どうやった?」 茶目っ気たっぷりに、魔竜は摘まんだ悪魔をぷらぷら揺らす。 「どう考えても、お前、契約してたよな、人間と。けど、さっきので契約者は死んだろ?」 悪びれもせず言って、魔竜は安物のベッドに腰かけた。ベッドが派手に軋む。 「それなのに生きてるって。どんな細工したのか…は、今はいいや。で?」 魔竜は片足を組み、抵抗しない悪魔を興味深そうに見遣った。 「なんで俺のとこに来た? 殺されるって思わなかったのか」 間近で覗き込んでくる濃紺の瞳は、生き生きと輝いている。 不思議なことに、そこに殺意はなかった。 悪魔が魔竜に行った無礼に対して、ひとつのわだかまりもない態度だ。 幸い、問答無用で踏み潰されるかもしれない、という最大の懸念は避けられた。 ここからが正念場だ。 魔竜の指先で左右に振られながら、悪魔は神妙な態度で縮こまった。 『なんでも、話します』 せいぜい卑屈に、悪魔は告げる。口がないから、魔竜の意識へ直接。 魔竜は目を細めた。 「たとえば?」 『オレに下された命令内容、誰がそれを望んだか』 魔竜は、悪魔を揺らすのを止める。 「…ふぅん? で、対価は」 よし、興味は引けた。 『オレを地獄へ帰してください』 なに、ちょっと結界の外へ連れ出してくれたらそれで済む。 とはいえ、魔竜と対等の取引など、本来ならできるはずもない。 今回のこととて、何かを知りたいなら、魔竜は問答無用で悪魔の精神を探れば済む話だ。 力あるものが、弱者の同意を得る必要などない。今すぐ握り潰されてもおかしくない状況だった。 内心、冷や汗まみれだった悪魔の聴覚に、 「いいよ」 さらり、魔竜は応じる。 「一発殴ったから、俺の恨みつらみは消えてるし。諸悪の根源は、お前に依頼した人間だ」 あまりに拍子抜けしたため、悪魔はすぐに理解できず、魔竜を見つめた。 ―――――今、何と言ったのだ? 悪魔の戸惑いに構わず、魔竜は言葉を続けた。 「だから抵抗すんなよ? 今からお前が持ってる記憶を見させてもらう」 もにゅ、となにやら変な感覚が精神に入ってきた、と思うなり。 「…ふん?」 魔竜は眉をひそめた。 「ハディスじゃ、こんなに、王家の力が弱体化してたのか」

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