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幕・104 ネジが外れる前に
言いさしたカラスが、突如、固まる。不自然に言葉を止めた。
思わず耳を塞いでいたヒューゴが横目に見遣れば、憑きモノが落ちた風情の横顔が目に映る。
カラスはすん、と平坦な表情を執務室の扉に向けていた。
「混沌?」
どうしたんだ、とヒューゴが声をかければ、
「あ、こりゃダメだ」
妙に間の抜けた呟きを混沌がこぼすなり、
―――――ガチャ。
ノックもなしに、扉が開いた。刹那。
「………混沌?」
ヒューゴは唖然と呟く。音もたてずにカラスの姿が消えたからだ。理由は、おそらく。
「やはりここか、ヒューゴ」
扉から、切れそうなほど厳しい空気をまとった皇帝が入ってくる。
そこまで彼の護衛としてついて来たのだろう、扉の外で立ち止まった近衛騎士が室内へ向かって頭を下げた。
閉じる扉の向こうに消えていく、彼らの姿を視界の隅に収めながら、
(こっっっっっわ)
ヒューゴは真剣に冷や汗をかく。
ノックもなかった時点で、相手が誰かは察していたが、こんな結果になるとは思わなかった。
何が起こったかと言えば。
オリエス皇帝は、たった今、現れただけで上位種の悪魔を蒸発させたわけだ。
「え、え、えええっ!?」
恐怖のあまり固まったヒューゴの代わりに、声を上げたのはリュクスだ。
「ちょちょちょ、いいの、ヒューゴ、彼、消えたけど!? トモダチじゃないの? 死んじゃったみたいだけど、いいのっ?」
「落ち着け、リュクス」
ヒューゴはぎこちなく首を横に振った。
リヒトはリュクスの賑やかさに、
「やかましいな、気絶させろ」
無慈悲な命令を飛ばし、顔をしかめて立ち止まる。
「仕事疲れでふらふらの宰相をいたわる前にそれっ!?」
リュクスが愕然と叫んだ。
仕方なしに横から声をかけるヒューゴ。
「リュクス、リヒトはちょっとは寝た方がいいんじゃないのって気遣ってるんだよ」
信じられないと言った表情を、リュクスはヒューゴに向けた。ヒューゴは無言で訴える。
そういうことにしとこうよ? だが宰相は許さなかった。
「どう解釈してもそうは聴こえないけどね!」
ちょっと涙目になった幼馴染を気にした様子もなく、リヒトは冷然。
「今すぐ無駄口を止めて説明しろ。何が消えて、死んだだと?」
リヒトの態度は、問答無用で相手を従わせる力に満ちている。
これ以上、オリエス帝国の皇帝と宰相の間に亀裂が入ることを止めるべく、ヒューゴはリュクスの代わりに答えた。
「俺の悪友がさっきまで俺の肩に乗っかってたんだけど、リヒトが入ってくるなり蒸発しちゃったんだよ」
―――――蒸発…。
その言葉を、リヒトを除いた周囲が呆然と声を揃えて繰り返すのに、ヒューゴは軽く片手を横に振る。
「神聖力を前に悪魔がそうなるのは当たり前だし、死んだわけじゃないから大丈夫だよ」
考えてみれば、リヒトは日常的に、気として…分かりやすく言えば、生命力の現れとして、神聖力を放っているのだ。
悪魔が無防備に近寄っていい存在ではない。
ヒューゴだって、うっかりすれば、毎日死にかけている。
「死んでいない? 蒸発したのだろう?」
少し眉をひそめたリヒトに、ヒューゴは親指を立てて、いい笑顔。
「やっつけてくれてありがとね、リヒト!」
「何言ってんのっ!?」
さらに周囲が唖然とする中、唯一、リュクスのツッコミが迸る。
ヒューゴは肩を竦め、頭を横に振った。
「たまには痛い目見るべきなんだよ、アイツは」
ふんっ、と荒い鼻息を吐きだす。真面目な顔で頷くリヒト。
「ヒューゴが言うなら、そうなんだろう」
―――――違うと思う。
冗談ではなく本気の皇帝に、周りは愕然となった。
構わず、ヒューゴは適当な説明を付け加える。
「おう。あ、ちなみにあのカラスは一種のアンテナ…じゃ分からないか、ん、一本の触覚みたいなものだから、それがなくなったところで混沌は痛くもかゆくもないよ。死にもしない」
「触覚なくしたら大変なんじゃないの?」
「ちっとも。何本あると思ってる?」
リュクスの言葉に、ヒューゴは平然。
「基本的に混沌は、異空間にいるから、どこにでも現れるし、どこにでも出て来られない。そこにいるしかないから、仕方なくああして端末を飛ばしてくるんだよ」
「謎かけのような物言いだな」
優等生の態度でヒューゴの言葉をまともに聞いていたリヒトは、難しく考え込む表情になる。
「本体が出てきたらやばいけど、まあ大丈夫だよ。あれでも弁えた悪魔だから」
室内にいた、リヒト以外の人間が、苦い薬でも飲んだ表情をヒューゴに向けた。
弁えた悪魔。
そんなもの、いない。
なんにしたって、混沌と本気で取っ組み合えば、ヒューゴとて勝てるかどうか。
それ以前に、混沌の本体が出てくれば、たぶん、この星が亡ぶ。
「先ほど、混沌と言ったが、悪魔・混沌のことか。いたのか、ここに? ツクヨミが反応した様子はなかったが」
