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幕・32 食べさせて
―――――一瞬だった。
一瞬で、魔竜は悪魔から正しく情報を読み取ってのけた。それが、分かった。
悪魔に残ったのは、最初の違和感だけ。
痛みも疲労もなければ、何かを奪われた喪失感もない。
これは即ち、ただでさえ強大な存在である魔竜が、魔力の扱いにも長けているということだ。
つまりは、力技で大概のことが何とかなる存在が、その上でさらに努力をして強くなったという事実が垣間見え、悪魔はなんだか薄ら寒くなった。
(もともと優れた存在が、どうしてまた、努力しようなんて気になるんだ…)
たったこれだけのことで、悪魔は心の底からの敗北感を舐めた。
その様子に気付いた気配もなく、魔竜は呟く。
「王位継承者の一人が亡くなったのは、賊に襲われた偶発的な事故が原因で、それも王家弱体化のためにろくな護衛を雇えなかったことに理由があるとも言える、か」
案じる眼差しを後宮がある方向へ向ける魔竜。
「ただしその遺体を護衛の一人だった魔法使いがよりによって魔塔へ持ち込み、悪魔を召喚して今回のことを企てたのは…」
魔竜の眼差しが、すうとカミソリの鋭さになる。視線を返し、悪魔を射抜いた。
「いただけないな。しかも、狙いは皇子の身柄だなんて、な。外部に神聖力を持ち出されるのはオリエス皇室の禁忌だ」
実際、神の子孫たる証明の神聖力は、皇帝のみが引き継ぐシステムになっていた。
たとえ数多い兄弟姉妹が皇室に存在したとしても、皇帝が決定した時、後継者ただ一人に神聖力は返還される。
皇室のみに継承される儀式によって。
完全に後継者が決まる前に皇女が降嫁する場合なども、皇室に残る他の兄弟へ神聖力を返すという皇室の法があった。
この厳格なシステムによって、神聖力が市井へ出回ることもなく、他の一族の中へ溶け込むこともなかった。逆を言えば。
皇帝の肉体によってのみ受け継がれるものであるため、地上から失われる危険性も常に背中合わせに持っていた。皇帝が子を成さず亡くなれば、永遠に喪失される。
その危険を犯してまで代々皇室が守られ続けてきたのは、神聖力、即ち、神の力が実験によって暴かれることを防ぐためだ。
今回、魔塔が皇子を攫おうとした理由が、これだ。
それはハディス王家のためなどではない。その身に流れる神聖力を調べたかったからだ。
魔塔の狙いなど、分かり切っていた。
オリエス帝国の魔塔に所属する魔法使いたちも、隙あらば皇帝の力を調べたがっている。
もちろん、皇室と魔塔の均衡を保つためには、そのようなこと許されはしないが。
神聖力は―――――神の力。
まず、神殿が魔塔の求めを許しはしない。
ゆえに悪魔はこの遊戯を受け入れた。面白そうだったからだ。なにより。
神聖力を間近で感じる機会など、普通に考えれば悪魔にはない。
「だとして、これが、ハディス国の魔塔だけの企みごととは…思えないな」
不意に、魔竜が呟いた。
「…あぁ、そうか」
次いで、その表情に浮かんだものは―――――冷たい、怒り。
ほんのわずか、その感情を感じた、それだけで。
悪魔は全身が消えるかと思った。
それほどの、問答無用の圧力が刹那に魔竜から放たれる。
常におどけたような陽気さを孕んでいる濃紺の瞳が、少し、上を向いた。
「これは…オリエス帝国の魔塔も噛んでるな?」
ぎしり、魔竜が腰かけたベッドが音を立てた。
どこへ行くつもりか、魔竜が立ち上がろうとしたのだ。直後。
「…ぁ」
魔竜が、半端に腰を上げた状態で動きを止めた。
面食らった態度で、ドアの方を見遣る。
視線を転じ、焦った動きで、摘まみ上げた悪魔を覗き込んだ。
「やべぇ、お前、隠れてろ」
部屋の片隅へ悪魔を放り込み、その周囲に彼は結界を張った。
守られているようでも、閉じ込められているようでもあるその結界に、悪魔が戸惑う間もなく、
「嘘だろ、さっきの今で、なんで来れんだよ…!」
何を感じたか、魔竜はベッドにもぐりこんだ。シーツの中へ隠れるように。
すぐ、無駄と自分で言わんばかりに、落ち着きなく起き上がる。
「だめだ。どうせ誤魔化しも逃げもできねえ…」
頭からシーツをひっかぶった状態で、がっくり、頭と肩が落ちた。
いったいなんなんだ、と思う間もなく。
(…ぁ)
