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幕・109 罰を望む
―――――じゃ、リヒト?
無造作に契約者へ歩み寄りながら、ヒューゴ。
―――――俺がつまみ食いしようって気も起こさないくらい、お腹すかないように、してもらわないと。
さすがにちょっと、気分の悪い言われ方だった。たまにリヒトは、そういう発言をする。
ただし。
そうすることで、ひどくしてくれ、と逆に誘われている心地にもなる。
痛みを与えて、それが抜けないようにしてほしいとばかりに。
ヒューゴを縛り付けている罪悪感からか。それとも。
…不安からか。
だいたいいつも、リヒトが求めるものは、許しではない。
罰だ。
―――――どうすればいい。
ヒューゴから漏れ出た怒りの気配に、リヒトがより以上冷然と応じた、その時。
ちゅ。
隙を突くように、ヒューゴはその唇に唇を重ねた。
すぐ離れたが、リヒトが目を瞠る。
呆気にとられていた。
それはそうだろう、ヒューゴはキスを好まない。
それなのに、この状況で、自分から。
リヒトの目と目を合わせ、ヒューゴはニッと笑う。
相手を屈服させるための喧嘩をするようなセックスも好きではあるが、ヒューゴはこれからリヒトと離れなければならない。
離れている間、先日魔塔で感じたような不安に陥ることは避けたかった。今喧嘩はしたくない。
だから、挑発には乗らない。
とはいえ。
もちろん、罰は受けてもらう。当然、ヒューゴにとって、楽しい方向で。
ひとまず、リュクスに言われたとおり、ヒューゴはリヒトのご機嫌取りに走った。
リヒトはキスが好きだ。
ヒューゴとしては、口と口を合わせる行為など、血と肉を咀嚼しようとしているとしか感じられないが、最近楽しみ方が分かってきた気がする。
―――――飴玉を舐めていると思えばいいんだ。
ヒューゴが改めて唇を重ねても、リヒトは抵抗しなかった。ただ、少し。
なぜか、わずかに眉根が寄って―――――そんな顔をすると、どこか、苦し気で。
いやなのだろうか。そんなふうに思う、ヒューゴの気持ちと裏腹に、リヒトは目を閉じた。
触れる。
ふわりと唇の感触。
蕩けそうな柔らかさ。
ヒューゴは不要に力を入れそうになり、寸前で堪える。痛くしたいわけではない。
リヒトの唇が少しカサついていることが気になったが、すぐ重なった唇の湿度で溶けて消えた。
ぎこちなく、リヒトの唇が開く。
誘われるまま舌を差し込んだ。
すぐさま、リヒトの舌を絡め捕る。どういうわけか強い戸惑いの中にいるリヒトが、それでも応じようとした。
だが、その動きを待ちきれず、痺れるほど強く吸い上げる。
ヒューゴの舌に、リヒトの体液はとことん甘く感じる。
リヒトが強く快楽を感じれば感じるほど、溺れれば溺れるほど、なお一層。
甘い…そう、これは間違いなく飴玉だ。
そこに含まれた神聖力のせいだろうか? 遠慮なくすすり上げ、嚥下する。
そのすべてが、ヒューゴの力になっていく。
容赦なく満ちていくこの感覚は、世界のすべてを手にするようで、同時に、ヒューゴは絶対的な捕食者で、リヒトは餌、この根幹が決して揺らがないのだと突き付けてくる感覚に、ひどく虚しくもなる。
…虚しい?
どうして。
確かに掴んだその感情は、しかし、すぐにぽろぽろと溶けて崩れて、見えなくなった。
ヒューゴにとって、リヒトの力が最も滋養となる食物ならば、対して、リヒトにとってヒューゴの体液は強烈な媚薬だろうか。
リヒトの足がふらつく。
膝から、たちまち力が抜けた。
ヒューゴは咄嗟に、崩れ落ちそうになったリヒトの腰に手を添える。
支えた。もう一方の手で、彼の尻をわし掴み、座り込むのを防ぐ。
掴んだ肉を、痛みを呼ぶ寸前の力で乱暴に揉みしだけば、びくりとリヒトの腰が跳ねる。
甘く震える息が、リヒトの鼻から抜けた。
心地よさげに足が動き、ヒューゴの足に摺り寄せてくる。それを感じながら、
―――――リヒト、リヒト。
唇が掠める至近距離で、ヒューゴは繰り返し呼び掛け、ぐずぐずに甘やかす声で囁く。
―――――そんなに心配なら、痕をつけたらいい。
―――――あ、と…?
崩れ落ちそうなリヒトから、ヒューゴは手を離した。
あ、とリヒトは咄嗟にヒューゴの背にしがみついたが、とん、と尻が背後の執務机に乗っただけで終わる。
分かっていて手を離したヒューゴを、リヒトはわずかににらんだが、その程度の意地悪は許してほしいものだ。
それでも、ニッと笑って見せれば、リヒトの表情から毒気が抜ける。
そのくせ、恨めしそうな色が黄金の目に浮かぶのはなぜだろう。
まあこの様子なら、さして怒っていない。
ヒューゴは、すぐには答えなかった。
代わりに、自分の騎士服の胸元を寛げる。
見せつけるようにゆっくり。
ふ、と自然にリヒトの眼差しが、露な胸元へ吸われた。
褐色の肌を、自分から見せに行く形で、片手で一方の襟を引っ張り、
―――――見えるところにさ。キスマーク。
ヒューゴは不敵に笑い、誘う。
ヒューゴはセックスが嫌いではない。むしろとても好きだ。
だが、相手が誰でもいいと言うわけではないし、ひとりと関係を結んだなら、他とするのはなんだか違うと言う感覚があった。
リヒトがいる以上、他とするつもりなどないが、所有印でもつければリヒトが少しは安心するのではないかと思った結果の台詞だ。とはいえ。
神聖力の鎖が全身にまとわりついている以上、これほどの所有の証はないわけだが。
―――――いいのか?
今更なことに、リヒトはどういうわけかお伺いを立ててきた。
どういうわけか、リヒトはヒューゴにキスマークをつけたことは、あまりない。
そういうことをしようとする以前に、ヒューゴの手によって訳が分からなくなるからだろう。
ヒューゴは小さく笑う。
―――――どうぞ。
刹那、リヒトはヒューゴの背にしがみついていた手を離し、ヒューゴの胸倉を掴み上げた。
今にも殴りかからんばかりの勢いに、ヒューゴが面食らうなり。
痛―――――っ!
ヒューゴは心の中で叫んだ。リヒトは吸うどころか、噛みついた。
ヒューゴの鎖骨辺りに。
歯を立て、その後で。
ぢゅ、と強く吸い上げる。これも痛い。少し涙目になるヒューゴ。痛いの嫌い。
我慢して、きゅっと口をへの字に引き結ぶ。
ヒューゴとて、リヒトを噛んだことがないとは言わない。
が、こんなにはっきり歯形が残るような噛みつき方をしたことはなかった。
閨の話などしたことはないが、彼の妻たちだって、リヒトに噛み癖があるなどとは言ったことがない。
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