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幕・52 玩具を前にした猫
クライヴに対する腹立ちはない。
ひよこにつつかれた程度で腹を立てろと言う方が難しい。
だがここでぼんやり突っ立っているのも間抜けだ。
なによりそろそろ一暴れしたい。
うずうずとヒューゴが、玩具を前にした猫のようにタイミングを見計らっていたそのとき。
「ヒューゴの好みは、カタナだ」
落ち着き払った声が、訓練場の中へ届いた。
(…は?)
ヒューゴは腹の底がヒヤッとなる。こんな場所で聴こえていい声ではなかったからだ。
(リヒト? まさか、一人ってわけないよな)
乱闘の中、それでもその声を拾った騎士がいたのだろう、幾人かが動きを止める。刹那。
「―――――総員っ! 跪け!!!」
裂帛の声が、訓練場の空気を割った。
びりびりっと壁すら震わせた大音声。全員が反射で従う。
瞬く間に騎士たちはその場で膝を落とした。
全員、頭を深く垂れる。
その時には皆、全身から血の気が引いていた。それもそのはず、訓練場に雷のごとく轟いた声の持ち主は、
「この、みっともない状況は何だ。私に説明できる者は!」
燃え上がるような赤毛の騎士。
いつもは穏やかな空色の瞳が、今は、貫かんばかりの鋭さで訓練場内を薙ぎ払った。
オリエス帝国将軍、リカルド・パジェスだ。
誰もが、いっきに震えあがった。しかも。
リカルドの背後には―――――この国で最も畏れ敬うべき存在が立っている。即ち。
オリエス帝国皇帝、リヒト・オリエス。
…帝国の主たる皇帝が、黄金の目で、この場に居合わせた全員の姿を睥睨している。
跪きながらも、ヒューゴとしては、五体満足、無事なリヒトの姿に、心底安堵した。
しかも、リカルドを伴っているなら、安全面も完璧だ。
何か起こることなんてないと分かっていても、心配は心配だった。
リヒトの姿に、知らず、顔が輝く。
そんな、ヒューゴから。
―――――…どういうわけか、リヒトの黄金の目が離れない。
凝視されすぎて、なんだか今度は別の意味で不安になってくるヒューゴ。
年若い騎士たちは皇帝がそこにいる、それだけで、言葉を口にすることはおろか、考える能力すら失ったかのようだ。
火のように熱かった鍛錬場の中は、墓地のように静かになった。
誰も口を開かない。
リヒトを気にしながらも、今、どういう状況だったっけ、と多少余裕のあるヒューゴは思考を巡らせた。
リカルドから叱責を受けて―――――…ああ、状況の説明を求められているのだ。
だが口を開く勇気を持つ者は、一人もいないようだった。
根気よく待っているリカルド。
だが、ウォルターは一見冷静なようで、不貞腐れているようだし、クライヴに至っては、怒鳴られる経験があまりないのだろう、拗ねているようだ。
勿論、双方、リカルドに敬意を抱いている。
ゆえに、へたに口を開いて弁明することもできずにいるのだろうが。
とうとうヒューゴは、彼らの様子を見かねて顔を上げる。
「訓練しておりました、将軍閣下」
じろり、とリカルドの目が、ヒューゴを見遣った。
「子供同士の喧嘩のような現状を、―――――ほう、訓練、と」
沈毅重厚、リカルドこそ、本物の大人の男である。
何事も四角四面には考えず、これまでずっと、柔軟な対応をしてきた。
ある程度、事態の真相は見抜いているはずだ。
なにせぶつかったのは騎士団の中でも、第一と第五である。
言われずとも、想像はつくだろう。しかし、御法度の私闘を前にすれば、いかに彼とて、厳罰を与えなくてはなるまい。
しかも片方は、皇后陛下直属の第一騎士団である。
なんにもなかったよ、で済まされる状況ではなかった。だがしかし。
ヒューゴは堂々と言い切る。
「はい、訓練です。チーム別に別れて、互いの実力を図るため、競い合っていた次第」
間違ってはいなかった。完全な嘘でもない。
発端はどうあれ…、そう、発端など、関係なかった。とにかく、双方、全力をもって相手を打ち負かそうと力の限りを尽くそうとしたのは事実。
実力を測るのに、ちょうどいい機会となったはず。