唯一、ヒューゴの言葉を素直に受け取ったリヒトが、尋ねれば、
「そうそう、あいつ、結界を壊さず、しかも気付かれない方法で入って来たんだ」
「それって結界に穴があるってこと?」
リュクスが厳しい顔で言うのに、ヒューゴは曖昧に首を横に振った。
「ちょっと違う。結界内に地獄とつながる道筋ができちゃってるんだよ」
「は?」
ゾッとした様子で、聞き返すリュクス。
だが、説明は難しいなあ、と言ったヒューゴの表情に、矢継ぎ早の質問をどうにか飲み込む。
というより、正直、疲れていた。
「だから今日は騎士棟近くの湖は立ち入り禁止にしておいてね」
「…それでどうにかなるの?」
「夜までには、結界張りに行くよ。それで大丈夫」
色々言いたげな表情になったリュクスだが、ぐっと堪える。
「ひとまず、その話はあとにしようか」
とうとう、欠伸を漏らしながら、リュクスはリヒトを見遣った。
「先にそっちの話を聞こうか、陛下。ヒューゴを捜してたみたいだけど」
「そうだ」
リュクスの意識がリヒトへ向かうことで、解放されたヒューゴは、つい、はらはらと周囲を見守る。
二人のやり取りの合間に、周囲の文官が、立ちっぱなしの皇帝の姿に、一生懸命椅子を探していたのだ。
ただリュクスと同じく疲れ切っているのか、全員が、あっちへふらふらこっちへふらふら、危なっかしい。
まるでゾンビの群れだ。
しかも、きれいな椅子が見つからないようだった。
見れば、皆が使っている椅子は使い古されて、見た目がとんでもないことになっている。
おそらく、座り心地もよくないだろう。
皆がいつも…というか見るたびずっと座っているからよく気付いていなかった。
それこそ夜までに新しい椅子を備品室から持って来て取り換えよう、と決意しながら、いいよ俺がやるよ、と比較的きれいな予備の椅子を部屋の隅へ行って持ち上げた時。
「今日、フィオナがディランと公務で出かけるのは知っているな」
確認するように、リヒト。うーん、とリュクスは唸って、
「明日じゃなかったっけ…いやいやいやそうそうそう、もう今日だね、今日」
ぺしぺし、自分の額を叩いた。徹夜で日付の感覚が怪しい。さすがにリヒトが言う。
「少し寝ろ」
「そうする」
逆らえない、と言った様子でリュクスが肩を落とした。
「寝る前に。―――――皇妃殿下の外出がどうしたの。安全対策は万全だよ」
部屋の中央にヒューゴが椅子を置いた。
エスコートするように手を掬い上げて促せば、リヒトは素直にその上に腰掛ける。
見守っていた文官たちが、ホッと息を吐いた。とたん、
「待って、そんなボロ椅子に皇帝を座らせるの? ぼくの椅子に座りなよ」
リュクスが、書類の山を回り込んでその向こうへ行くのに、
「お前の椅子はネジが外れかけている」
冷静に、リヒト。
「そんなわけないでしょっ、ってか、それが本当だったらなんでリヒトが知ってるの」
言いながらも机を回り、リュクスはしっかり確認作業に入ったようだ。
「ネジってどこの…あ! 外れかけてるんじゃないよ、外れてるよ!」
「お前の頭もそうなる前に、新しいものを購入しろ。一国の宰相が情けない」
「客人を通す部屋の方はきちんとしてるってば」
「どうだか。一度、きちんと整理整頓、掃除をしろ。命令だ」
「するよしますよ…って言うか椅子のこと、知ってたならなんで教えてくれないのさ!」
「伝えた。忘れていたのはお前だ」
今までの経験からして、二人のやり取りは放っておけば延々と続く。
断ち切るように、ヒューゴは声を上げた。
「はいはい、新しい椅子が来るまでの間、予備の椅子用意しないとね!」
他の皆のもね、と心の中で付け加え、
「掃除なら俺が手伝うよ」
目で箒や雑巾を探し、のんびり腕まくりしようとすれば、
「はいそこ、騎士になったってこと忘れた発言だね、大馬鹿!」
早速、リュクスに怒られた。
そしてすぐ、代案を出される。
「エイダンに頼むよ、あの子なら信用できるから。誰でも入れていい部屋じゃないからね、ここは」
確かに、この室内には機密事項が山ほど収まっている。
「そう言えば、エイダンは平民になるそうだね?」
「待機期間とか含めて一ヶ月かかるけどね。奴隷じゃできない仕事も多いし」
「しばらくは掃除とか来客応対とか頼めばどうかな。エイダンならそつなくこなすよ」
見ているとはらはらする他の文官たちのためにも、早いうちに、ぜひ。
「そのつもり…って、その話はまた今度ね。だから、」
再度それかけた話の道筋を戻すべく、リュクスはリヒトへ目をやった。
「皇帝陛下御自らヒューゴを捜しに来た理由って何」
「私としては非常に不本意だが」
今度はわたわたとお茶の準備を始めた、不慣れな文官たちを尻目に、リヒトは告げた。
「今日、ヒューゴにフィオナたちの護衛を頼みたい」
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