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幕・116 敵か味方か

ともすれば。 ヒューゴがフィオナの護衛につくと事前に知っていれば、このようなことは起こらなかった可能性はある。 彼の後ろに皇帝の影を見ない者はいない。 下手をすれば、フィオナを襲った側の罪が重くなるからだ。 そう、今のように。 だが、ヒューゴがフィオナの護衛につくと決定したのは、今朝方の話。慌ただしい状況だった。 結果、襲撃者たちにもその黒幕にも、この情報は伝わらなかったようだ。 ヒューゴの問いに、襲撃者たちは全員、青ざめた。 ヒューゴとしては、虎の威を借る狐の気分だが、それで何かを守れるなら遠慮はしない、大いに借りよう。 「しかもここには、皇子殿下も同行なさっていらっしゃる。にもかかわらず」 ヒューゴは少し身を引き、ディランの姿を衆目にさらした。 その姿は愛らしいが、毅然と立つ姿からは、冷たい怒りが滲んでいる。 母が侮辱されたのだ、当たり前だろう。 「皇妃殿下を堂々と侮辱なさったものだ。…覚悟の上でしょうね?」 ヒューゴの顔から、笑顔が消えた。 それにどんな効果があったものか。 「っお、お許しください!」 「おれら、頼まれただけなんです!」 「金をやるから、大通りで騒げって!」 襲撃者たちは、必死に保身に走る。 口々に叫ぶ声に、周囲からフィオナへ飛んでいた大衆の目が、意味合いを変えた。 敵意と侮蔑から、同情と保護へ。 ―――――弱者を虐げる悪女から、他者の悪意によって陥れられようとしている高潔な女性へ。 自分の命が助かる上に金がもらえる見世物だったからこそ、襲撃者らは堂々としていたのだ。 だが相手が皇帝となれば、下手をすれば命が露と消える。 彼らが自身を守るために足掻くのは当然だろう。 第二騎士団の団長を、ヒューゴは一瞥。彼は頷き、 「おい」 数人の配下に命じ、喚く襲撃者を引き据え、大通りから連れ出していく。 手配しながら、彼はヒューゴにだけわかるように、親指を立てて見せた。 こんなふうに、場に応じて指揮権を快く譲ってくれるから、一緒に仕事をしやすい男だった。 黙って待っていたフィオナに、店舗へ向かう道を譲りながら、ヒューゴは小声で囁く。 「アレの根も、いい加減、引っこ抜いておきましょう」 アレの根―――――即ち、嫌がらせ。 襲撃者たちがあの様子なら、案外早く依頼者を突き止められそうだ。 その根を確実に抜き取って燃やさなければ、この嫌がらせはまた続くに決まっている。 フィオナは一瞬、複雑そうな目をヒューゴに向けた。 結局、口に出しては何も言わず、 「…行きましょう、ディラン」 息子へ声をかける。 ディランは一度、ヒューゴを上目遣いに見上げ、母の後を追った。 「はい、母上」 目的の店舗へ進みだす母子の後ろに続き、ヒューゴは周囲の気配を探る。 (…ふ、ん?) 皇宮からついてきていた気配は、まだ消えていない。 もちろん今の襲撃者たちの分は減っているが、気配からして、 「敵か味方か分からないな…」 先ほどの騒動の折、まだ残っている気配は、飛び出してこようとした感じもあった。 しかもそれは、襲撃者たちに与する動きではなく、フィオナを守ろうとする動きだった。 周囲を探るヒューゴの様子から、何を察したか、 「まだいるのね」 フィオナが小声で声をかけてくる。 「こっちは、出てくるかどうか迷っている感じがありますね。ひとまず、様子を見ますか」 切実そうな雰囲気はあるが、害はなさそうだ。 「これはこれは、皇妃殿下!」 店の扉まであと数歩、と言ったところで、扉が内側から弾けるように開いた。 ぴたり、フィオナの足が止まる。 同時に、ディランを庇うように彼女の身体が動いた。 中から揉み手せんばかりの勢いで出てきたのは。 「お越しになるとはつゆ知らず、もてなしの準備も整っておりませんが、よろしければどうぞ中へ」 身なりの整った壮年の紳士だ。 