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幕・107 どちらのお母さま?
フィオナは本当に頑張った。
帝国に来た時から、いつも頑張っていた。
そしてもちろん、今も最高に頑張っている。
努力家なのは、認めるが。
かつてはちょっと、頑張り過ぎていた。
頑張って、頑張って、頑張って。
そして結局、故郷から連れてきた使用人の一人に裏切られた。
陥れられた結果、そのとき誕生したばかりのディランと共に、危険な目に遭った。
一時は、二人の命が危ぶまれたほどだ。
裏切り者は結局自殺し、何の証拠もないが、皇妃の一人に買収された可能性が高い。
その皇妃は、あからさまに皇后にすり寄っている者だ。皇后も無関係ではないだろう。
傍で見ていてもよく分かるのだが、皇后グロリアは、同郷の皇妃メリッサよりも、フィオナを敵対視している。
結果として、フィオナも、グロリアを蛇蝎のごとく嫌っていた。
当時、かろうじでディランは無傷だったが、フィオナは心身ともに傷つき、しばらくはまともに立ち上がれないほどだった。
そのいっとき、フィオナは誰も信じられずにいた。
乳母さえ近づくことを拒んだ。
そんな彼女に、つきっきりで宥め続けたのが、ヒューゴだ。なぜ奴隷のヒューゴに、そんな役目につくよう白羽の矢が立ったのかと言えば。
成り行きだった。少し説明を付け加えると。
―――――事件が起こる数日前。ヒューゴは、リヒトから言われた。
フィオナに気を配ってやってくれと。
生まれたばかりの赤ん坊がとても気になっていたヒューゴは、二つ返事で引き受けた。
リヒトからお許しが出たのだ。堂々と見守れる。最高だ。
という、どちらかと言えば、赤ん坊へのヒューゴの関心が、この母子の危機を事前に察知させた。
二人の危機的状況に間一髪、ヒューゴが間に合ったのは、そういう事情からだ。
なんにせよ、ヒューゴはフィオナにとって、恩人となった。
根っこがお人よしの彼女が、自身と息子の命の恩人に対して、強く出られるわけがない。
それでも、拒絶がないだけで、フィオナはとことん塩対応だった。
フィオナのツンに傷つき、毎日そこに塩を塗りたくられ、ヒューゴはその頃毎日しくしく泣いていた。
とはいえ、赤ん坊は可愛い。癒しだ。そして、絶対的に、世話が必要だった。
この二人を放置などできるわけもなく―――――赤ん坊を見かねたヒューゴがてきぱき世話をするのを見て、その時もフィオナは呆れた表情で言ったものだ。
―――――あなた本当に悪魔? どちらのお母さま?
「懐かしい話ね」
そこでようやく、馬車の中で座っている今のフィオナの顔に、笑顔が戻った。
「ふふっ、誰も信じられないって言ったあたしに、あなたが言ったこと、覚えてる?」
ヒューゴは首を傾げる。
正直、当時のことは本当に途方に暮れて必死だったから、よく覚えていなかった。
「なんか色々言った覚えはあるけど、ほんと必死だったからなあ」
ううん、と首をひねれば、フィオナは楽し気にヒューゴの口調を真似て、言った。
「『人間が信じられないなら、悪魔はどうだ』って。言ったのよ」
…言っただろうか? 全く覚えていない。だが、ある時ふと。
我が子以外のすべてを拒絶するように、棘だらけになっていたフィオナの雰囲気が、魔法にかかったかのように、弱く萎んだ。
命を投げ出さないか、という心配のあまり殴られるのを覚悟で―――――彼女にはよく殴られた―――――顔を覗き込めば。
滂沱の涙を流しながら、幼子のように泣きじゃくり、小さく彼女は呟いた。
―――――たすけて。
もしかすると、その時なのかもしれない。
フィオナが言った、バカみたいな台詞を、ヒューゴが口にしたのは。
フィオナは楽し気に笑い声を立てた。
「ほんっと、呆れる」
「悪魔なんて人間よりなお悪いわ、とか、よく引っ叩かなかったね?」
ヒューゴとしては、その方が驚きだ。
だが、悪魔の方が安心できた、とは―――――どれだけ、フィオナが追い詰められていたのかが分かって、胸が痛む。
「倒れたんですか? 母上が?」
最近のフィオナは健康体そのものだ。槍をもって駆け回るほどには。
ゆえに、そんな彼女が倒れたと聞いては、不安にもなるだろう。
それでも真っ先に心配するのが母親の体調不良の件とは、そういうところは、この皇子の得難い美質だ。
「今のフィオナは健康そのものだよ」
なんとなく頭を撫でれば、くすぐったそうな顔で黙り込む。
跳ねのけられることがなくてよかった。ちなみに、ディランの銀髪は、とんでもなく手触りが良い。
ヒューゴは手を離せなくなった。
「昔の話よ、ディラン」
ディランの頭を熱心に撫でるヒューゴの手を見ながら、
「にしたって、解せないわね」
フィオナな首を傾げた。
「皇室の人間に近衛がつくのは仕方ないとして、あなたである必要はないと思うのよね」
「ああ、それは…」
言いさして、ヒューゴは納得。
フィオナはディランの面倒を見る要員としてでなく、ヒューゴが今回の公務に護衛として派遣された理由を聞きたくて、馬車の中へ誘ったのだ。
「どこから話すべきか…そうだなぁ、先の宴でどんなことがあったかは知ってるか?」
いくら皇后が皇帝のパートナーだったとはいえ、皇妃たちも宴の参加が許されないわけではない。だがフィオナは参加しなかった。
それならそれで、情報収集くらいはしていると思ったのだが。
「そりゃもちろん。珍しく、陛下が前に出たらしいじゃない? 寵を受ける悪魔卿って言えば、有名よ」
今更だけどね。
肩を竦めたフィオナに、ヒューゴ。
「狙いはそこじゃないか?」
「そこって?」
「寵を向ける騎士を、陛下がわざわざ護衛につけた皇妃と皇子、となれば…ほら、どう?」
とたん、フィオナの顔からからかいが消えた。
「―――――ちょっと」
声が低くなる。
「私は、ディランを危険な後継者争いに放り込むつもりはないわよ」
「それ、俺以外の前では言わないようにね」
知っている、フィオナはそういう女だ。ただ、彼女の想いとは裏腹に。
「ディラン殿下が優秀過ぎるんだよ」
今、ヒューゴの膝の上に可愛らしく座っている皇子さまは、能力・気質共に群を抜いていた。
ヒューゴなどはつい、子ども扱いしてしまうが、うっかりそのような扱いができない程度には、普段のディランは立派な皇族である。
四歳であったとしても、オリエス皇室の子供は、成長が速いのだ。
大の大人でも、この子の命令には逆らい難い様子を、遠目に何度も見たことがあった。
どうも、ディランは幼い頃のリヒトを彷彿とさせる。
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