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幕・106 悪魔卿
「ヒューゴ」
何やら落ち着かな気なディランを放って、フィオナは印象的な真っ直ぐな眼差しをヒューゴに向けた。
呼び方が変わった。
グラムス卿、ではなく、ヒューゴ。だから、
「オリエス帝国の皇室の厳しさは知っているわよね」
「まあね」
ヒューゴも気楽に応じた。
教育に関しては言わずもがな。後継者争いも苛烈を極める。
「俺はかつて、リヒトと一緒にその渦中にいたわけだし」
そして今は、別の戦場に立っている。
ディランが、大きな目をまたまん丸に見張ってヒューゴを見上げた。
皇帝である父を呼び捨てにしたのが意外だったのだろう。だが、フィオナは咎めない。
そのことに、いいのかな、とディランは困惑の表情になっている。分かりやすい。
ディランをよそに、フィオナの言葉は、次第に切々と続く。
「手をつないで歩いてあげたくても、周囲の目を気にすればしてあげることもできない。…分かる? この悔しさ」
つまり先ほど、フィオナはディランと手を繋いで歩きたかったのか。
フィオナが向けてくる恨めしそうな目に、ヒューゴはけろっと一言。
「やればいいじゃん」
「く…っ、ドレスでなければ…!」
言いつつ、フィオナが見ているのは、膝抱っこされたディランである。
なるほど、これもやりたいのか。思いながら、再度促す。
「じゃあドレスじゃない時やりなよ、膝抱っこ。誰も見てないところで」
「だーかーらっ」
フィオナは自分の太腿をバシバシ叩いた。
今度は、ディランの見開かれた目が母親へ向いた。
「そんなことすれば、いつまでも母離れできない皇子、とかディランがバカにされるし、子離れできない皇妃とかあたしもバカにされる。皇宮ではどこで誰の目があるか分からないし、生き残るためにはそんな陰口叩かれるわけにはいかないのよ!」
皇妃殿下のフィオナさまは、普段、こんな子供っぽい言動はしない。
次第にヒートアップしてきたフィオナの様子に、ヒューゴは咄嗟に、周囲に声が漏れない結界を張った。
同時に、ディランが周囲を不思議そうに見渡す。
魔力の動きを感知したのだろう。
「まあ…皇后の目もあるし、他の皇妃たちも何かと荒さがしに余念はないな」
「こっちもしてるからそれはいいんだけどさ」
「さっすがフィオナ。逞しい。あ、ディラン殿下、大丈夫ですよ、ちょっと声が漏れない結界張っただけなので」
「やっぱりヒューゴは気が利くわね。って、ここなら別にディランのことも呼び捨てでいいわよ。敬語もいらない」
ねえ、と同意を求めてくる母親に、息子はいい子のお返事。
「はい」
「ほんとにい? じゃ、ディラン」
にこーっと微笑んで顔を覗き込めば、はにかんだ微笑が返ってくる。
ご褒美、ありがとうございます。
「ディランはなんだかんだ、あたしにも敬語だから。そこは放っておいてあげて。癖みたいなものね」
「話しやすい方でいいからな」
小さな背中を軽く撫でれば、はい、とまだ緊張が抜けない様子で頷いた。
平気で二人がくっついている姿を、今になって不思議そうに見遣り、フィオナ。
「ねえヒューゴ、陛下はともかく、ディランの神聖力も平気なの?」
魔法を使うのにディランの神聖力は邪魔にならないのか、と言いたいのだろう。
結論から言えば、
「気にならないな」
「あなた本当に悪魔?」
「俺、魔力強いから」
「神聖力に触れたら悪魔って死ぬわよね?」
「そりゃ、俺だって、じかに触れたらやばい」
実際、ヒューゴがリヒトに骨まで溶かされかけたのは、つい最近の話だ。
とはいえ、婦女子の前でそんな話は不要だろう。
「けど、気や体液に混じってるのを操ることだってできるから」
「できちゃっていいの、それ」
「できるんだからいんじゃないの」
「同じ神聖力を持つ者同士でも他人のを操るのは難しいって聞いたけど」
「あの」
恐る恐ると言った態度で、ディランが口を挟む。
「お二人は、知り合いなんですか?」
改まって、何かと思えば。
それにしても、知り合い。微妙な言い方である。
知り合いと言えば知り合いだが、おそらく、ディランが求めているのは、そういう答えではあるまい。
どう答えればいいものか。
「知り合いも何も」
フィオナは言いさし、気を取り直した態度で口調を改めた。
「一応、紹介するわね。…あなたには、全身に絡みついてる神聖力の鎖が見えてるだろうから、分かるでしょうけど」
ヒューゴは、彼女の言葉に、はじめて気づく。
全身に絡みついている神聖力の鎖は、それだけでもう自己紹介になるようだ。少し複雑な気分になる。
「ソイツはヒューゴ。今はグラムスって名乗ってるみたいだけど、あなたも聞いたことあるでしょ、ディラン」
フィオナは肩を竦めた。
「陛下の奴隷、悪魔卿。―――――そしてついこの間、あなたを助けるのに一役買った魔竜よ」
「あ」
大体察していたらしいディランが、その言葉に、何を思ったか、慌てた様子で頭を下げる。
「あのときは、ありがとうございました」
言われて、気付く。
そう言えば、あの日以来、ディランとは会っていなかった。
「ディランの元気な姿が、俺にとってはご褒美だから」
お礼とかはいらない。ありがとうなんて、逆に驚く。
性質が本当に健やかな皇子さまである。
ヒューゴがしれっと言えば、ディランはぽかんと見上げてきた。その顔を覗き込み、
「でもはじめましてじゃないよな。この間までちょくちょく俺の歌聞きに来てたし?」
「あ、それは…っ」
しー、と慌てたようにディランは言ったが、口にしてしまった言葉は取り消せない。
「歌?」
フィオナが鋭く反応。ディランは自分の口を両手で塞いでしまった。
どうやら、彼女には内緒だったらしい。
「歌って、ヒューゴが? どこで歌ってたのよ。まさか、陛下のところまでウチの息子は出かけてたの?」
「いや俺、殿下が攫われそうになったあの時期、早朝に大量のシーツ洗っててさ」
失敗だったかな、と思いながらも正直に答えれば、
「騎士になる前ってことね。でも陛下の奴隷がやること? なにやってんの?」
皇妃殿下の辞書には昔から、容赦という文字がない。フィオナはにやり。
「怒られたでしょー」
「ぐっ。反省してます」
ディランの反応の割に、フィオナには怒った様子はない。
おそるおそるフィオナを見遣るディランに、彼女は微笑んだ。
「ディラン? 今回は、ヒューゴだったからよかったものの、皇宮の人間に、誰かれなくうっかり懐いちゃダメよ」
なるほど、これは、知らない人について行っちゃいけません、という教育なわけだ。
確かに、皇宮は魑魅魍魎が徘徊する万魔殿。
身元不明の人間に、心を許せば、知らないうちに一番油断している場所で落とし穴が用意されているだろう。
(でもこんなの、フィオナは本当は言いたくないんだろうな)
「そうそう、俺はね、昔、フィオナが一人で頑張り過ぎて倒れたとき、一ヶ月くらい、赤ん坊だったディランのおむつ変えたことだってあるんだぞ」
言った後で、思う。
もしかすると、これが、ディランが聞きたかったところかもしれない、と。
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