それなりに体格が良く、清潔な身なりから、女ウケはいいだろうと思われる。 ただ経験豊富でそれなりに汚い道も知っている商人らしい生臭さもあって、それを人間らしいと取るか、そこに汚らわしさを感じるか、で人物評価が割れそうな男だ。 台詞も少し皮肉気なのが引っかかる。 翻訳すれば、いきなり来るなよこの野郎、だろうか。 ―――――なんにせよ。 即座に、ヒューゴはその商人を狡猾と分類。なぜなら、 (今の騒動の最中、フィオナを守るべく中に入れるどころか、結果がどうなるか見守ってから行動した。いけ好かない) 今のように、大衆がフィオナを受け入れた雰囲気がなければ、彼は自ら扉を開けたりしなかっただろう。 否定的な空気のままなら、留守を装ったかもしれない。 そうやって、周囲の自分への評価をコントロールするわけだ。底が透けて見えた。 人間が信用できないからこそ、フィオナは今回の抜き打ち視察にこの店を入れたのだろう。 今まで訪れたすべての店に、なんらかの問題があったのと同様、この店にも色々ありそうだ。 「久しぶりね、店主。…相変わらずですこと」 フィオナが少し言い淀んだのは、きっと、彼女らしい歯に衣着せぬ言い方をする寸前だったに違いない。 (よく堪えたなぁ) 彼女が被る猫も立派になったものだ。 感慨深く見守るヒューゴの視線の先で、フィオナは中へ招き入れられる。 その間に、フィオナはこれまで通り、ディランに店主を、店主にディランを紹介した。 彼らの後に続き、店内に足を踏み入れたヒューゴは。 咄嗟に、強く拳を握り締める。 フィオナとディランの手を引いて、無理やりにでもここから出ていきたくなったからだ。 だが、そんなことをしてしまっては、ヒューゴにはうまい言い訳などできないし、フィオナたちにも迷惑がかかる。 それに、曖昧な感覚のままに状況を説明すれば、店に見当違いの悪評が立つかもしれない。 …慎重に行動しなければ。 なにも、焦る必要はない。 まだ、事態は切羽詰まっていないはずだ。 それでも、ざわざわと腹の底が落ち着かなくなる。 誰にもそれと悟られないよう、ヒューゴは店内に視線を巡らせた。 感じ取ってはいけないものの気配を、そこかしこから感じる。 無論、皇都全体に、呪詛の気配ははあるが、それ以上に―――――この店は。 また、異様な感じがあった。それに鼻先に漂ってくる、このにおいは。 視界の端で、フィオナは、いつも通り、つんと澄ました怜悧な表情で店内を一瞥。 ただ、紺碧の瞳には思いやりをにじませ、従業員たちに丁寧なねぎらいの声をかけている。 彼女と、物珍し気なディランの様子を見守りながら、ヒューゴは。 (…これは…) 状況を細かに理解していくにしたがって、次第に落ち着けなくなる。 魔塔の魔法使いがいれば、同意しただろう。 だが、店内に魔法使いがいる気配はない。 そしてようやく、待つのに焦れた店主に誘われ、フィオナは奥の部屋へと足を向けた。 その流れの中、店主からヒューゴへ目が向けられる。 「…それでは、こちらの騎士さまが、今皇都で話題の、」 だが、ヒューゴには続く言葉まで待てそうになかった。 奥の応接室の一つに入れば、もう、口火を切ってもいいだろう。 店の中を見学しながら、応接室へ通される、たったこれだけの、今まで訪れた他の店で起きたのと同じ、判を押したような行動の中。 ヒューゴの腹の底で渦巻く、異様に厭な心地は既に爆発寸前だった。 店内に漂う空気のせいだ。 普通の人間には分からないだろう。 しかし、ヒューゴの神経に、その異様さが恐ろしくはっきりと噛みついてくるのだ。 ねっとりと全身に湿気た何かが絡みついてくるようで、あまりの気持ち悪さに、店そのものを壊したい衝動を必死にこらえる。

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