―――――悪魔にも、ソレが感じ取れた。
強大な、神聖力。
本体でなく、むき出しの核となったからこそ、分かる。これは。
神そのものが降臨したと言われてもおかしくないほどの、猛烈な光輝。
悪魔が縮み上がるなり。
―――――コン、コン。
ノックの音。
返事をするべきか、無視するべきか、悩むような魔竜の沈黙。
外にいる相手が、返事をするまで待つかと思いきや。
「起きているだろう」
待つ間をひとつも置かず、ドアは開いた。堂々とした態度には怒りも湧かない。
むしろ、相手こそがもともと部屋の主である気になって、反射でごめんなさいと言いたくなる。
空気の色が一瞬で塗り替わったようだ。
厳格にして、気高く、高貴。
これが、オリエス皇帝。
宮殿の上で対峙した時も思ったが、―――――破格、の一言。…それでいて。
室内に満ちた魔竜の魔素と、皇帝の神聖力が、せめぎ合うこともなく、上手に融和している様を間近で見ることになった悪魔は、呆気にとられた。
(え、ナニこれ)
普通は反発し合って大変なことになるはずだ。
まじりあいは決してしない力同士が、なぜこうも簡単にお互いの居場所を譲り合っているのか。結果。
―――――逆に、周囲へ生じる圧迫感は、半端ない。
宰相のリュクスなどがここにいれば、慣れだよ慣れ、とか言うところだろうが、幸か不幸かここに彼はいない。
「…お前たちはもう戻れ。ご苦労」
騎士たちがついてきていたのか、皇帝は部屋の外へ声をかけた。
すぐ室内に入り、彼は後ろ手にドアを閉める。
部屋の隅で悪魔は縮み上がる。
できうる限り気配を消し、早々に皇帝が退散してくれることを祈ったが。
「近寄るな」
当然のように狭い部屋を横切り、魔竜へ近づこうとした皇帝を、当の魔竜が制した。
声は、厳しいと言うより、苦い。
一歩踏み出そうとした皇帝は、しかし、それだけで動きを止めた。
闇の中にも神聖力はあまりに眩しくて、悪魔はおそるおそる皇帝を横目に見遣る。
圧倒的な気配を持つ彼は、頑是ない子供のように、わずかに首を傾げた。
「ヒューゴ」
ただしそれは悪魔から見れば、猛獣が子供の振る舞いを真似ているようで、違和感だけしかない。
「今日はもう、する気はない」
分かってんだろ、と魔竜が告げる声は素っ気なかった。
少しの沈黙を挟み、皇帝が口を開く。
「だが、ダメージを負ったろう。その上で神聖力の鎖の戒めを受ければ苦しいはずだ。―――――食事が、必要だな?」
言いながら、彼はベッドへ歩を進めた。
部屋は狭い。皇帝はすぐ、ベッドのそばで立ち止まる。
シーツをひっかぶった魔竜は、そのままの体勢で振り向かない。
不意に、皇帝が呟いた。
「…血の匂いがする」
それは最初から変わらない、淡々とした声。
しかし、何かどす黒いものが滲んでいた。
それを跳ねのけるように、
「さっきの怪我なら塞がってる」
魔竜は言ったが、聞いているのかいないのか、皇帝は手を伸ばす。
ゆっくりと確かめるように、魔竜の背に触れた。シーツ越しに。
頭からシーツを被った魔竜の表情は見えない。だが、深くため息をついたようだ。
皇帝に去る様子がないためか。
「俺は簡単には死なない。さっきも言ったが、今日はその気になれない」
魔竜はきっぱり、拒絶を口にした。
だが、皇帝の指先が、魔竜の背の輪郭を確かめるように撫でる動きを、止めはしない。
魔竜はさらに強い口調で告げる。
「皇后か皇妃のところへ行け。いや今日は、フィオナのところにいるのが正解だ。ディランについててやれ」
そうだそうだ、と悪魔は心の中で援護射撃。
皇帝は、脅威だ。早くここから出て行ってほしい。
ところが、皇帝は頷かない。
むしろ、意地になったように、黄金の目を細め、有無を言わさぬ口調で告げる。
「…ヒューゴの食事が終わったらな」
食事というのが何の話か、悪魔には分からない。
だがこうも言い張るのなら、食事とやらをさっさと終わらせれば、皇帝は去るのではないだろうか。
思ったのは、悪魔だけではなかったようだ。
「はっ、そんならよ」
触れる皇帝の手から逃れるように身を放し、魔竜はシーツを勢いよく足元へ投げた。
その上で、ベッドの上に大の字で寝転がる。
「―――――食わせてくれよ。お前がな」
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