ちょっと騎士たちが機転を利かせて、ヒューゴとお利口に口裏を合わせてくれたなら、きっと、リカルドとしても見逃しやすいはずだ。
ヒューゴはすらすらと言葉を付け足す。
「近く、騎士たちの昇格試験、及び、武闘大会も催されます。騎士ならば、己の現在の実力を正確に知れば、より伸ばす一助と為し、日々の研鑽の足しとするはず」
それほど強さに貪欲でなければ、戦士とは認められない。
どうせなら、この乱闘も己を高める糧とすべきだ。
鷹のような眼差しで、ヒューゴを射抜いていたリカルドは、ふ、とその視線を切った。
跪く騎士たちを見遣る。重く尋ねた。
「…彼の言葉は正しいのか」
すこし、ひやりとする。第一騎士団が反発することを予期したからだ。しかし。
全員から、「はい」とヒューゴの発言を肯定する、緊張しきった声が次々と上がった。
本心はどうあれ。
騎士たちの憧れたるリカルドの前で、…なにより、主人たる皇帝陛下の御前で、みっともない事実を語るのは、憚られたらしい。彼らの矜持が許さないだろう。
ヒューゴは内心で、よっしゃと拳を握った。
第一騎士団がこの場で自らヒューゴの言葉を認めた以上、このことで皇后に付け入る隙を作らずに済んだはず。
ヒューゴは内心、ホッとしたが。
―――――やはりずっと、リヒトの視線がヒューゴから離れない。
何やら物言いたげだが、何を言いたいのか分からなかった。
(なんだ俺が何かしたのか、ねえ?)
もの言いたげと言うか、もっと言うなら。…怒って、いる、―――――ような?
そう、感じた途端。
「ぅわ、」
ヒューゴは思わず声を上げた。その首にまた、新たな神聖力の鎖が絡みついたことに、見える者なら気付いたことだろう。
全身に神聖力の鎖を巻きつかせながら平然と動いているヒューゴだが、悪魔である以上、増えればつらい。
跪いている状態を保てただけでも褒めてほしい、本当は倒れたい。地面に突っ伏して、しばらく動きたくない。
しかも。
(なん、だ?)
たった今、気付いたことだが。
ヒューゴにとって、今まで、神聖力の鎖とは、この場所への束縛の力であり、まかり間違えば悪魔の命を奪うものだった。それが、…今は。
―――――心底、ゾッとした。
(変質、している。いや、強固になったって言うべきか?)
先日、今までの鎖がすべて、一旦外れ、再び全身に巻き付いたことを思い出す。
あれの、せいだろうか。
神聖力の鎖が、変化していた。
無論、それの意図する目的は、変わらない。
―――――束縛。この一点に尽きるが。
目的が束縛ゆえに、触れるだけで悪魔を殺す神聖力の鎖であることは間違いないものの、求めるものは対象の死ではない。
ヒューゴを縛める鎖の力は、今、別の方向へ極端に特化していた。
別の方向、即ち。
―――――封印。
(…されてたまるかぁっ!! 単純に殺されるより悪いヤツだろ!)
反発に、子供のように転げ回って、外せ、外して、と駄々を捏ねたくなる。
いや、一度やった。
竜体で転げ回ってリヒトに訴えた過去を思い出し、成長しない自分に呆れる。なんにしたって。
思わず、抗議の視線をリヒトに向ければ。はっきりと、黄金の目に、怒りが見えた。
(なんなの…)
怒りたいのはヒューゴの方である。
リヒトは戸惑うヒューゴを見据えたまま、目を眇める。
周囲の状況に興味はない様子で、リカルドに尋ねた。
「では、問題はないな。リカルド」
「は」
リカルドはリヒトの前から身を引き、丁重に頭を下げた。
「来い、ヒューゴ」
あっさりと、リヒトは踵を返す。
ただし、ヒューゴを解放する気はないようだ。
訓練をするつもりだったんですが?
などと、この場で言おうものなら、居合わせた騎士が全員ヒューゴの敵になるだろう。
それはそれで楽しそうだが、まずは、何に怒っているのか、リヒトの機嫌をこれ以上悪化させたくはない。
無言で立ち上がるヒューゴ。
足元を見下ろすが、誰も顔を上げない。
ろくに挨拶もできないことは気になるが、仕方がなかった。
リヒトを一人で行かせるわけにはいかない。
「では、失礼致します」
ヒューゴは丁寧に頭を下げて、リヒトの後を追った。
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